第三話:ロバに乗った少年と聖獣
『ケモノアシの森にある五角形をしたミカエリスの泉の畔に生える、丸みを帯びた双葉の草に浮かぶ朝露を吸う水色の蝶の近くにだいたいいる、顔が馬で体毛が虎模様をした脚の短い獣が好んで食べる、腰が括れた黄色い野菜、“ミカエリスのニンジン”』とやらを採るため、見習い騎士メグナツはその森を訪れていた。移動手段はあのロバだった。全く命令に従わなかった雌ロバであったが、使者が来てから急に心を入れ替えたように働き者になっていた。貸し出されるはずだった馬はというと、あれからすぐに戻ってきた兵士の一人が使者から事情を聞いたらしく、そのまま乗って行ってしまった。
「霧が消えた。あれか……?」
前方に開けた景色を見出して、メグナツは独語した。長らく視界を遮っていた霧がそこだけはじかれたように消えていて、五角形を形成した泉の全景が一望できる。
「ありがとう、カーティンベル」
メグナツは道案内をしてくれた小さな森の妖精に礼を述べた。
その妖精は人語を話さないが、意味は伝わったらしくニコリとしたようだった。背中に生えた透明の羽根を開閉させるたびに、虹色の残滓をまき散らす。大きさは子供の掌に乗るほどで、人間の少女をそのまま小さくしたように見えるこの妖精は、メグナツが唱えた呪文によって現れた。それが実現できた経緯はこうである。
祖父の代理人に決まったメグナツは、出立の前に師事している騎士のもとへ、伝書鳩を飛ばした。すると翌日の早朝、弟子の一人である少年が家を訪問しにやってきた。汗にまみれた顔で息を切らすその少年は、休まず馬を疾駆させてきたらしく
「ガーシュ様がこれを渡すようにと……!」
師匠の騎士に頼まれた物をメグナツに渡した途端、騎手、馬ともに地面に昏倒してしまった。彼らはメグナツら一家の手によって、それぞれ介抱された。忠実であるとはいえ、尋常ではないその少年の慌てぶりから危惧の念を抱いたメグナツは、受け取った包みをその場で広げていた。固さと、少し重みがある。包んでいた布を広げて出てきたのは
「“初心者のためのわかりやす〜ぃ魔法の手引き。カッコ、ふりがなと親切な解説付きッ! カッコ閉じ”」
という題名のなにやら怪しげな書物であった。
「何だこれ?」と頁をめくってみると、見たこともない記号のような文字が並んでおり、その横にフリガナ、さらには脇に解説が書かれていた。
数時間して少年がうなされるように寝台から飛び起き、メグナツは彼からことの詳細を聞かされた。それでようやく怪しげな書物を渡された理由が明らかになった。
ケモノアシの森はその全域を乳白色の霧が覆っているため大変見通しが悪く、目的地に辿り着くのはおろか、帰還できない恐れもある。森が呼吸する時、一時的に霧が減少することもあるらしく、ガービネはまさにその時に森に侵入し、無事帰還したようだが、メグナツにそれを待っている時間はない。それらのことを危惧した師の配慮によって、道案内してくれる妖精を呼び出す魔法が記述されたこの魔法の手引きなる書物が届けられたのだという。そんなわけでメグナツはその書物を使って、妖精カーティンベルを呼び出すことができたのだった。
カーティンベルに命令してはいけません。
気性を荒げれば去って行ってしまいます。
黙って付いていくだけで泉に辿り着くことができるのです。
しかし彼女は邪心を持った人間を見抜き、そういう人間は決して泉へと導きません。
注意事項にはそうあったが、純粋なメグナツはこうして無事にミカエリスの泉に辿り着くことができた。五角形の泉。丸みを帯びた双葉……双葉……
メグナツは鞍上から泉の周辺を見渡した。祖父は順調にことが運んでいると思い込んでしまった。故にマトラが食べている偽物を持ち帰った可能性がある。二度と失敗は許されない。メグナツがしくじれば……愛馬ハイカラ号の命運がかかっているのだ。
「あれ? カーティンベル……」
探しているうちに傍らを飛んでいた妖精の姿が消えていることに気が付いた。メグナツは少し寂しい気持ちになったが、ぐずぐずしてはいられない。自分を奮い立たせると彼はロバから降り、背中に背負った雑嚢からある物を取り出した。『魔法の手引き』である。
“泉に着いたらここに書かれた呪文を唱えよ”
頁の間にそう書いたしおりがはさんであった。その頁を広げ、そこに記された呪文を唱える。
「チャンニーガジーチェンシーチャンネーノモエモエケーデリロリロー、チャンニーガ……」
呪文の詠唱を終えるが、すぐに変化は見られなかった。
「何に変身するんだろう……」
頁の解説文には変化の術という表記があったが、続きは水でも零したのか印刷の文字が滲んで読めなくなっていた。
「なんか苦し……あれっ!?」
メグナツは自分の声が高くなっていることに気付いて瞠目した。
「あっ!?」
手を当てた胸は柔らかく膨らんでいる。
「わ、わわわゎゎ……何だよこれ〜〜っっ!?」
焦り、混乱し、興奮したメグナツは
「どうしようどうしよう」とあっちへこっちへ小走りした。無意識だが動作が少女っぽくなっている。
「落ち着け〜落ち着け〜……」そう心に念じながら、両手を胸の前でぎゅっと握る。まさに少女。持ち前のアーモンド型の大きな瞳を丸めて、さらに大きく見張るその姿は“美少女のリス”そのものだ。
「……っ!」
メグナツは頭を振った。こんなことをしている場合ではない! 表情を凛としたものに替え、“少女メグナツ”はロバの腹帯を締め直した。
「っ!」
苦しかったロバは不服の眼で睨んだが、メグナツは
「行くぞ、リエローっ!」
有無を言わせず、軽やかにその背に飛び乗った。メグナツ本来のやんちゃな少年らしさは残っているようだ。少女メグナツは手綱を操り、再びロバでニンジン探索を始めた。
空が茜色に染まる夕暮れ時。
「あれは……っ!?」
この五角形は魔力でも秘めているのか。あの獣は魔法でその姿を消しているのか。全体が見渡せるはずなのに見付けられなかった獣が、まるで最初からそこにいたとでもいうように、呑気に何かを喰んでいる姿が目に入った。
「よし……」
メグナツは背後からゆっくりゆっくりと歩を進めた。
「ガーシュ様を信じるんだ」
メグナツは心の中で自分に言い聞かせた。
“これでマウガルの魔法を無効にできる”――これは使いの少年の口から聞いたことだった。師ガーシュからの伝言である。メグナツの師である騎士ガーシュは、修行か否か世界各地を旅していたらしく、雑学や経験に富んでいる。そんなわけでメグナツにいろいろと雑学的な情報提供をすることができたのだ。
メグナツは適当な立ち木を見付けると、ロバから降りてその幹に手綱をくくり付けた。前方数メートル先に獣がいる。メグナツは息を潜め、足音を立てぬようにしながら徒歩で前進した。獣は気付く様子もなく、地面にある何かに夢中になっている。後ろ姿は餌を貪る犬か小熊のようだった。ただその体毛が、犬や熊にはあり得ない見事な虎模様なのだ。
「可愛い……」
ふるふると無防備に揺れる尻が、愛くるしく見えた。
あれはまやかしだ! ガービネがここにいたらそう言うだろう。油断していたら、まんまと酷い目に遭わされた彼だからこそ言えることだった。
メグナツは獣にあと七歩という距離まで接近した。近付くにつれ、バリバリ、ボリボリと固い物が砕けるような音が聞こえてくる。獣の足下には葉のようなものが見えていた。
「じゃりッ」
「わぁ!?」
突然獣がくるっと身体ごと後ろを向いた。静けさの中に、踏まれた小石や砂利の摩擦音が小さくだが鮮明に響く。メグナツは一瞬、自分が音を立ててしまったと錯覚した。
「な、何だよ〜?」と反論の眼差しで獣を見返すが、足はそのままで上半身は後ろに傾いていた。急斜面を下っている時のような姿勢である。
「……」
「……」
まだミカエリスのニンジンに手を付けていないメグナツだったが、あまりに凝視してくる獣の眼に思わずうろたえてしまった。その顔は確かに馬に酷似していた。中型犬ほどの決して大きくない肢体に、不釣り合いな巨願。上目遣いで物言いたげな、不服の表情が実にふてぶてしい。後ろ姿を見て可愛いと思ったが取り消しだ! こいつは……
メグナツは未遂であり理不尽な憤りを覚えながらも、この獣に畏怖の念を抱いていた。小さな獣がその体の倍以上に巨大に思わせる異様な威圧感を出していたのだ。
獣がゆっくりと数歩前に進み出た。憎悪に満ちた双眸で、自分より背の高い敵を見据える。
「不審ナ人間メ、コノ神聖ナルケモノアシノ森ヲ脅カシニキタカ!」
弦楽器のバンジョーさながらの乾いた声。後退する少女。
「違……」
メグナツに答える余地も与えず、獣は短い四肢で力強く大地を踏み締めた。
その直後。
「チャンネーパイシツインゲンデワイコーワイコー、チャンネーパイシツ…………トラトラデマウマウ〜〜〜〜っっ!」
「っ!」
メグナツの瞳孔が開いた。心臓が強い衝撃を受けて一瞬息が止まる。まるで鉄鎚で打たれたかのようなその衝撃は、心臓を砕かれたかと思ったほどだった。
「く、苦しい……っっ」
メグナツは胸を押さえた。強張った手で掴んだ服がくしゃくしゃになる。
「オ前ニ呪イヲカケタ。最初ニ失敗シタコトガ、トラウマニナルヨウニ」
「そんな……」
愕然として青ざめるメグナツを残して、マウガルは森の奥へと姿を消した。
「なんで……」
メグナツは胸を押さえて途方に暮れた。二つの苦しみがその胸を締め付けていた。肩を落として内股で頽れ、足の裏を外側に向けて地面にへたり込む。
「おかしいな、なんでこんなに苦しいんだろう……」
ガーシュ様。
少女の大きな瞳から一粒の雫が溢れ、頬を伝った。事実を認めたくなかった。悲しくて、哀しくて、自分が惨めに思えてくる。その生き様、人柄が好きで憧れて、ずっと信頼を寄せて師事してきた男の言葉と現実が異なっている。それを受け入れたくなかった。それでも尚、師のことを疑ってはならないと自分を責め立てる、もう一人の自分がいた。
「ガーシュ様は嘘なんか付かない!」
涙で頬を濡らしながら地面に拳を叩き付ける。非力な打撃は音も軽く、痛めたのは自身の拳だけであった。
「……っっ」
空はすでに茜色に紫を混ぜたような暗色に染まりつつあった。少女はわぁっと号泣して、暮色を増す空としだいに低下していく大気の温度を肌に感じながら、同時に激情が鎮まっていくのを自覚した。涙でふやけた目元に残る涙を拭い去り、気を引き締めて機敏に動き出す。しゃくりあげながら陽が落ちて薄暗くなった地面から細かい緑の葉の束を引っ張った。さらに残っている同様の葉を片っ端からがむしゃらに引っ張る。引っこ抜かれて出てくるものは皆同じ色と似たような形のニンジンだった。その中に黄色く括れた形をしたミカエリスのニンジンらしきものは見当たらない。それでもメグナツは持ち帰ることにした。入るだけ袋に詰め込んでいく。ほとんど無心に近かった。それを背中に背負い、足を踏み出す。
「あっ……!?」
重さに耐えきれなかった少女の身体が後ろに傾き、地面に尻餅をつく。
「うわうわうわぁぁ!」
その拍子に袋の口が開いた。中からニンジンが地面に放り出され、横に倒れて一斉に泉のほうへ向かって転がっていく。あっという間にほとんどが水の中に消えた。メグナツは顔面蒼白になった。
次の瞬間。
「?」
水没する寸前の所をすくい取ったニンジンを見て、メグナツは表情を失った。ニンジンが黄色くなっている。さらに、人間――女体のように腰が括れていたのだ。
「ミカエリスのニンジンだ……」
ぽかんと開いた口がすぐには塞がらなかった。数秒の間を置いてから、メグナツはせっせと拾ったニンジンを泉に浸した。すると
「やっぱり」
同じ現象が起こった。メグナツは残りの1本も含めて全部泉に浸すと、その3本を詰めた袋を背負って駆け出した。
メグナツはロバを繋いだ木の前に着くと、背中に背負った袋から魔法の書を取り出した。しおりを挟んだ頁を開き、道案内をしてくれる妖精を呼び出す呪文を唱え……
「んっ?」
自分の声が元に戻っていることに気が付いた。さらに胸を触ってみると、軟らかい膨らみが消えて平らになっていた。魔法をかけてから少なくとも5分は経過している。時間が経って、魔法の効果が消えたのかもしれない。さらに
「あ、苦しくない……」
妙な心臓の圧迫感も感じなくなっていた。
なんだ、そういうことだったんだ……
心に生じた疑惑の曇り空が、快晴に変わる。身体が楽になり、すっかり気持ちも明るくなったメグナツは満面の笑みを浮かべた。木の幹に繋いだロバの綱を解き、その背に乗る。そして妖精カーティンベルが現れると、彼女に続いて少年メグナツはミカエリスの泉を後にした。




