キミのいないハコ
追加公演が最終に向かっていて、ルークは乗りに乗っているようだった。端から良い演奏ばかりしてきていたが、日本のあちこちで旨いご当地名物を食べて「素晴らしい!」と感動した分だけ観客に音楽をお返ししている。はてさて自分の調子はというと、口論が起きた当日以外はまずまずといったところだ。給料分の仕事はしてある。問題無い。
合間合間にルークへ取材が入っていて、それは記事にされたりテレビで一時間程度のドキュメントにまとめられていたりする。演奏風景の時に自分も写されて、ルークの人となりや仕事についてコメントを求められた。良い仕事相手だとか、やる気が引き出されるとかいう無難な答え。しかし取材者も視聴者もそれを求めているのだから正解だろう。自分もメディアには出させてもらっているがルークに比べたら知名度もたかが知れている。
ーー鷹野君出てたね! 見た! 永久保存! 生で観に行くからガンバってね!!
森矢の姉・さやかからは【!】マーク満載の嬉々としたメールが届いた。彼女も弟の友人を厚く思ってくれていてこうして連絡をくれる。偶にお母さんから差し入れも。ありがたいなと、今日も今日とてその差し入れのマドレーヌをぱくり。甘くて、旨い。
森矢の父親もテレビや雑誌は目にしていてくれているらしく、さやかからそんな話がされると何とも照れくさい。実の親より、マメな人だ。ーー実の親はテレビや雑誌なんかチェックしてるかどうかすら知らない。
「絶好調だなルーク」
リハを終えての休憩。そう言ってやると彼ははにかんで「そうかな。自分でもそう思うけど言われると嬉しいな」と応えた。
「いいもん食ってきたから?」
「それもあるね。日本食というか、日本で食べる物はどこのもおいしかった」
「どこもホームだから、じゃねえの」
「Yes. Like mom's cooking.」
愉しそうだ。
「もうじき最後になるなんて悲しいよ」
「次はどこだっけ。欧州?」
「そう。ドイツも行く。フランスとスペインとーーその次に凱旋公演だ。待ち遠しいよ」
ルークの正真正銘のホームグラウンドはイギリスだ。島国のようなあの国にはまだ行った事がない。遠いから。
「英雄の帰還だな」
「ははは、そう思ってもらえてたらいいけどね」
「そっからはしばらくゆっくりするんだろ? 大分稼いだわけだし」
「冗談。僕に入ってくるのは鳩の涙だよ」
「雀、な」
「そうか、そうだっけ」笑い。「……ケイも来ればいいよ。案内する」
「観光だけならな。でもなー……春にまた番組枠貰えるんだよ。ラジオだけど」
「素晴らしい! クラシックの?」
「だろうな。でもギターって何でもいけるからオールマイティな雰囲気っぽいわ。ギター談義とかあれこれ面白そうだから頑張る」
「そうなのか……」
仕事に生きる君は美しいよ、なんて。こんなイケメンに真正面から美しいなんて評されて喜ぶのは間違いなく女性だ。友人としては、微妙な気分。
「イギリスってさ、飯がイマイチって話ホント?」
「Oh…【旨い飯がなかったらあの国があんなに栄えたはずないだろう?】と言って回るのが僕の宿命らしいね」
やはり実際は違っているらしい。それはそうだろう。なら、観光の行き先の一つに考えてもいい。
ゆったりとパイプ椅子に腰掛けているだけなのにルークははっきり言って絵になる。物は関係なく、言わずとも綺麗なものは【自分は綺麗だ】と主張するのだ。彼は女性にも男性にもウケがいい造形をしている。どこか中性的な空気を纏う英雄。
「ケイ。僕は君と出会えて本当によかったと思ってるよ。留学先で、君みたいに面白くて格好いい人と会えるなんて思ってなかったから」
「もう別れの挨拶か? 気が早いな」
「実は、僕はもうじき独身じゃなくなる」
唐突な話の連発だ。
「何だよ! めでたいじゃねえか! もっと早く言えばよかったのに」
「ありがとう。最後に君に抱かれたかったんだけどね」
「ははは! 面白い事言うな! うーん……餞別ついでに、いいぜって言ってやりたいけどなあ」
生憎男には勃たない。どんなに綺麗でも。ルークもそういう冗談が口にできるタイプの人間だなんてファンは知らないんだろうな。
「相手は? どんな子?」
「彼女は昔馴染みでさ。まだ公にはしてなかったんだけどその内ニュースにもなるんじゃないかな」
「おめでとう。女泣かせも遂に年貢の納め時ってわけだ」
「ネング?」
「年貢。税金みたいなもんか。……つまり、もう終わりだって事」
「結婚に人生の終焉を感じるのかい?」
「独身時代の自由よさらば、って感じかな」
「I see. ケイも結婚に不自由を感じる人だったね」
可笑しそうに笑って、ルークはインスタントコーヒーを一口。この男、しこたま稼ぎながらも意外と食は庶民的嗜好なのだ。インスタントラーメンだかうどんだかを滞在先で食べていて驚かれる事もしばしば。
「つまり、今回が独身最後の舞台なんだよ」
「そうか。……センチメンタルな気分?」
「いいや。変わらないさ。結婚しても、僕がステージに立つのは変わらない。帰れば愛を囁く人がいるのは嬉しいよ?」
「ヒュウ。いいね。お熱いこった」
「ケイは、一人でいいのかい」
……また真面目な話か。
「ルークはどうして結婚しようと思ったんだよ」
「君と出会ったからさ」
おいおい、と大袈裟に目を剥いてみせる。彼に恋愛指南しただとかはとんと覚えがない。
「それって随分前だろ。その時から考えてたのか?」
「ううん……そうだな……君は仲間を大事に思ってるだろう? ドイツで時々、寂しそうに見えた。日本が恋しいんだろうなと思った。僕は成功する為に必死だったからそういう人を顧みなかったんたよ。……でも、そんな君のギターは恐ろしく良かった。情のある、深い音だ」
「そんなの考えた事なかったな」
「音楽には喜怒哀楽がどこかに必ずあるよね。君はそのどれもよく汲み取って音にできる人だ。人に情が注げるのは、神に祈るのに似てると僕は思ってる。……君に出会って僕もこんな音が欲しいと思った。愛情を知ってから僕はこうなれたよ」
「ふうん……? ホントに神様が好きなのな、お前」
「例えが悪かったかな」笑い。「無意識なんだろうね。君は」
本当に愛する人が見つかった時の君を、君の音を、傍で見て感じてみたかったよ。
ルークはどこか寂しそうにそう言ってカップを置いた。時間だ。
「これで終わりってわけじゃねえんだから、そう落ち込むなって」
「そう……そうだね。…………ねえケイ。いつか、来てくれ。僕はずっと待ってる」
「お前がこっちに出てくる方が簡単だって。時間的にも頻度としても」
「そうかもしれないけど。偶には、旅もいいよ」
「そうだな。ツアーにはスペシャルゲストでお前を呼ぶよ」
「つまり、単純に旅する気は無いんだね?」
困った人だ、とルークはくすくす笑った。友人同士の小気味よい遣り取り。
仕事相手としての彼は素晴らしいの一言で片がつく。友人としては偶に面倒くさいが人間どこかしら面倒くさい側面を持っているものだから許容範囲。きっと向こうも同じように感じているはずで、ただ、仕事上の格の違いは傍から見たら明らかだろう。贅沢な仕事である。
「さて、舞台が呼んでる」
「そうだな。そろそろ時間」
どちらともなく腰を上げてギターをチェック。舞台袖でも最終チェックは入るがこれももう癖のようなものだ。今日も頼むぞ、相棒。
「ケイ。少し試したい事があるんだ」
何、こんな土壇場で? と目を見開く。ルークは薄く笑って「替えっこしよう。きっと面白いから」ととんでもない事を言い出した。
「何で。面白いとか求めてねえよ俺は」
「君の相棒と語り合ってみたかったんだ。頼むよ」
おいおいスター。気紛れにそんな事言い出すなよ。
しかしまあ、楽器が変わるからといってお互いさして困る事も無いのは確かだ。最後だしこれくらいはいいだろうとギターを差し出す。丁寧に受け取ってからルークも自分のをこちらに差し出した。
「これ、どこのやつだっけ?」
「留学してた時と同じ物だよ。君に前貸した事もあったね」
「あいつかあ、りょーかい。頼むぜ」
ギターは返事なんかしないものだが「まあいいけどね」と言われたような気がする。相変わらずのようだ。機嫌の良し悪しが意外と出てくる楽器。当時ルークは【これを持って舞台に上がると舞台の神様に会えるみたいなんだ。僕はまだ会えたことないけど】と宣っていた。まさかこんな所で持たされるなんて。
「……ケイの相棒は誰とでも仲良しだね。君みたい」
ルークはそっとギターのボディを撫でてみせる。挨拶のようなそれは楽器を慈しむ眼差しでなされていた。
「そうかよ。って事はこいつはお前みたいだって? 神様にも会わしてくれんのかな」
「ははっ、かもしれないね」苦笑。「もしかしたら会えるんじゃないか。……ケイなら安心だよ」
何がどう安心だと分かるのかさっぱりだった。どこそのギタリストみたく舞台でギターを壊すパフォーマンスなんかはしないけれど。
* * *
舞台から見ると案外客席に座る人々の顔がよく見える。一番前。ん? と気が付いたらしい観客にこちらも気が付いた。そりゃあそうか。ルークのいつものギターいかにも年代物という風合いだし、それを自分がこれから使うというのだからコアなファンは訝しむに決まっている。ーーさあ、どうなるかな。
拍手の間にそれぞれの席に着く。弦を確認して、アイコンタクト。ルークは泰然としている。こちらもいつでもと切っ掛けを促すために頷いて、最初の音を待つ。
ーー待ってたよ、ずっと
ぞっとした直後には指が弦に掛かっていた。始まりの音から次の音へどんどん繋がって曲になってゆく。ルークはやはり乗りに乗っていて、負けるかよとこちらも打って返した。会場の中で自分達の弾くギターの音だけが強く強く響く。アツい。イきそう。気持ちがいい。
この高揚感と震えはどこから来るのだろう。息をするのを忘れるくらいの感覚に襲われる。初めて弾くわけじゃないのに心臓がうるさい。表情筋が緩んでいるんだか強張っているんだかもよくわからないこの、感じ。
ルークのギターは以前弾かせてもらった時とはガラリと表情を変えていた。どうした。主人が違うのがそんなに面白いか。そんな事を思う間だけはあって、自分の妙な冷静さが可笑しくなってきた。ルークの音はいつも通りに思える。多分観客にもそう聴こえているだろう。傍にいるのが神様だって言うならとんでもない奴だと思う。ーー何なんだよ。おかしいのは俺だけか。
一曲終わらせるとどっと疲労感がやってきて、おい待て、と言いたくなる。まだある。まだ先があるのにこんな体たらくでどうするんだと自身を叱咤する。頼むからいつも通りやらせてくれよ。
ルークがにっと口角を釣り上げた。負けん気だけで同じようにし返してみせたものの、何て楽器を寄越してくれたんだと恨みたい。いつも、こうなのか。留学中に触った時にこんな事は無かったのに今日はやけに機嫌の波が激しい気がする。
ーーしゃらくせえ、
長く嘆息してから次を促した。ルークは悠然と弾き始める。今度はゆるりとした曲調なので聴かせどころではあった。辛い。一音一音が思うように弾けているのかと不安に襲われる。変な汗が背を伝って余計に焦る。プロだろ、しゃんとしろよ。
音の掛け合いは恐ろしいほど噛み合っていて、観客はぼうっと陶酔している風に感じる。空気がひやりとするのは自分だけなのか。何故。最初に感じた高揚感はどこに行ってしまったのだろう。あの熱をもっと感じていたかったが、過ぎたのか。
ーー舞台には神様がいるからね
ルークの言葉を信じるなら、自分はその神様とやらに今日は嫌われているに違いない。曲が終わりに近付くにつれ普段は感じない焦燥感があった。早く。早く終われ。この感じから早く解放されたい。その思いに囚われて集中できない。なのに、巧く弾かされている(・・・・・・・)。体の内側がずっと熱くて気持ち悪くなってきた。ふらりと眩暈がする。まだ、終わらないのか。最悪。普段はあんなに愉しい舞台が今日は苦しくて堪らない。何なんだ本当に。
ルークにはこうなるのが分かっていたのか? まさか。気紛れに寄越しただけだろう。あくまでギターはギターであって神器なんかじゃない。そう思うのにさっきからぞくぞくと悪寒がする。何がいる。何が。誰だ。……【誰だ】だって?
拍手の中、一人。演奏を終えた後の綺麗なお辞儀とどこかぼうっとした双眸。
曲が終わった後の拍手の中、一瞬過ぎったその立ち姿にも明確な覚えがある。そしてふっと、オーケストラの指揮者が立つ位置にその影を見留めた。てめえ、何してやがる。そんな悪態を胸中でついたつもりだったが。
「ーーてめえ、……マジかよ、森矢」
うわ言のように口から出てきた名前に自分で驚いた。そしてルークも同じように目を瞠ってこちらを見つめている。舞台上でデュオの相方が異常に汗をかいていればそりゃあ何事かと思うか。幻覚なんて見ている場合じゃないのに目が離せない。じっと、見られている気がする。
「……ケイ?」
その声でやっとそこから視線を外せた。首を軽く左右に振ってみせる。仕事はまだあるのだ。後一曲終われば自分はしばし休める。
「ケイ。ひどい顔をしてる」
こそりと囁かれた声には気遣いが含まれている。
「平気、やる」
末端とはいえ自分はプロだ。やるべき事をやってから倒れでも何でもする。友人の舞台に泥を塗るわけにもいかない。自分に嫌気が差した。これしきの事でこんなにも動揺してしまっている。
舞台でついて回る気配を、頭ではわかっていてもそれを振り払いきれていない自分を、ただ憎たらしく思う。いつまで経っても消えないもの。もう目に見える形では存在しない人。ここは舞台の上で観衆の目もあるのに涙が出そうだ。
ーー何してやがる? 今更化けて出たって何もしねえぞ俺は
まだいる気がして、また視線を戻すとやはりぼうっとした影。照明が煌々とそこも照らしているのに何の具合でそれが見えているのか恐ろしくなってきた。おかしくなったのか。どうして?
ーー何で、今なんだよ?
森矢の事は自分の中で決着がついていたつもりだ。でも、心の奥底ではそうじゃなかったのか。
いつもどこかで探してしまう。何年も森矢を思っていた矢橋の方が、歩き出してみれば自分よりもずっとスッとした顔でいる現実。人には「あいつはもういない」と言いながら、同時に自分の事も叱責していた。きっと。
「……彼を、忘れられない? 許せない?」
ルークがそっと尋ねる。自分への問いかけかと思ったが彼はこちらではなく、あの影を感じた方向に視線を向けていた。そして数秒の間。
「……ケイ、君の相棒を返そう。いつもの君じゃないのがお気に召さなかっただけみたいだ」
すっと差し出されたギターのネックを掴む。こちらからもルークの楽器を手渡して、はふ、と肩で息をついた。熱い。熱くて堪らない。観客席を見なければならないのに目が上げられないなんて情けない。
「これでいつもの君だ。大丈夫」
「……ああ、」
ルークに何が分かったのかは今は置いておく。本番であまり間が出来てはならない。もう一度深呼吸してからルークに一つ頷いてみせた。いつもの、自分。ほどなくして戻ってきた相棒は手に馴染んでいてそれだけでほっとした。
情熱的な旋律に気持ちも乗っていく。何度もなぞった旋律は心地良くて、指も軽快に絃を弾いているのが分かった。先程とは打って変わって、あっという間に曲が終わりに向かっていく。惜しい。愉しい。まだやらせてくれ。
ーー終わりには意味があるんだよ
終わりは、新しい何かが始まるのと同意だ。それの繰り返しで人生も進み、やがてどこかでピリオドが打たれる。数々の作曲家達が残した情を今を生きる者達がなぞって後に引き継いでいく作業。
ーー皆が夢半ばでさ。皆自分の一生をかけて何かを残せるってすごくない?
大袈裟に語られたいつかの話を自分はまあ確かになと安易に捉えていた。そこまで考える人間もいるんだなと興味はあったし、彼らしいなと思った。
自分は中継地点でしかない。自分は、何が残していける? 音楽の業界に身を置いたのはただ単にギターが好きだったから? それだけじゃなかったはずだ。
認めてやる。森矢の分も成功してやりてえっていう素直な気持ちもあったって。女々しいかもしれないけれど、相棒が出来なかった分、自分も後に続く奴らに遺せるだけ遺していってやるって。
ーーやっと認めた
パン、と曲が終わる。そして割れんばかりの拍手に包まれる瞬間。全力疾走した後のような疲労感があった。はあっ、と息を吐き出して、すっと目線を上げた。もう、何もいない。言うだけ言って仕舞いかよ潔い。
「ケイ、」
よかった、とルークはただ安堵の笑みを浮かべていた。堅い握手を交わして、二人で観客に向けて礼をする。再び沸く拍手。まだ一部が終わったばかりだというのに観客はまるで今日最後の曲が終わったような熱をもっていた。
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