神様なんていない
翌朝。仕事に向かう心地としては微妙に下降傾向にあった。弾く上ではそこそこ気分が上がっている方がいいのに、昨夜のルークとの遣り取りがそれを妨げる。切り替え切り替え、と一息吐いてからホールの裏口扉を押した。何人かスタッフと挨拶を交わしながら楽屋まで。
「おはようございまーす」
「ケイ! おはよう!」
「うおびっくりしたああぁぁっ!!」
ドアノブに手を掛けた所でルークの声がして飛び上がるほど驚いた。早い。いつもは楽屋入りするのがもっと遅いのに今日に限って何故。また口説かれるのかとつい身構えてしまう。
「何、何だ」
「昨日はすまなかった」
「え、あー……ああ、あれか……」
「マサに叱られたよ。悪かった。プライベートにまで押しかけて」
「や。もういいけども……」
「許してくれるかい」
「まあ、ああ……」
「よかった! ありがとう。よかった」
満足そうに何度も頷いてルークは手まで握ってくる。何だこれ新手の詐欺? 昨日の強引さと落ち込みっぷりはどこへ。
拍子抜けといってはなんだがルークはもっと押してくると思っていた。でも、今の彼は何だか浮かれているようではっきり言って気持ち悪い。宮田があの場にいたことをはたと思い出して、まさか何か余計なアドバイスをしたのかとまで邪推してしまう。あの人怖ぇえんだよな矢橋の事もあったしと目を泳がせていると、ルークが小首を傾げる。
「ケイ?」
「あー……何でも。……打ち合わせどうなってる。進めてんの」
「ああそうだ! ちょっと舞台が見たいから一緒に来てくれないか。立ち位置なんかも確認したい」
仕事モードになるとルークは本当に熱心だ。了解して、荷物だけ置いてから二人で舞台裏へ。スタッフは既に何人も動いていて、照明や音響機器のチェックに余念が無い。この追加公演も無事に全席埋まっているらしいとにこやかな笑顔と共にルークが言った。そりゃあそうだろうあんたテレビまでマメに出てとんでもなく人気だし、とは胸の内に置いておいた。ふうん、とだけ返して舞台に上がる。
観客席も今は明かりが点いていた。スタッフとどこぞのお偉いさんらしき人とが喋っていたり、取り仕切っている面子があちこちに指示を飛ばしていたりで静寂とは言い難い。
「ケイはそっちで、僕がここだね。バミングはリハの前に」
「今でもいんじゃねえの」
「うんまあ……そうか。そうする?」
スターの歯切れは何だかよろしくない。
「何で。ルークが後がいいなら後でいいぞ」
「そう? じゃあ、後がいいな」
今は箱の主が居そうだから。
主? と、怪訝に返すと「君は感じた事無い?」と訊き返された。
「霊的な話なら俺、そんな信じてねえんだけど」
「どこにでもあるんじゃないのかい? 日本でも、新しく建物を建てる時には土地の神様に祈りを捧げたりするんだろう?」
「そういうやつか。……ふーん、律儀だな」
「朝晩、神に祈りを捧げるのと同じだよ」
クリスチャンな彼らしい。生憎信心深くない人間の一人なので共感はできないが。
「そっか。なら、御祈りでも何でもしてくれ。俺、もういいなら楽屋戻りたい」
まだリハーサルまで時間もあるし、少し一人になりたかった。前回の公演から何日か空いていたので集中したいのだ。
「ねえケイ。ちょっと待って」
何、と半身振り返る。するとルークはにこりともしない。冷ややかな、真剣な双眸にこちらも顔が強張った。
「君はきっと見た事があるはずだ。何回も」
「何を。カミサマをか」
「アキヒトをだよ」
ーー何だ、それは。
「君の友人。よく組んでたんだよね彼と」
「……知ってんのか、森矢」
映像なり音源なり残っていたのを観て覚えていたのだろう。あまり驚く事じゃない。この業界にいるならマンドリンの事も多少知っているはずだが、森矢の名前を出してきたのは初めてだった。留学中には森矢の名前は一度足りとも口にしていない。ルークには関係ないから。
「……で? 何だ。関係あんのかよ」
「ケイはアキヒトとやっていた時が一番よかったと思ってるんじゃないのか。だから彼以外の相棒を求めてない。……君がもう海外に出ても無意味だって思うのは、そこには彼が居ないって知ったから?」
「馬鹿馬鹿しい。そんな女々しい理由で行ないんじゃねぇ。俺は故郷に居たいだけだっつの」
「ホーム?」嗤っている。「君が立つ場所はどこでもホームになり得る。僕だってそうだ。故郷を忘れる事はないけど現実に居続けてる場所にホームを感じるよ。何故一所に拘るんだ。ステージは世界中にあるだろう? 弾き手のホームは舞台上じゃないか」
淡々と語る声音は不気味なぐらい静かで冷たい。
「君には腕もコミュニケーション力もある。君の【God】はいつだって天から見てるんだからどこに居ても君はやれる」
「テメエの思想を押し付けんな。勝手にどこにでも帰れば? 死に場所が舞台だってんならいつでも刺してやっていいぜ」
「ケイはプロだろう。プロならそれらしくあるべきだ。君はもっと上を見てるのに実際はそれ以下の仕事ばかりしてるように見えるんだよ僕は」
「何様のつもりだよルーク。お前が導いてやるって? 俺は誰かに引っ張られて生きてくとか、御免なんだよ。俺は俺が好きなようにやれてりゃそれでいい」
「じゃあ聞こうか。君は海外にいてもつまらないと思ったのは、アキヒトがそこにいないのが分かったからじゃないのか」
「あいつはもうずっと前からどこにもいねえよっ!!」
掴みかかれるものなら、殴れるものなら殴って黙らせたい。でも人目が集まっていた。何だどうしたと何人かステージに近寄ってくる。
「あいつはそんな執念深くねえんだよ。確かに早死にはしたけど、化けて出るほど暇じゃねえ。あの世で拍手喝采、浴びてんだろ」
あの世というものがあるなら、そこで森矢は自分の音楽を披露して人々を楽しませているに決まっている。病死であって誰かを恨んで逝ったわけじゃない。そう考えているのは自分だけではない。なのに【いる感じ】がするのは自分の心の所為だ。いるわけがないのに。あるだろう? そういう事。
「でも、君には確かに感じてるだろう。ああきっと観てるとか、そういう」
「だとしてもお前には関係ない話だ。……いい加減にしてくれ。この後やんなきゃなんねえだろ? 金払ってまで来てくれる、お客様の前で。こんなぐらいで、本番で足引っ張るようになったらお仕舞いだ」
大丈夫かと訊いてきたスタッフ達にリハまで放っといてくれと言い置いてから舞台を降りる。スタン、と硬い床に降りる音だけがやけに響いて、観客席の前扉からさっさと出てしまう。廊下は薄暗く、外に出たくて出口を探した。
ガラス張りのフロアから庭が見える。外に喫煙スペースがあったので一服する事にした。ふうっと吐き出した紫煙は薄暗く宙に溶ける。腹立たしい。何も知らないルークに森矢の話をされるなんて。しかも亡霊のような扱いだ。確かに自分の中で森矢は一等大事な相棒だった。けれどそれに執着しているわけじゃない。馬鹿にすんな。
ステージには魔物がいるなんて話は古今東西ある話だ。ぞっとするぐらい上手くいった時。ああ駄目だと思う時。どちらも自身の所為だとも思うし、余程なら魔物がいたなとも思う。しかし、それを森矢の気配として感じた事なんか無い。居なくなった者を化物みたいに扱うのは違うのだ。
舞台の主に祈りを捧げる代わりに自身に喝を入れるのが自分だ。信じていないものに縋るわけないだろう。神社仏閣に御祈りなんかも禄にした事がないのだから。
気分転換に散歩でもしてやるか。半分は灰にしてしまった煙草を灰皿に入れてふと目を上げる。いい天気とは言えないが雨は夜にならないと降ってこないらしい。客足に影響しないといいが。
「鷹野」
「んあ。……あれ。師匠。何してんすか」
「おまえな……俺も今日は様子見に来るっつってたろうが」
「でしたっけ? あれー……まあいいや。え。リハっすか? 早くない?」
「お前ルークと喧嘩したらしいな。何してんだよらしくない」
「はあ、スンマセン」
「気持ち込もってねえな! いいけどさーご機嫌よろしくしとけよールークは出やすいんだから」
「そりゃメンタル弱すぎなだけっしょ。顔色窺い過ぎ〜」
「ダチ怒らせたら誰だって気にはするだろ。まーいっか、お前どうせそんな気にしてねえんだろその様子じゃ」
「ですねーまあ子どもの喧嘩みたいなもんっすから」
「だといいけど。……お前さ、誘われてるならいいんだぞ。好きな所に行って」
「師匠まで何言ってんですかもー……師匠、前は【お前なんかずっと俺んとこにいりゃいいんだよ】って言ってたくせにひどーい」
「でもな。この業界、何がどうなるかわからんのはお前も見てきたろ? 弟子が生き延びる可能性が高くなる分には、俺も引き留めやしないし」
「ご心配なく。俺まだまだ師匠とやりてーんだもん。ヤダよあんな変な奴にベッタリされるの」
師匠にはそう言ったものの。
結果として、ああ駄目だとなったのはこちらの方だった。リハも、本番も。ルークは波に乗ってとても良かったしメインは彼なのだからいいものの、正直落ち込んだ。あの程度でテンションが上がらなくなるなんて。
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