第三話/忘却と想起のクンツァイト
Time/201X,Sep,3rd-11,03,04
Side/Third Person
暗い森の中、廻は走る。
それはきっと、発作のようなもの。
走る。走る。ひたすら走る。頂上を目指して走る。
ガサガサガサと茂みを走り抜ける。その過程、笹の葉などによって廻の足が傷つけられるけれど、全く気にした素振りは見えない。
長いポニーテールを振って、バレーボールのような巨乳を揺らして、100m10秒台の俊足で森の闇を切り裂いて、走る。陰々たる夜の帳に射した一筋の光のように。
この山は頂上が空き地になっており、キャンプ場とする計画も着々と進んでいる。
廻達が通っている麓の高校からも街の絶景が一望できた。しかし、この山はそれに勝る程の絶佳な景色が展望できる。
観光ガイドブックにも小さく乗っている程のスポットで、夜な夜な天文マニアが天体観測をしにくる程。
それでは、廻も天体観測に来たのだろうか?
校舎の屋上、雫と二人で見た星空が忘れられなくて、もう一度夜空を見に山へと来たのだろうか?
答えは否となる。
彼女の眼には夜空も何も映っていなかった。
「……っ!」
山の中腹に差し掛かった所でふと、廻は足を止めた。山頂から、ミミズにも似た細い林道が、廻の足下を通過して山麓まで続いている。そこで廻は目を閉じて、耳をすます。
脳で処理する情報の60%は視覚情報だと言う。なら、視覚を遮断すれば、視覚情報の処理に費やされていた脳のキャパシティを、他の情報処理に回すことができる。
廻は空いたキャパシティの全てを聴覚に集中させた。
すると、今まで聞こえなかった音が明確な意味を持った振動となって耳に届く。
虫の声、鳥の鳴き声、木々のざわめき、小川のせせらぎ、笛のような風声、自分の心音―――――――そして、足音。
ざくっ、ざくっ、と木に隠れた道の先から、踏みしめるような音がする。
その音は、一歩一歩と廻の方へ近付いてくる。
廻は、ゆっくりと目を開けた。それと同時に、足音の主が姿を現す。
"彼"はバンダナを頭に巻き、リュックサックにジーンズと、誰が見ても天体観測の帰りとしか思えない衣装。しかし、"彼"は一つだけ異質だった。
黒い。
廻の目には、全身が黒く染まった"彼"が映る。その色は夜闇を上から塗り重ねたように、濃い。
廻は小さく息を吐き、再び歩き出した。
"彼"との距離が減少するほど、這い寄るように心音が強くなる。
そして、すれ違う。
一度、心臓が大きく鳴った。
やがて、静寂がやってくる。
去りゆく"彼"の足音すら耳に入らない。その代わり、ホーホーと鳴くフクロウの声がやたらとよく聞こえる。
廻は何とか、己の不安を杞憂で終わらせた。終わらせることができた。
"彼"は黒かった。黒いとは、他人に激しい悪意を持っているということ。とても目的は天体観測だけだとは思えない。例えば――――――犯罪とか。
窃盗や暴行だけならまだいい。でも、想定される最悪のケース。それは、『人を殺して、その死体を埋めた帰り』だということ。"彼"と擦れ違ったときに、フラッシュバックを起こしかけた。完全に起きてないだけましなものだが、廻にとってはここまで黒い人とすれ違うのも久しい。
そう、最後に出会ったのは……
「確か、半年前のことかな」
廻は回顧する。
それは、夜食を買いにコンビニに行った帰りのことだった。太陽が地平線の向こうに姿を消して、辺りが宵闇に包まれる。時刻は逢魔ヶ時。黒に限りなく近い濃紺の夕空に見下ろされている公園。それはとても幻想的で――――
何かに誘われるように廻は公園の中に歩みを進める。
ジジッ、ジジジッ。無機質な音を発する街灯の光を濡れたように黒い廻の髪が反射する。日中はカップルで溢れかえる噴水だったが、今は誰もいない。噴水の水の音が寂しさを奏でる。廻は、世界に自分一人が取り残されたような不安を胸に抱いた。辺りを見回す。噴水にベンチに道に森。全く人気がなく静まり返っていた。心の奥から沸き出すような恐怖感に襲われ、思わず駆け出す。
その先には人影があった。まるで最初からそこにいたようにたたずむ。
その時の廻は恐怖で判断力が鈍っていた。だから気がつかなかった。
「あのー……すみませ―――――ッ!?」
その人物はやはり黒かった。暗闇の上からですらはっきりと知覚できるほどに。泥水に墨を溶かし込んだように濁った灰色の長髪からようやく女であることが推測出来た。紫色に見える彼女の唇が言葉を紡ぐ。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■」
それは確かに日本語だった。発音、テンポ、リズム、共に申し分ない普通の話し方。でも、脳がその意味を理解することを拒否している。彼女の言葉はまるで、クトゥルフ神話の魔導書のよう。内容を認識してしまえば脳醤がかき混ぜられて人としての理性を失う。それほどに狂気を内包していた。
「あっ……あ、ああああ……ああっあっ……あっ、あ、ああ、あっっっ、あ……、っ」
声にすらならない悲鳴。
その場にへたり込んだ廻は白目を剥いて痙攣している。それは、電気椅子に座った死刑囚のようにも見えた。人の物ではない言葉を――――――"あ"の音だけで構成される呻き声を上げながら、激しく震える。容赦なく吹き付ける寒風が廻から熱を奪う。薄紅色に染まっていた頬が次第に紫色へと変色する。
それに連動するように、急に周りの電灯の光が消えた。
廻の体が闇に包まれ隠される。その中に廻の呻き声と時計の音だけがこだまする。
一分、二分、三分と時が経過する。
でも、廻はまだ帰ってこない。伝染した狂気が身体中に広がっているからだろうか、見るも哀れな姿へと変貌していた。死体のように生気がなく、白目になって笑っている。
その時、一陣の風が吹き抜けた。木の葉が散る。散った木の葉が廻の頬を撫でた。水底から浮かび上がるように理性が復活していく。目に光が戻り、体の震えが収まる。
「……っ! はぁっ……はぁ……」
ようやく戻って来られた。
よろめく体を膝で支えて立ち上がる。
辺りを見回しても、"あの"灰色髪の女はもういない。ベンチに倒れかかり、やっと一息ついた。
廻が覚えているのはそこまでだった。一連の記憶があまりにもインパクトが大きかったことで他の記憶が色褪せて、うっすらとしか覚えていない。でも、廻には想像すらできなかった。あの"灰色髪の女"と学校で再会することになろうとは……。
夜だったために顔はよく見えなかった。けれど、"色"で分かる。あれほどに濃い黒の生物は今まで見たことがなかった。だから、学校で"彼女"を見た時一瞬で灰色髪の女=白風綺という公式が成立した。
廻は常人とは比べ物にならないほどに感受性が強い。だから最初はただ怯えていた。教室で、廊下で、トイレで会う度、縮こまって恐怖に耐えていた。だが、時間が経つにつれてだんだんと耐性が付いてきた。
何度も何度も学校で会っているからだろうか。
――――と言えども、怖いものは怖い。
お化け屋敷や恐怖系ブラクラのように何度経験しても慣れないものはある。白風綺もその一例だ。
(そうすると、三鷺碧は……黒に塗り潰された黄色か)
誠実や優しさを表す黄色。それが悪意を表す黒に上塗りされている。
雫をかばった時は憎らしかったが、今となっては哀れみすら覚える。
(本質は黄色。しかも私が見た中で一番純粋で、一番濃かった)
つまり、本来なら誰よりも優しいはずの人が他人に悪意を向けなければいけない。そのような状況に陥ってしまったことに心が痛む。
でも、だからといって雫を虐めるのは絶対に許せない。どうやっていじめの仕返しをしてやろうか――などという事を考えながら、廻は山頂を見上げた。
星の光に混じって、人工的な光が点滅する。
やはり、天文マニア達の懐中電灯が発している光なのだろう。
(天体観測をするときは出来るだけ光源を少なくするのがマナーなのに……)
中学生の時は足繁く天体観測に通っていたのに、高校生になってからこの山に近づくことはめっきり少なくなった。
その事に疑問を抱く前に、廻は頭を抱え込んだ。
視界が白くなる。
聴覚にノイズが走る。
嗅覚が使い物にならなくなる。
三半規管が撹乱された。ここは水平なのか、それとも坂なのか。分からなくなる。
頭が割れる。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。
ここまできてようやく、廻は頭痛がするということを自覚する。
それに気が付いたときには、すでに頭痛は治まっていた。時間の経過は分からないが、そんなに長い時間でもない。数秒、数十秒という範囲だ。
不安定に揺れながら立ち上がる。もう症状は消えているというのに、痛みの残骸がまだ残っていた。
服についた土をはらって、服のシワを整えた……そこで廻は首をかしげた。
―――――私、今まで何を考えていたんだっけ?
頭痛のせいなのか、頭の中から数十秒前の思考が綺麗に消えている。
でも―――――そんなことはどうでもいい。
頭の中からその考えを捨て去って、走り出す。
かなり急な坂だが、廻にとっては平地と変わらない。
廻は坂を駆け上がった。
山頂に着いた瞬間、街。
全てが、街。
そう錯覚するほどに広範囲が見渡せる。
学校の屋上から見た景色とは格が違う。光の粒が混じりあって形成している街。
その向こうの瀬戸内海。
更に向こうの江田島まで展望出来る。
空には、星。
墨の水面に修正液を何万滴と垂らしたような星々。ため息が出るほどに美しくて。
でも、廻には全て色褪せて見える。
今日、雫と学校の屋上から見た"特別な星空"が脳に焼き付いている。
その理由もあるが、最大の理由は、「景色以上に視線を引くものがある」ということ。街の夜景と星空の丁度狭間。廻のいる山頂の広場。
そこには極彩色が溢れかえっている。
天体観測をしている17人、デートをしている4人を中心に様々な色が発せられて混沌としていた。
赤、青、緑、紫、金色、灰色、黒。
それらの色が夜の暗闇を上から覆っている。
いくら生まれた時から慣れ親しんだ色達でも、さすがに目が疲れる。
でも、これが廻の見る景色。見慣れた風景。
もちろんこれは、廻以外の人には見えない廻だけの色。
廻はこの時に限って、医者からされた説明を思い出していた。
第五色彩共感覚。
これが廻の抱えている疾病の名前。世の中には特殊能力だと言い張る人もいるが、医学上は第Ⅳ区分のクオリア疾患になっている。
味が色になって見える第一色彩共感覚。
匂いが色になって見える第二色彩共感覚。
音が色になって見える第三色彩共感覚。
手触りが色になって見える第四色彩共感覚。
その系列に連なる新たな共感覚である「第五色彩共感覚」。
その症状は――――――人の感情や本質が色に見えるということ。
怒りや憎しみだったら赤。
穏やかさや優しさなら黄色。
好奇心や興味なら緑。
そのように、他人の本質が色として見えてしまう。本質が上塗りされている場合は覗きづらいが、本質が上塗りされるという時点でごく稀なため、基本的には「見通せない本質はない」ということだ。
しかし、廻は人の本質というものをさほど気にしていない。
「本質がどうであれ、自分に対して良く接してくれれば言うことはない」と廻は考えている。こうするしか、自らの精神を保つほど方法はなかった。廻はこの世で誰よりも"人間"という生き物を知っている。綺麗なところも汚いところも、善の側面も悪の側面も。
でも、その程度のことは全く気にもならない。
そのように精神が成長してしまった。
だからこそ、
「こんばんわ」
「こんばんわ―」
星空をスケッチしているかなり黒い人にも挨拶を返す。この濃度まで来ると、誰かを殺そうとしているようにしか見えない。でも、廻には関係ない。ここで警察に行っても、いたずらだと処理されるのがオチだ。
廻は木の切り株を利用した椅子に腰掛けた。
極彩色の人々から目を背けるように、森の方に目を向ける。薄く見える木々の間から覗く闇は大蛇の口のようで、飲み込まれそうな恐怖を感じた。そこで一瞬、意識が途絶える。
意識を取り戻した廻はふらり、と何かに導かれるように立ち上がり、森に向けて足を進める。
全くの無意識のうちに足が動く。
廻はまた、あの夢を――――フラッシュバックを見ていた。
頸動脈を圧迫して気絶させた少女を地面に転がす。
ナイフを取り出して、心臓近くの動脈を一突き。少女は一瞬痙攣したが、すぐに鎮まった。
でも、確実に殺すために何度も何度も心臓の周りを突く。
左胸の辺りがかき混ぜられ、ぐちゃぐちゃになってようやく、手を止めた。しかし、心臓には傷一つついていない。
蔑んだ目で少女を見下ろす。心に燻っているのは復讐心。それに突き動かされるように、胸の上の辺りにナイフを突き刺した。一瞬で柄まで埋まる。そして、力を入れて手前まで切り開く。
それはマグロの解体のよう。
切れ目から手を突っ込んで、内蔵を引き出す。赤い赤い血液が服を濡らす。小規模な間欠泉のように、胸からふきでる鮮血に手を染めて歓喜に震えた。
絡み付く糸のような血管を引きちぎり、心臓を取り出す。アステカの食人儀式のように、心臓を天に――――彼女に捧げる。
そして喰う。
心臓を噛みちぎると、新鮮な血の味が口内に広がる。最初は気持ち悪がっていたが、すぐにこの味の虜になった。
少女の目をえぐり出し、喰らう。
少女の頬肉を切り取り、喰らう。
少女の舌をちぎり取り、喰らう。
少女の上腕に噛みつき、喰らう。
少女の前腕を切り出し、喰らう。
少女の手を切り離して、喰らう。
少女の胸を深く削いで、喰らう。
少女の腹をくり抜いて、喰らう。
少女の太股を削ぎとり、喰らう。
少女の皮を剥がしとり、喰らう。
少女の脳醤を掬い取って、啜る。
美味しい。
美味しすぎる。
こんな食べ物食べたことがない。
毎日食べよう。そうだ、そうしよう。
気が付くと、森の中だった。
「またフラッシュバック……? 私が人を食って、それに熱中して……違う! 私は人を食ってなんかない! 人を食ってなんか……」
木々の隙間まで廻の叫びが響き渡る。鳥が驚いて飛んでいく。まわり一面の木。いつの間にか、森のかなり奥まで来ていたようだ。フラッシュバックの中にいた廻は、どこをどうやって歩いてきたのか分からない。
もちろん人工の光があるはずもなく、完全に迷ってしまった。
虫の声、鳥の声、木のざわめき。周りの音の一つ一つが孤独感を演出している。
でも、廻には見える。道が見える。視覚情報ではなく、感覚として。無意識のうちに目指す場所までの経路が頭の中で算出される。
その道の通りに進もうとした瞬間、淡い恐怖が廻を覆った。一度も来たことのない場所で道がわかる。それに、確実に自分のものではないフラッシュバック。
――――一体この記憶は誰の記憶なのだろう。
まるで、自分が自分で無くなるような、自分の場所がわからなくなるような不安。そこから芽生えるうっすらとした恐怖。自分が見えない。自分がわからない。
本当にこの記憶の通りにして大丈夫なのか。
そんな思いがニューロンの間を駆け巡る。
でも、そうするしか道はない。
それは開かれた箱の如く。
後ろは行き止まり。右も行き止まり。左も行き止まり。上も行き止まり。
その中で正面だけが空いている。ならば、この道の通り進むしかないのか。
そうする以外に道はない。
廻は"開かれた道"に一歩を踏み出した。
後はダムが決壊するように進んでいく。茂みを掻き分けて、枝の下をくぐって、進んだ。枝が頬を傷つける。間隔をおかずに続く、茂みを掻き分けて草の揺れるざわめきが鼓膜を振動させ続ける。
十分近くは歩いただろう。急に視界が開けた。
やっとこの山を出ることができる。山にいるとフラッシュバックばっかり起きるし、頭痛もする。早くこの山から出たい。
そう思った廻は愕然とした。
目の前にあったのは、山の出口でも街でもない。
一本の巨大な桜の木。
その木の周りには何故か木が生えておらず、体育館ほどの空白地帯が出来ていた。
そこに足を踏み入れた瞬間、音が止んだ。
フクロウの鳴き声も、夜烏の鳴き声も、鈴虫の鳴き声も、コオロギの鳴き声も。風が止み、木々のざわめきが治まった。
でも、そんな些細なことはどうでもいい。廻は呆然と立ち尽くして、眼前の光景に見入っていた。
廻の目に映る絶景は常識を大きく逸脱している。
この状況を表現する動詞は一つしかない。
咲いている。
桜が、咲いている。
花を満開にして、全ての枝を桜色に染めて、花びらを舞い散らせて、咲いている。
廻の足元には春の訪れを告げる草。つくしだ。土の上に敷き詰めたように生い茂っている。
まるで、春を切り取って、この空間に貼り付けたような情景。
無風だった空間に、風が吹き込む。桜の花びらが舞い散った。その花びらが廻の頬に触れる。
それがトリガーになった。
カチン、と入れ替わって、足が廻の制御を離れた。廻は桜の木に向かって歩き出す。それはロボットのように無機質で、一定のリズムで揺れる振り子のように、足元のつくしを踏み潰しながら進む。
桜も、つくしも春の植物。廻はその共通点に思い至った。春という単語が頭の中のどこかに引っ掛かる。
そうだ。春と言えば――――
ちょうどその頃に雫と出会った。その事は今でもはっきりと覚えている。
クラス替えの発表で見掛けた"篠村雫"という名前。
その時はまだ、心の片隅に留めておくだけだった。
でも、新しいクラスで自己紹介の時、電撃が走った。
『私は篠村雫です。好きな食べ物はお茶漬け、嫌いな食べ物はビーフストロガノフ です。一年間よろしくお願いします』
正直に言うと、他の生徒とほとんど変わらない、記憶に残らないような自己紹介。ただし、他人にとっては。廻の中では、この自己紹介は誰の自己紹介より記憶に残った。理屈では表せない何かがそこにはある。
その自己紹介をきっかけに、廻は無意識下で雫を気にかけるようになっていた。それは、ほとんど片思いの関係だった。雫は廻に無関心なのに、廻は雫を好き。そんな関係が一週間くらいは続いた。
しかし、廻に転機が訪れた。廻が落としたシャーペンを雫に拾ってもらったのだ。二人はそれを機に、会話を交わすようになった。最初は挨拶程度だったものの、廻は雫の魅力にどんどん引き込まれていって、雫も廻に心を開いていった。
でも、その頃から雫はいじめのターゲットに――――――――いや、あの二人の虐めが始まったのは一ヶ月くらい前で………でも、あの虐めは春の……
ブツッ。
強制的に思考が中断された。
現実に目を向けると、廻は桜の根元に佇んでいる。狂い咲く桜から漂う仄かに甘い香りが鼻をくすぐる。木の奥から響いてくるような"ザワワワワ"という音が周囲に響く。
でも、自然と恐怖は感じない。廻の心は夜の大海の如く、穏やかだった。ペタリ、と桜の木に手のひらをつける。その行動に理由は無い。廻の体を操る何かが無意識を通して働きかけたのか、それとも単なる「なんとなく」なのか。それは廻本人しかわからない。
木に手をつけているからといっても、木の鼓動も木の生命力も何も感じない。
ただ、何かが流れ込んでくる。柔らかくて、暖かくて、優しくて、心地いい。そんなものが手を介して体に充満される。
桜の花びらが少し赤くなったように見えた。
刹那、感覚が切り替わる。
"暖かくて心地いいもの"が止まって、代わりに"冷たくて不快なもの"が流れ込んでくる。人間の負の感情。それを凝縮させたようなおぞましいもの。
「…………っ!」
廻は弾かれるように手を引っ込める。でも、あまりの悪意に座り込んでしまう。
雫のことを考えて気持ちを立て直そうとする。しかし、震えが止まらない。そんな廻をよそに桜の花びらは降り積もり、黒雲が月を隠す。
カチリ。また、何かが入れ替わる。身体の制御権が廻の元を離れて、廻に渡る。手が勝手に動き、桜の木の下を掘り始めた。爪の隙間にこびりついた土が不快感を与える。でも、すでに手の操作権は廻のものではない。どんどん掘り進める。木の根が剥き出しになり、その根を避けて、より深く掘る。
そこで、手が止まった。
30Cmまでは掘っただろうか、穴の下の方に何か白いものが見えた。
それを丁寧に掘り出す。
白い棒。
まるで人間の骨のような……
「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
今までとは比較にならないほどの頭痛。
数十本もの釘が頭蓋骨を突き破ろうとしているとしか形容できない痛み。意識が闇の底へ落ちる。
体感時間は一瞬。
一瞬気絶していただけ。
でも、廻が起きたとき、明らかに何かが変わっていた。明らかに記憶増えているのだ。
この現象を廻は知っている。
『定義観念系深層心理による記憶干渉』
PTSDと似たような原因から起こる精神疾患――――――第Ⅲ区分の疾病だ。
植え付けられた道徳やモラルを司る深層心理である定義観念系深層心理。それに大きく反した行動をした場合、極端に定義観念系深層心理が大きいとそれが記憶に働きかけ、記憶をねじ曲げてしまう。その作用で廻は記憶を無くし、この山に近づかなくなった。
普通に生活しているなら全くといって縁の無い単語だが、廻はしっかりと「定義観念系深層心理」という言葉を覚えている。それは雫を洗脳するための下調べの過程で出てきた一単語。頭の隅っこに留めておく程度の知識がこんな所で役に立つとは思いもしなかっただろう。
廻が取り戻した記憶。それらの中央には一つの固有名詞が存在している。
「雛代 鳴」
その名前から蘇った記憶が網の目のように広がり続ける。
クラスの中心で、綺麗な茶髪で、実家は広島一帯を支配する日本有数のコングロマリットで、勉強運動何でもできる優等生。文武両道、才色兼備。勝ち組という単語は彼女のために存在しているような錯覚すら覚える。
そう、鳴はいつだって皆の中心にいて、全てが鳴のために動いていて――――――
網がまた広がる。
パラシュートが開くように記憶が浮上する。
その新しい網目はどんどん細くなって、一ヶ所に収束。直後、記憶の網は浮上を止めた。収束点が鳴に纏わる最後の記憶であることは疑う余地もない。
収束点の記憶を閲覧。
駆け巡る情景。響き渡る音韻。鼻を突く香気。数ヵ月にも渡る体験が数秒に圧縮されて脳裏をよぎる。
ああ、笑いが止まらない。
もはやこの世にこんなに愉快なことはない。
腹を抱えて、顎が外れるほど笑う。金属が擦れたような声が木々に反響して、森中に染み込む。
狂ったように、機械のように笑い転げる。
一頻り笑ったあと、廻は息を切らせて涙を拭いながら呟いた。
「そうだ、そうだったんだ。いじめっ子は三人いた。三鷺碧と白風綺、その前にもう一人。『雛代鳴』。奴はクラス中の不満を集めて、全て雫にぶつけた。奴が初めて雫を虐めたんだ! でも私は……その時の私は、見ているだけで何も出来なかった。大好きな、大好きな親友が目の前で蔑まれて、暴力を振るわれて、虐められているのにただ見守る事しか出来なかった。私の腕の傷もその時にやった。毎日毎日眼前で、親友が殴られ蹴られ滅多打ちにされ突き刺され刻まれ焦がされ踏みにじられ砕かれ折られ隠され落とされ描かれ掛けられて、きっと私は壊れていったんだ。もうすでにその時に。雫が虐められて泣いて苦しんでいる一方で奴は笑っていた。きっとストレス発散のようなもの。でもそれで雫が苦痛に悶え苦しんでいる。奴は笑っているのに。許せない。だから―――――――殺した」
これだけの長文を一息で話し終わった後にも関わらず、まだ笑いがこらえきれないようだった。断続的に小さく吹き出しながら、骨を右手に持ち変える。
ペン回しの要領。『雛代鳴』の上腕骨を手で繰りながら大木に背中を預ける。
目を閉じて何かに思いを馳せる。
不思議と風も止んでいて、廻の周りは無音地帯と化していた。風がないからか、桜の花びらも散ることはなく、相も変わらず咲き乱れている。こうして音がないと、自分の心臓の音すらはっきりと耳に届く。一定のリズムを刻み続け、どこか心地よい。
廻は満面の笑みを浮かべて手を打った。
それはまるで幼い少女のような無垢で無邪気な笑み。邪念や悪意など全く感じられない。
廻はその顔のまま、歓喜を隠せない声で言った。
「殺せばいいんだ」
鈴の鳴るような透き通った声が桜の木に染み込む。
廻は続けた。
「一人殺せば何人殺しても同じなんだ。『雛代鳴』のように、あの二人も殺せば全て解決する。雫が幸せになる。殺した後は『雛代鳴』のように食べて桜の木の下に埋める。うん、本当に私は天才だな!」
まったく害意の無い、黒曜石のような目が愉悦に歪む。
廻は『雛代鳴』の骨を放り投げ、積もった桜の花びらを踏み散らしながら帰途についた。




