第二話/再生と欠損のマラカイト
Time/201X,Sep,3rd-9,11,07
Side/Third Person
その家は電気が消えていた。
本来なら有り得ないことだ。玄関には靴がある。
つまり、家には人がいる。
それにも関わらず、電気が消えているのだ。
勿論、寝ている訳ではない。時間はまだ9時。年頃の女子高生がこんな早い時間に寝るはずがない。
闇に包まれた家の中に響き渡る音。
床に"何か"を叩きつけているような、そんな音。
それが答え。
二階の電気を消した部屋の"彼女"が床を殴りつけている。
殴る。
殴る。
殴る。
殴る。
殴る。
殴る。
皮が剥がれても構わない。血が出ても構わない。肉が潰れても構わない。血管が破裂しても構わない。骨が削れて、砕けても構わない。
殴る。
殴る。
殴る。
殴る。
殴る。
殴る。
歯を食いしばって、涙を流す。狭い部屋の中に、嗚咽が反響する。
三鷺碧という少女の嗚咽が。
なぜ、こうも自分は弱いのか。
他人を虐げないと生きていけない。そんな自分が恥ずかしい。
そして何より、"篠村さん"に申し訳ない。
碧は二足歩行型ロボットの如くよろめきながら立ち上がった。
すると、"異常"が起きた。
碧の右手が。
皮は剥がれ、肉は飛び散り、神経は寸断され、骨は砕けて、ただの肉塊と化していた右手が。
赤い液体に濡れ、骨が飛び出して新鮮な挽き肉となった右手が。
周囲に肉片を飛び散らせた右手が、膨らみ始める。
そう錯覚出来るほどに大量の細かい泡が右手の表面を覆った。
食紅を入れた石鹸水をかき混ぜたような赤い泡。血の泡。ようやく碧は痛みで顔をしかめたが、泡はなおも膨らみ続ける。一つ一つの泡がビー玉ほどの大きさになった時、ようやく泡が弾け始めた。新しい泡が生まれては、割れる。
全ての泡が弾けた後には、傷一つない綺麗な右手があった。
白柳のような、しなやかで儚げな右手。
時間が巻き戻ったような光景だった。もう、肉塊だった時の右手は跡形もない。
右手が再生したのだ。
その再生した右手で、電気のスイッチを入れる。
数回点滅したと思ったら、パッと電気が点いた。
ピンクのベッドに、何冊か参考書が積まれている勉強机。漫画が並ぶ本棚。その上には熊のぬいぐるみが、天井と一体化した円形のLED照明がある。
ごく普通の"女の子の部屋"。
しかし、床には赤がぶち撒けられ、肉片が飛び散っているのが非日常を演出している。
碧は手で肉片をかき集め、ビニール袋に入れる。臭いが漏れないように口をしっかりと縛り、ゴミ箱に放り込む。あとは雑巾を使って血の跡を拭き取る。白かった雑巾が瞬く間に赤く染まっていく。それに反比例するように床が綺麗になる。そして、床に撒き散らされた非日常は跡形もなくなった。
「これじゃ足りない。もっと、もっと……!」
何かに取り付かれたように、呟く。その視線の先には、部屋の片隅に鎮座する勉強机があった。そばまで歩み寄り、引き出しを開ける。その中には、少なくとも想像していたものは無かった。
文房具、単語帳、プリント。本来ならそれらがあるはずの引き出しの中には、一本のナイフだけ。
白銀に輝く刀身。その持ち手には幾何学的な模様が彫られ、異質さを演出している。
中東からネットオークションで購入したそのナイフを碧は微塵も躊躇せずに、自分の眼球に突き刺した。
豆腐のように眼球は潰れ、切っ先は脳まで達する。それだけでは満足せず、何度も突き刺して切り裂く。切り裂く。突き刺す。えぐり出す。切り裂く。切り裂く。切り裂く。えぐり出す。切り裂く。突き刺す。突き刺す。えぐり出す。突き刺す。切り裂く。突き刺す。えぐり出す。切り裂く。切り裂く。切り裂く。えぐり出す。切り裂く。突き刺す。突き刺す。えぐり出す。突き刺す。切り裂く。突き刺す。えぐり出す。切り裂く。切り裂く。切り裂く。えぐり出す。切り裂く。突き刺す。突き刺す。えぐり出す。突き刺す。切り裂く。突き刺す。えぐり出す。切り裂く。切り裂く。切り裂く。えぐり出す。切り裂く。突き刺す。突き刺す。えぐり出す。突き刺す。切り裂く。突き刺す。えぐり出す。切り裂く。切り裂く。切り裂 く。えぐり出す。切り裂く。突き刺す。突き刺す。えぐり出す。突き刺す。切り裂く。突き刺す。えぐり出す。切り裂く。切り裂く。切り裂く。えぐり出す。切り裂く。突き刺す。突き刺す。えぐり出す。突き刺す。切り裂く。突き刺す。えぐり出す。切り裂く。切り裂く。切り裂く。えぐり出す。切り裂く。突き刺す。突き刺す。えぐり出す。突き刺す。切り裂く。突き刺す。えぐり出す。切り裂く。切り裂く。切り裂く。えぐり出す。切り裂く。突き刺す。突き刺す。えぐり出す。突き刺す。切り裂く。切り裂く。突き刺す。えぐり出す。切り裂く。切り裂く。切り裂く。えぐり出す。切り裂く。突き刺す。突き刺す。えぐり出す。突き刺す。切り裂く。突き刺す。えぐり出す。切り裂く。切り裂く。切り裂く。えぐり出す。切り裂く。突き刺す。突き刺す。えぐり出す。突き刺す。切り裂く。突き刺す。えぐり出す。切り裂く。切り裂く。切り裂く。えぐり出す。切り裂く。突き刺す。突き刺す。えぐり出す。突き刺す。切り裂く。突き刺す。えぐり出す。切り裂く。切り裂く。切り裂く。えぐり出す。切り裂く。突き刺す。突き刺す。えぐり出す。突き刺す。切り裂く。突き刺す。えぐり出す。切り裂く。切り裂く。切り裂 く。えぐり出す。切り裂く。突き刺す。突き刺す。えぐり出す。突き刺す。切り裂く。突き刺す。えぐり出す。切り裂く。切り裂く。切り裂く。えぐり出す。切り裂く。突き刺す。突き刺す。えぐり出す。突き刺す。切り裂く。突き刺す。えぐり出す。切り裂く。切り裂く。切り裂く。えぐり出す。切り裂く。突き刺す。突き刺す。えぐり出す。突き刺す。切り裂く。突き刺す。えぐり出す。切り裂く。切り裂く。切り裂く。えぐり出す。切り裂く。突き刺す。突き刺す。えぐり出す。突き刺す。
もはや、碧の端正な顔は原型を留めていなかった。皮は剥がれ、肉は剥き出しになり、眼球は床に落ちている。歯はボロボロになり、眼球が抜け落ちた眼窩からは脳味噌がはみ出している。
白銀のナイフには、えぐり取られた肉片が大量にこびりついている。顎も砕け、骨は肉と一緒に周りに飛び散った。呼吸も「ズビボブゥ」といったような、名状しがたい音になっている。そもそも、脳が 損傷しているはずなのに手を動かし続けていること自体があり得ない。碧は手を止めない。自分に罰を与えるように、自分を戒めるように、ひたすら突き刺し続ける。
本当なら死んでしまいたい。この頭蓋骨をかち割って、この心臓をえぐり出して、この頸動脈を掻ききって、この肺を切り裂いて、死んでしまいたい。
そんなことならもう何度でもやった。でも、それさえも碧の"遺伝子生命学の呪い"が許してくれない。
まるで耕されたような、肉で凸凹になった顔から赤い泡が噴き出した。
無数の細かい泡が碧の顔中を包み込む。泡が出来ては弾け、出来ては弾けを繰り返す。
しばらくして泡が収まった後にはやはり、傷一つない顔があった。もうわかっている筈なのに、手で触れて確認する。
―――――――やっぱり治ってる
ふぅ、とため息をつく。
手でナイフに付着した肉片や血を拭いとる。碧は元の白銀に戻ったナイフを冷めた目で見つめている。
「誰か……私を殺して……」
碧は自殺志願者である。
今まで、数えるのすら飽きたらしいほどに自殺を試みた。
飛び降り。
首吊り。
入水自殺。
リストカット。
切腹。
焼身自殺。
睡眠薬。
毒薬。
強酸風呂。
考え付く限り、全ての自殺を試した。
でも、死なない。
どんなことをしても再生してしまう。
それに気が付いたのは5歳の時だった。その事は、今でも覚えている。
始まりは母親の不注意。料理をしている途中で碧の状況を見に行ったのだ。その手に包丁を握ったままで。そして、不幸なことに一段高くなっている段差に躓いた。
母親は綺麗に転び、その包丁で寝転がっていた碧の左腕を肩口から切断した。皮を切り、肉を裂き、関節を砕いた。一瞬で大人の全体重がかかったためか、信じられないほどに切断面は滑らかで……
慌てて救急車を呼ぼうと電話する母親の目の前で"異常"が起きた。
最初は気が付かないほどの小さな変化から始まる。沸き出るような流血が止まった。そして、間髪入れずに泡が生まれた。ビー玉程の泡が切断面を覆い尽くしている。
蠢く泡が、段々と盛り上がる。5Cm、10Cm、15Cm……。
盛り上がった泡は棒の形を成し、先端に膨らみを作る。
泡が弾けて消えた頃には、切り落とされた左手が完全に再生していた。
電話機を取り落とし、腰を抜かし、顔を青ざめさせている母親は呟いた。
「ば、化物…………」
この言葉は、彫刻刀で碧の心に刻み込まれた。今でも「化物」という単語を聞くと体の震えが止まらなくなり、寒気がする。毎晩、心の中でその言葉を反復してしまい、涙が止まらなくなる。
勿論、この"化物"のような子供を両親がそのまま家に置いていく筈が無かった。必死で各地の大学病院を駆けずり回り、ついに多機能幹細胞研究プロジェクトの臨床被検体として倉敷大学に提供されることになった。そこでも、碧は人間扱いされる筈がなかった。
脳味噌に電極を刺され、最新型の痛覚増幅発起システムを使って碧の心が壊れるまで痛みを与え続けた。
高周波振動メスで足指を、膝を、下半身を、首を切り落として再生の速度や精度を検証した。
顔に濃硫酸を振りかけ、切り開いた肺に濃硝酸をぶちまけ、頭蓋骨に穴を開けてそこから中に王水を注ぎ込んだ。
太い鉄の串を身体中に射し込み、プレス機でmm単位まで押し潰し、重りをつけて水深20mまで沈めた。
実験と言うより拷問に近いことを毎日受けたからか、痛みに慣れて四肢がバラバラになった程度では顔色一つ変えることは無くなっていた。
もはや碧にはこれ以上の痛みを与える方法はない。でも、それでも不死とか超再生とか、特殊能力のようなものを保有していても、碧は弱い。
他人を虐げなければ生きていけないほどに、弱い。
肉体としては、たとえ太陽の中心に放り込まれようと、ブラックホールに吸い込まれようと、完全に再生する。しかし、碧の精神はむしろ常人よりも脆い。幼少時から大小様々な苦痛を与えられてきたせいで精神が磨り減っているからだ。 おまけに、精神的な苦痛を和らげる精神的緩衝材が痛覚に集中していて、その他はおろそかになっている。信じていた人に裏切られた程度で容易く心が折れるレベルだ。だから、この人間社会を生きていくためには何とかして精神を補強する必要がある。しかし、精神の底上げはむしろ逆効果だ。精神を底上げするということは、『傷付くのに慣れていく』ということに他ならない。普通の人なら充分すぎるが、碧なら鍛えられる前に心が折れてしまう。
それなら、と碧が考えたのは出来るだけ傷を負わない方法だった。
それは、『心の在り方を、生きる目的を変える』こと。
簡単に心が折れるのなら、なかなか折れないような強い信念を持てばいい。
些細なことで傷付くなら、その傷を受け流せるように心を構えればいい。
方法自体は極めて立派な方法だ。
信念を、生きる理由を持つ。それだけだ。
しかし、碧の場合はそこに問題があった。
碧の生きる理由。
それは、
――――――雫を虐めて破滅させる。
碧の場合、生半可な生きる理由では直ぐに心が折れてしまう。「憎しみなどの負の感情は、愛などの正の感情より長続きする」という言葉の通り、碧の深層心理は"加害本能"を生きる理由に選択してしまった。偶々、近くにいたクラスメイトをその標的にしてしまった。悪意を集中させてしまった。
でも、碧は誰よりも弱いと同時に、誰よりも優しい。雫を虐めているときは、一種のトランス状態になって興奮しているが、虐めを止めたとたんに、巨大な罪悪感がのし掛かる。
辛い。
苦しい。
悲しい。
申し訳ない。
虚しい。
でも、それを止めるときっと、碧は自殺してしまうだろう。だから、止められない。自分が生きていくためには他人を犠牲にしなければいけない。そんなことは碧にもわかっている。理論的には理解している。でも、涙が止まらなくなる。
こんな弱い姿を綺には――――――――唯一の友達の綺には見せたくない。そんな惨めな自分を見せたくない。だからいつも必死に弱さを隠して、涙を堪える。
「はぁ……」
深い溜め息をついて、重い足取りで、蒸し暑い居間へと向かう。
外でけたたましく鳴いている虫の声が耳を刺激する。階段を降りる音が壁に響いて鼓膜を震えさせる。それらに苛立って、右の親指で右目を潰す。グチュ、と音がして不快でまとわりつくような痛みが走る。
すぐに泡ができるのを感じる。舐めるような気持ち悪さが右目を襲う。
すぐに、右目は再生した。
居間のドアを開ける。
刹那、嬲るような湿気が、サウナのような熱気が碧を襲う。凍っていた身も体も溶け出して、蒸発していきそうな熱気。
駆け足で壁についているエアコンのリモコンを取って、冷房を最大にする。
冷風が心地いい。
ソファーに倒れるように腰掛け、テレビを点ける。
大音量の音声が居間中に響き渡る。
それは、ヘレン・ケラーの生涯を描いたドキュメンタリー番組だった。
「つまらない」
小さく舌打ちをして、すぐにテレビを消す。
急に心が締め付けられる。苛立ちではない、別の気持ち。
碧はそれを紛らわすように、頭を壁に叩きつけて潰した。
†
Time/201X,Sep,3rd-10,48,21
Side/Third Person
ズル……ズル……ズル……。
何かを引き摺るような音が、夜の路地の闇に吸い込まれて消えていく。
輪郭しか見えないが、闇の中に人影。体型や身長から見るにまだ若い。高校生くらいの少女に見える。
ぴちゃぴちゃと水音。少女は濡れていた。まるで、服を着たまま川でも泳いできたように。
一歩、一歩。ふらふらと歩く少女の手には猫がいる。
恐らくは、川で溺れていた猫を助けたのだろう。自分を顧みず、川に流される猫の命を救う。それは勿論褒められるべきことであるが。新聞の投書欄で美談として紹介されてもいいことだが。何かがおかしい。何処かにズレを感じる。致命的な矛盾。
例えば、街灯。光と闇のコントラストが不気味で、本来なら頼もしく思えるはずの光源さえ恐怖の的になる。例えば、闇。普通ならただ暗いだけのことだが、ここは夏の沼の底。生暖かくわだかまった空気が、濁って一寸先も見通せない闇と混ざり合って、一種の混沌を形作る。勿論人影は無い――――――――少女を除いては。
無人の通りの街灯に照らされて、少女の姿が露になる。それによって、"川で溺れていた猫を助けた"という第一印象は否定された。
血で濡れた少女が猫の死体を引きずって歩いていたからだ。その少女の右手にはカッターナイフが、左手には猫"だったもの"。
引き摺り出された猫の腸が地面に引きずられ、ズルズルと音を立てていた。
街灯の下で少女は猫を地面に叩きつける。
湿った音がして、血が辺りに飛び散る。少女の顔にも血が付いたが、少女は人差し指でそれを掬いとり、舐めた。
少女は躊躇なく、切り裂かれた猫の腹に手を突っ込む。まるで糸を手繰り寄せるように猫の腸を引き出す。生々しくも、おぞましい音が空気を震わせる。
新鮮な赤い血が飛びはねる。ミチミチミチミチミチと肉の裂ける音がする。濡れた音を立てて、腸の内容物が裂け目から染み出す。
それを見た少女の顔が歪む。口が、三日月型に。顔だけではなく、その周りの空間まで歪んでいるような、そんな感覚。
そして、歪んだ口の隙間から金属のような何かが擦れる音にも似た不協和音が漏れ出す。壊れたプレーヤーがひたすら、「は」の音を再生しているような不快な音。
もしも、誰かがそこを通りかかったとしても、とても笑い声には聞こえないだろう。
そんな不協和音を放出しながら、少女は拳大の石を拾い上げた。
間髪入れずに、猫の頭に向かって石を叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。叩きつける。
何十回何百回と石を叩きつけられた猫の死体は、原型を留めない肉塊と化した。
少女――――――白風綺は、その肉塊を踏みつけた。ぐりぐりと踏みにじった。
全ての生命を冒涜するような、全ての生命の存在価値を否定するかのようなその行為に綺は愉悦で顔を歪めた。でも、心の奥底で何かが引っ掛かる。
綺はそれを振り払うようにもう一度、肉塊を大きく踏みつけた。小さく舌打ちをして近くの公園に入って、ベンチに寝転がる。電灯の光が目に突き刺さって思わず、腕で光を遮った。普通の人は何てことないが、今の綺にとっては眩しすぎる。
その光から逃避するように綺は勢いをつけてベンチから立ち上がる。
血で濡れた服が全身に纏わりつく感触に嫌悪感を覚えながら、公園を散策する。風が木の葉を揺らす。木がざわめいて、葉っぱが舞い落ちる。
風に揉まれて葉が不規則に回転する。何百枚、何千枚もの葉が風に蹂躙されている。
そして、地に落ちる。
直後、風が凪いだ。
あれほど木の葉を翻弄していた風はもう、跡形もない。木々のざわめきがピタリと止まり、公園中が静寂に包まれる。その空間から音という概念すら消失したような、不自然な静けさ。自身の呼吸音も、心臓の拍動も、綺の耳には届かない。聞こえない。
常人なら気持ち悪いと感じる程の静寂も、綺には心地よかった。
夜の、音が存在しない公園。日常とは一線を画すこの空間は綺と相性がいい。 綺は目を閉じて、その静けさに耳を傾ける。
ここがまさしく、綺にとっての楽園だった。
なぜなら、綺にとって、この世界は五月蝿すぎる。
普通の教室内の音量は62デシベル。凡人には問題にもならない音量だが、綺には二倍近く大きく聞き取れる。62デシベルの二倍は124デシベル。常人では耳が痛くなるほどだ。電車の通っているガード下でさえ100デシベルなのだから、どれほど大きい音だかわかるだろう。
でも、綺は特別に鼓膜が脆かったり、聴覚過敏のように聴覚器官に異常はあったりしない。
『先天的第二感覚質異常』。
『遺伝性単一自我欠損症候群』。
どちらも、綺がかかっている病気であり、従来の診断法では発見されなかった病気だ。
WHOの定める症状区分では「第Ⅳ区分」に含まれる。
『破傷風』や『骨折』、『外傷』などの身体外部に影響を及ぼす症状、第Ⅰ区分《カテゴリー・ワン》。
『感染症』や『寄生虫』、『心筋梗塞』などの身体内部に影響を及ぼす症状、第Ⅱ区分。
『鬱病』や『ADHD』、『アスペルガー症候群』や『パーソナリティ障害』などの精神に影響を及ぼす症状、第Ⅲ区分。
これらが今までに存在してきた大きな症例区分だった。
しかし、四年前の世界的な発見によって一つ、症例が追加された。
全ては四年前、宮久大学の神崎教授が、とある論文を発表したことから始まった。
題名は、「生体工学の観点に沿ったクオリアの臨床実験――精神自我のシンボライズ化」。
臨床実験によって、クオリアの存在を証明したのだ。 クオリア―――――――感覚質とは、名前の通り主観的体験に基づく「質感」だ。例えば、「怪我をした時、痛いと思う“感じ”」、「秋空を見て、清々しいと思う“感じ”」、「赤い花を見た時に赤いと思う“感じ”」など。人間の意識において、明確に区別できる心の状態がある時、それはクオリアの差になる。西暦1990年頃から科学に突きつけられた最大難問として多くの科学者達が解明に取り組んでいた。しかし、答えどころか解決の糸口すら見つからない。次第に、「クオリアなど存在しない」と主張する唯物論派の科学者が台頭して来て、クオリア問題には“クオリアは存在しない”とピリオドを打った。だが、神崎教授はそれを覆したのだ。
この理論は世界中の唯物論を信仰する学者達に絶大な影響を与えた。マサチューセッツ大学やロンドン大学の世界権威が率いるチームが躍起になって、その理論を否定しようとした。しかし、それらの再現実験はそのクオリア理論の正しさを証明する結果にしかならなかった。
次第に、その理論は世間に受け入れられて行き、WHOの症状区分に新たな症例が追加される。
『自我不存在障害』、『感覚質欠損症候群』、『痛覚異常』などの感覚質に影響を及ぼす症状、第Ⅳ区分。
その中で、綺がかかっている病気は先にも挙げた通り、『先天的第二感覚質異常』と『遺伝性単一自我欠損症候群』の二つだ。
『先天的第二感覚質異常』は端的に言えば聴覚過敏に近い。聴覚系クオリアのみが異常に発達していて、あらゆる音の音量が二倍になって感じる。
『遺伝性単一自我欠損症候群』は二年前にルーマニアの感覚質学者である"H・D・ヴィラセレス"が発見した感覚質疾患である。症状としては“サイコパス”に近い。
とある物理精神学者によると、人間には二つの自我が存在する。何時も表面に出ている表層自我。自分ですら知覚できない深層自我。『遺伝性単一自我欠損症候群』の患者には表層自我が存在しない。つまり、肉体が活動的になっている昼の間は、意識が存在しないということだ。一方、夜の間に現れる深層自我にも傷が付いており、倫理観や理性が欠如している状態になっている。つまり、常人の3分の1程度の自我しか持てない。そんな存在。
それでも綺は空に手をかざした。
恐怖を覚える程の静穏の中で、全ての機能が停止したようにピタリと立ち止まっている。全く動かない、足元まで垂直に垂れ下がる濁った灰色のストレートロングが無機質感を強調する。
綺はまだ空に手をかざす。星を掴むように、天の光を遮るように。
そしてまた、風が吹き始める。徐々に無音空間が切り崩される。木の葉が吹き散らされる。
かすれた笛のような風の音にのって、ノイズが聞こえてくる。
「―――も………かわ―――を………さき………」
そのノイズに導かれるようにして、綺は公園の深部に足を進めていった。
ふらふらと全身が前後左右に振れる。すぐにもバランスを崩して転んでしまいそうな危うい歩み。一歩踏み出す度に、バレーボールほどもある豊満な巨乳が振動する。揺れ動く。
メトロノームのように、一定のリズムを刻んで。それは機械のようで、人間味を全く感じなかった。
しかも病人のような足取りのくせして、目を離したら一瞬で目の前にいる。緩急をつけるなどというレベルではない。認識の隙間をすり抜けてくるような、盲点を的確に突いてくるような、そんな感覚。
間違いない。
綺のクオリア異常は周囲まで影響を及ぼす。綺を観測している他人だけではない。綺が触れている空間の境界面、マリオンネストの橋理論に基づいて綺と対照的存在点にあるドーナツのようなマイクロワームホールの空洞内部。それらが全て歪んでいる。常人には見えない領域。でも、綺には知覚することができる。五感でも第六感でもない、クオリアという名の第七感によって。
世界は人間という観測者に都合のいい最適な形で存在するという『人間原理』。その理論における人間が使用する観測ツールが"クオリア"だ。学者達は気が付いているだろうか。クオリアの異常を持つ者は正常な観測ができない。しかし、理屈を反転すると、「常人には観測できないものですら、観測できる」ということになるのだと。それこそが、万物の理論に対する王手になるのだと。
しかし、クオリア異常の保有者は数十万人に一人程度。クオリア異常者の実名と所属がネット上に公開され、迫害される時代だ。その一方でクオリア異常者を対象にした人権団体や宗教団体もいる。
そう簡単に実験の材料にすることはできない。
だから綺も、生まれてこの方実験とは無縁だったヒトだ。自分の症状を知ることなく、毎日を生きている。クオリア異常などどうでもいい。そう思って生きてきた。
綺が音源に近づくにつれて、次第にノイズがはっきりと聞こえるようになる。
音源は、公園の中心部の噴水そばのベンチにあった。
「ね~ぇ修治ぃー? 私、寒くなってきたぁ」
「なら、僕が暖めてあげようか?」
イチャラブしているバカップルだった。
その後ろ20mに綺がいた。ひっそりと木の側に佇む。足元をリスが這い回っていることから、気配が完全に消失していることが分かる。一度でも目を離したら、そのまま見失ってしまいそうになるほどに綺の存在は希薄になっていた。
バカップルは綺には全く気付かず、イチャイチャしている。
普段の綺なら、ボルトもビックリの瞬発力で襲いかかり、虫けらを弄ぶように二人を解体して腸を引き出すはずだった。でも、綺は二人を凝視したまま動かない。微動だにしない。
ところで、「哲学的ゾンビ」という概念がある。オーストラリアの哲学者、デイビッド・チャーマーズが提唱した思考実験に登場する、"細胞レベルで人間と区別できないが、意識を全く持っていない人間"のことだ。この"ゾンビ"は、科学的にも哲学的にも存在しないとされてきた。四年前までは。
クオリアの存在が証明されたことで、クオリアの観測が可能になった。クオリアの観測実験として全世界からアトランダムで1000人を選んで観測した。
そして、衝撃的な事実が公表される。
クオリアが無い人間が存在することが分かったのだ。
それを発見した篠村博士率いる研究チームは便宜的に「自我欠損症候群」と名付けた。この「自我欠損症候群」における理性とは、常識的な行動をする時の脳内活動を指す。綺の脳は学校で"理性状態"、夜は"サイコパス状態"として活動するはずである。しかし、綺には自我欠損症候群系列の疾患である"遺伝性単一自我欠損症候群"によって表層自我――――――つまり、理性状態というのが存在しない。
ならば、学校で理性状態のように振る舞っているのは何故だろうか。いくら"サイコパス状態"といっても、その状態にはサイコパスの狂気と残酷性しか存在しない。理性状態のように振る舞うのは感覚質学上不可能である。
そこで登場するのが、"哲学的ゾンビ"だ。
その矛盾を解消する方法は一つしかない。
それは、"理性状態のように見えるときの綺は哲学的ゾンビと化している"と仮定することだ。綺には夜の記憶しかない。昼間、碧と楽しげに喋っているときも、夕暮れの体育館で雫を虐めているときも、全ては嘘だった。中身を有しない空っぽな外殻が演じていた偽りの綺だった。
綺にとっては夜の世界だけが自分の世界の全部。
昼を知らない綺は、太陽に照らされる喜びも知らない。
あまねく世を天日が照らして、闇が薙ぎ払われることも知らない。
皓々たる満月に照らされて、燦々と照らす太陽の絢爛さも知らない。
山の彼方から昇り行く日の朝焼けが、いかに美しいかを知らない。
水平線の向こうに落ち行く日の夕焼けが醸し出す哀愁を綺は知らない。
駅前に人々が集まって、生まれる活気を知らない。
でも、それでいい。
不幸しか知らない者が、幸福を求めないように、陸しか知らない者が海を求めないように、苦しみしか知らない者が楽しみを求めないように。
"それ"が日常と化している者は、未知のものを求めない。
だから、綺も昼を求めない。光も求めない。
夜しか知らないから。
幾百、幾千繰り返してきた夜。いつもの夜。
綺は一歩踏み出す。
不思議なことに足音はしない。足元が茂みになっていようが、草と草が触れ合う音すら聞こえなかった。
そして、また一歩。
綺は足を踏み出す。
いつの間にか、綺の右手には石が握られている。拾う仕草も見えなかった。忽然と虚空から出現したような石。赤く濡れている石。猫の血だけではない。今まで綺が殺してきたあらゆる生き物―――――――犬、猫、カラス、ネズミ、ヒト。それらの生き物の血という染料によって赤く染まっている。
それは先ほど、猫を肉塊に変貌させた石と瓜二つ――――――いや、そのものだった。
そして、一歩。
飛ぶような歩みで、綺はカップルの背後へと到達した。
カップルの背後にひっそりと佇む綺は、凍り付いたような無表情を顔に張り付ける。
相変わらずカップルは綺に気が付かない。男は女だけを見て、女は男だけを見て、ただ黄色い声を上げている。
綺は何の感傷も見せない、何も映さない虚ろな眼でカップルを一瞥した。
直後、石を握り締めた右手を、振り上げた。
降り下ろした。
グシャッ。
などという音はしなかった。カップルもまだ気付いていなかった。
降り下ろされたはずの右手が空中で静止していたから。
「……ぁ」
思わず、小さく声が漏れ出た。周囲が歪む。境界が曖昧になる。自我が崩れ落ちる。まるで白昼夢を見ているような気分。
意識に霧がかかり、自分の心音まではっきりと聞こえるようになる。
上下左右が無くなり、地面が消える。落下感と浮遊感。ジェットコースターのように平衡感覚が揺さぶられる。液体と凝着するように、身体が蕩ける。こびりついた霧を振り払おうとするものの、手が言うことを聞かない。
急に落下感が無くなった。
花開くように意識が明確になる。意識にかかる靄が晴れていく。
ようやく気付いたカップルが急に倒れ込んだ綺を心配して、助け起こそうとするが、その声は届かない。
綺の意識は完全に外部と途絶している。
でも、微かに声が聞こえる。
浮遊感の中、聞きなれた声が綺の耳に届いた。
それは楽しそうで、笑顔に満ちていて、幸せで……
綺には無い全てが"そこ"にあった。
綺はここで、初めて笑顔を見せた。そして、静かに目を閉じる。
声が明確な意識になって、綺の脳を刺激する。
「碧ちゃん! 購買行こうよ」
「ありがとう、碧ちゃん」
「ふはははははははっ……ゲホッ、ゴホッ」
「ふふっ、碧ちゃんって面白いね」
『私は碧。三鷺碧。よろしくね』
『綺、一緒に帰ろう』
「すっごーい! 碧ちゃんって独り暮らしなんだ」
「碧ちゃん、髪切った?」
『本当に綺はかわいいなぁ♪』
『見た?』
「それでも、私は碧が好きだから」
"見知らぬ誰か"の思い出が断片的に流れ込んでくる。あまりの情報量に頭痛がする。でも、それを堪える。
それはきっと、感覚質の影響でもたらされたものだから。
「すごい余裕だね」
『ごめんね……私、こんなバケモノで』
「夕方は早く帰った方がいいよ」
「お願い。帰って」
『私は多分、綺が……貴女が好きだ!』
「見て、綺麗な曼珠沙華」
「まるで――――――絵画のような風景だね」
『私は、帰ってきたよ』
「私の世界には、色がないの」
『ごめん。綺のことを思うと居ても立っても居られなくて……来ちゃった』
『どう? 私の作ったラズベリーパイ』
『誕生日おめでとう、綺っ!』
「私に翼はない」
――――――っ! 何……これ! 私の記憶じゃない。
それは綺の、そして"彼女"の記憶にはない情景。見たことのない明るい所で、見たことのないヒトと一緒に話して、笑っている。
全く知らない場所で、全く知らない世界で笑っている。
でも、何故か懐かしい。
何とも言えない、心が溶融するような気持ち。
綺の中にお湯が染み渡るような暖かいものが広がる。暖かくて、柔らかい感覚に包まれながら宙に浮かぶ。
綺の心の中に何かが芽生えた。
それを逃がさぬようにしっかりと掴む。
刹那、光が広がる。
黒一色だった綺の世界が塗り潰される。光が闇を薙ぎ払い、白が黒を上書きし、混沌が渦巻いて秩序になる。
夜陰が澄明の光に払われた後には、一つの欠片が残っていた。
深い紺碧の色をした、正八面体のクオリアを喚起させる欠片。
それに映る自分の瞳を見た綺は悟った。
「これも――――――私の記憶?」
哲学的ゾンビには意識が存在しない。
昼の綺は哲学的ゾンビである。
よって昼の綺には意識は無い。
これはどう抗おうと覆せない事実。
第Ⅳ区分の疾患、つまり感覚質疾患に治療法は見つかっていない。
だから、"夜の綺"が"昼の綺"になることはできない。
綺は、昼を生きることは出来ない。
しかし、そこに一つ穴がある。
哲学的ゾンビは意識が皆無で、質問に対して決められた答えを返す人工知能のような物だと言われている。
人工知能は蓄積されたデータをもとにして質問を返す。その裏を返せば、データが無いと受け答えもままならないということになる。
ならば、哲学的ゾンビには意識は無いとしても記憶はあるのではないか。そして、その記憶は別の引き出しに入っているだけで、何らかのバグによって"夜の綺"にも閲覧できるようになる可能性がある。それは何千万分の一、何億分の一以下の確率かもしれない。でも、それは0じゃない。0じゃないということはいつでもどこでも起こりうる。
それが今起きた。なにも可笑しいことはない。
「この記憶、昼? それに光? ああ――――――なんてあったかい記憶」
綺は今、この瞬間昼を知った。光を知った。
綺は夜でしか生きていけない。でも、綺の中には光がある。昼がある。
世界が変わって見える。
――――――この夜の世界は光に満ちている。




