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最終話/理論と実験と、そして終着のアダマンタイト

Time/201X,Sep,3rd-07,52,58



Side/Third Person





「だだいまー」


 返事は、無い。

 虚しく反響する自分の声を聞きながら靴を脱ぎ、廊下に上がる。

 おぼつかない足取りで居間に入って電気を点ける。カバンを床に叩きつけるように置き、後は倒れ掛かるようにソファーベッドに体を委ねた。

 そのまま左右に転がる。

 動く度にソファーベッドの軋む音が耳障りなリズムを刻む。

 雫は仰向けになって、空中の一点を見つめた。小さな穴が空いている天井。最初は何気なく見つめていたが、急に内臓が締め付けられる。込み上げる吐き気。目眩が襲いかかって、空中に投げ出されたような落下感。三半規管がぐちゃぐちゃとかき混ぜられて上下がわからない。耐えきれずに目を閉じて耳を塞ぐ――――――いや、鼻を塞いだかもしれないし、両足を動かしたのかもしれない。それすらわからないほどに意識が、感覚が混線している。鼻の前が極彩色に染まり、耳に刺激臭が届く。自分の発した叫び声が見え、口の中に刺されたような痛み。 急発進した特急列車が谷底に転落するような回転感。

 直後、停止。

 雫は意識が戻ったその一瞬を見逃さず、口を押さえて起き上がり、呼吸を整えた。父親から教わったリズムで呼吸すると吐き気が治まって、五感が元に戻る。ぼやけていた家具の輪郭がはっきりと浮かび上がり、耳鳴りが消えて静寂が戻り、平衡感覚も正常になる。

 蛇口から滴る水滴の音が雫の精神を繋ぎ止めて正気に引き戻す。

 ソファーベッドから降り、台所へ。コップを出して水を注ぐと、ガス台の向かい側のタンスを開ける。中から薬が詰まった二つの瓶を取り出す。乱暴に薬を摘まみ取った。青いカプセルが3粒、白い丸薬が2粒。口に放り込んで水で一気に流し込む。喉を鳴らして錠剤を嚥下し終え、一息つく。

 大きな音を立ててテーブルにコップを置き、二階に上がった。『sizuku’s room』と彫られた可愛らしい木のプレートがかかった部屋を通りすぎる。その丁度隣の突き当たりの部屋。重厚な黒檀の扉。それは雫の父の部屋だった。扉の前で立ち止まる。

 強く拳を握りしめて、歯を食い縛って、ピチョンと水音。

 水滴が頬を伝う。連続的に水音が廊下に染み渡る。床に染みができる。

 灰がかった黄緑色の床に一ヶ所だけ茶色の部分が生まれ、孤独感を醸し出す。雫は思わず目を背けてしまう。でも、右側も壁。左側も壁。まるで箱に閉じ込められたよう。雫はしばらく佇んでいたが、意を決したように顔を上げ、唾を飲み込んだ。

 ドアノブに手をかける。

 回して、押す。

 木の歯軋りが廊下に反響し続けて、鼓膜を震わす。

 赤ん坊を抱き上げるような手つきで扉を閉め、部屋の中に向き直った。古びた 木の臭いが鼻を突く。そして、懐かしい煙草の匂いとそれに混じって仄かに香る線香の匂い―――――――――――いや、気のせいかもしれない。

 手探りでスイッチを見つけて電源を入れる。

 やっぱり、三年前と何も変わっていない。

 壁一面の本棚に敷き詰められた論文と難しそうな本。

 『近代心理学とクオリア』、『ユング、フロイトの近代心理解釈』、『臨床心理学の終焉』、『社会心理学論文集第三編』、『原始的シャーマニズムから見る古代人類の精神構造』、『色彩と行動心理』、『感覚質に纏わる心理学的解釈』、『パーソナリティ障害と犯罪心理学』、『津山事件のプロファイリング』、『殺人を犯す少年少女』、『ベトナム戦争型PTSDの類型』、『脆弱な意識とTTAPSレポート』、『神曲』、『金閣寺』、『春の細雪』、『奔馬と旅人』、『曙の寺』、『天地五衰』、『輪廻摺動』、『叫びの楽園』……。

 心理学関係の本と純文学。

 それらを白色蛍光灯が無機質な音を立てて無機質に照らす。三年近く交換していないからか、点滅して消えかけているのも数本はあった。その真下には扉と同じ黒檀でできた大きな机が埃を被って鎮座している。雫は机を見下ろす。黒檀に自らの顔が反射するはずだが、積もった埃がブラインドの役割をして灰色にしか見えない。指先で埃を拭って、愛おしそうに見つめる。幾層にも積み重なった塵埃が指に吸い付いて、塊を成している。フゥー、と軽く吹くだけで粉々になって、空中に漂う。

 その内の一つを目で追った。ゆっくりと螺旋状に回転して、ひらひらと宙を舞って、落ちる。それもどこか儚くて、今にも消えてしまいそうで怖くて、机の上に視線の逃げ場を探した。

 綺麗に整頓された机の上には古びた文鎮、埃の積もった万年筆――――そして写真立て。

 自分の風貌から推測するに、10年程前の写真が入っている。背景は大阪のテーマパーク。左側には6年前に失踪した母。中央には雫。そして右には、笑顔で立っている父が。


 もう見ることはないと思っていた。

 大切に写真立てを抱え上げ、抱きしめる。

 身体中から力が抜ける。思わず膝を折って、しゃがみこむ。どうしてだろう。悲しくも嬉しくもないのに、涙が溢れてくる。涙が止まらない。

 肩を震わせて、嗚咽を押し殺して。ポタポタポタポタポタポタと連続して涙滴が、埃の積み重なった床に落ちて跡を残す。


 それから数分はそうしていた。写真立てをしっかりと抱きしめながら、涙を流す。頬を伝う水滴が一個、二個とどんどん集まって、一つの大きな水の塊を形作る。それもあっさりと落ちた。

 万有引力に引き寄せられて雫の元を離れ、地面へ。大きく弾けた水滴。その飛沫は壁まで届いている。

 雫はよろめきながら立ち上がり、写真立てを大事そうに抱えて部屋を出る。

 バタン、と扉が閉まる音が虚しく響く。これで、あの部屋に当分足を踏み入れることはできない。

 いや―――――耐えきれない。写真立てを持ち出した時ですら数週間前から準備に準備を重ねて、感情沈静化処理を幾十重に重ね掛けした。でも、それですら溢れる衝動を押さえることは難しい。涙が止まらないし、殺意がどんどん膨らんでくる。あいつらのせいでこんなひどい目にあったんだ、と怨念がぐるぐるぐるぐる回り続ける。


 本当に許せない。許さない。

 奴らのせいで父さんは――――――父さんは死んだ。


 負の感情螺旋に飲み込まれないように、雫はそこで思考を切り上げた。

 今度は全くの躊躇もなく、自室のドアを開ける。薄暗い部屋にぼんやりと家具のシルエットが浮かび上がっている。

 雫はほとんど無意識で電気を点けた。

 部屋を覆っていた闇のヴェールが取り払われ、家具の姿が露になる。

 左の壁に沿うようにベッドが、その隣には勉強机が、そのさらには隣には大きな本棚があって…………それだけだった。とても女の子の部屋とは思えない程に無機質で、機械的で、冷たい印象を受ける。机の椅子を引き出す。倒れ込むように腰を下ろし、それとは全く対照的な手つきで写真立てを机の中央に置く。

 やがて雫は耽美的な視線で写真を眺め始めた。その写真はただの写真。呪いや魔法がかかっているわけでもないし、数百万の価値があるわけでもない。至って普通で平凡で無価値な写真。でも、雫にとっては特別な意味を持つ。何の変哲もない時計が恋人から貰うことで価値と意味を持つように、ただの流星群が幼馴染みと見ることで価値と意味を持つように、この写真は雫の手元に残っている最後の家族写真。

 この写真を撮ってからすぐに父親は研究に没頭するようになった。

 だから、これが物として残っている家族との最後の思い出。

 雫はその"思い出の写真"を舐めるように見つめ、回顧する。



 3年も前のことだが、はっきりと映像記憶として覚えている。

 そう――――――それは紅葉が乱れ咲き、ピンと張りつめたように青く澄んだ秋空が人々を見下す季節のことだった。心理学者の父は4ヶ月前から部屋にこもったきり出てこない。母はその生活に耐えきれず、2ヶ月前に離婚。この家を出ていった。

 今、この家には雫とその父―――――篠村 弦しかいない。学校から帰ってすぐに二人分の夕食を作り、その内一人分を父の部屋の前に置いてノックする。後は自分の分の夕食を食べながら学校の勉強をしたり、父から借りた心理学の論文を読みふけたり。しばらくすると、父の部屋の前には空っぽになった食器が置かれるのでそれを回収して洗う。

 それからは深夜まで心理学を必死に勉強して頭に叩き込む。ステーキ問題、あいだの主体性、自動思考の脆弱性、メタ認知論、対象愛概論、スターン理論、動作性アウトプット。発達心理学、犯罪心理学、精神病理学、知覚心理学、交通心理学、理論心理学、量子心理学、思考心理学、社会心理学、色彩心理学、言語心理学、認知心理学、臨床心理学、環境心理学。雫は心理学の名がつくものなら何でも学んだ。それはもう必死に。学校にすら心理学の論文や文献を持ち込んだ。放課後は図書室で論文を執筆し、休日には15時間近くを心理学の究明に当てた。さらに、雫は自らの知的好奇心を満たす行為にクラスメイトすら利用した。だが、まだ中学生とはいえ、彼らの精神構造は成熟している。そのため、思い通りに動かすのはほぼ不可能に近い。しかし、雫は彼らに様々な方向からアプローチを試みた。対人的に、環境的に、視覚的に、聴覚的に、触覚的に。本来なら許されないはずの人体実験。中学生という立場を使って極秘裏に行うことで咎める者はいなくなる。

 勿論、実験を始めたばかりの頃は上手く行かなかった。周囲から変な目で見られたし、虐められることもしばしばあった。でも、雫はこの環境を本当に楽しんでいた。父がいて雫がいて。自分の居場所があるだけでも幸せ。雫はそう思っていた。

 ある日、雫が大根を切り刻んで鍋に入れようとしているときのことだった。今日も父は部屋にこもったきり出てこない。いつも通り家に帰って、実験データをまとめて、夕食を作る。その生活サイクルを繰り返すだけだと思っていた。

 そのサイクルを繰り返すべく、鍋に手をかける。

 その時、二階から何かを叩き付けるような音。雫がドアを開ける音と理解したとき、すでにその音は、階段を駆け下りる音に変わっていた。勢いよくダイニングキッチンのドアが開け放たれる。そこから汚い身なりの中年が顔を出す。数瞬経過してようやく雫は、彼が自分の父であることに気がついた。


「出来たぞ! これで唯物論が正しいことが証明された!」


 しわがれ声で――――それでいて歓喜を隠せない声で父は叫ぶ。彼の右手には分厚い紙の束。その一番上の、表紙と思われる紙にはこう書いてあった。


『クオリア概論から感情理論の時代へ――クオリア疾患と情動方程式群』


 それはきっと、父が四ヶ月間不眠不休で執筆した、命を掛けた論文。その証拠に、髪の毛は毛玉のようになって油で濡れ、髭も生え放題。着ていた服は汚れにまみれてボロボロに。歯もじっとりと真黄色。まるで数年無人島で生活してきたような身なり。しかし、その目は光を失っていなかった。サバンナの夜闇に紛れて獲物を狩るライオンの如く目を爛々と光らせて、野望に満ちた眼差しが雫を射抜く。

 それに雫は少し固まったが、すぐに父の元へ駆け寄った。少しばかり腐敗臭もするが構わない。思いっきり抱きしめる。


「よかった…… よかったよお父さん…… ついに夢が叶うんだね」


 雫も涙をこぼし始める。 それは学校で見せる仮初めの涙ではない。久方ぶりに心の底から流した純粋な涙。ゆっくりと浮遊しながら落ちる涙滴。二人の姿を歪ませながら、光を屈折させながら、落ちる。二人を映す涙滴が床に叩きつけられて粉々に飛散する。

 顔を上げた雫は今までのような無色で空虚な表情から一変。歓喜に満ち溢れ、虹色に輝いていた。







 それから一週間後、雫はどこか遠い目で流れ行く街を眺めている。

 ガタンゴトンと下から響く重音。一定の間隔で体に届く振動。背負っているリュックサックにまで振動が伝わる。肩が痛い。

 しかし、全くといって気にならない。それほどに緊張していて、それほどに感情が高揚していた。電車の窓に映る顔を見てようやく、自分がにやけていることに気が付く。なんとか表情を平静に保とうとする。でも、どうしても口が三日月型に歪んでしまう。

 隣に座っている男。黒ぶちの眼鏡に綺麗に剃った髭、シワ一つ無い高級スーツ。中年とも呼べる年齢で、エリートビジネスマン―――もしくは高級官僚にも見える。だが、信じられるだろうか。この男は一週間前まで、髭を滅茶苦茶に茂らせ、髪を密林のように生やした浮浪人のような身なりをしていたということが。

 その男は雫の父親。

 その顔は雫と同じく、歓喜を隠せていない。父は鞄を大事そうに抱えている――――――いや、真に大事なのは鞄ではない。

 中に収められている一編の論文。『クオリア概論から感情理論の時代へ――クオリア疾患と情動方程式群』。

 父はこの研究を始めた頃より二年前、大学と袂を分けた。自我欠損症候群を発見したのは父が率いる研究チームだが、その功績を大学上層部が横取りしようとしたのだ。マスコミには自分等が発見したのだと主張し、有り余るコネを使って雑誌にも記事を掲載。大学上層部の名誉教授が率いる研究チームの名義で特許を申請した。父は怒り、研究仲間や同僚達とその事案を裁判所に持ち込んだ。テレビにもしょっちゅう出る有名な弁護士をつけたからか見事に勝訴し、特許と数億の慰謝料を手に入れた。

 しかし、大学は報復として様々な理由で大学を退職させ、父の居場所を奪った。

 でも、その後も父は研究を続けた。特許料と大学から勝ち取った慰謝料があるから、資金に困ることはない。機材も全て自分で購入し、被験者もバイトを募り、いつの間にか父の部屋は大学の研究室と比べても見劣りしない程になっていた。

 主にクオリアや感情理論の研究をしていると父から聞かされ、雫も心理学に興味を持つようになる。それが二年前。その二年間に渡る研究の結晶が、父の鞄に入っている。たった百数枚の紙の束。それだけで心理学の世界に巨石を投じることになるだろう。

 最終目的地に近付くにつれて、心臓の鼓動が強さを増す。次第に窓枠の中に収まり始める真っ白な建物。県の中心都市の郊外にあり、周囲には高速道路や畑しかないことでより一層、巨大なプレッシャーを放っている。電車の走行音がキィィィィィィィンといった高音から沈み込むように低音に変化。三半規管がはっきりと減速を感じとる。雫はドアの上に埋め込まれている荷電磁気液晶ディスプレイの駅名表示を一瞥する。何度も脳内で繰り返した名前。忘れる筈もない名前。

 "宮久大学前駅"。

 感覚質学の最高権威である神崎博士が名誉教授を努めており、世界中のクオリア研究の総本山"宮久大学"。

 そして―――――――第八回の感覚質系心理学学会が行われる場所。二十世紀における量子力学と同様に世界の最先端科学とされる感覚質学の最新理論が発表される場だけあって、世間から注目を集めていた。電車の窓から見える範囲だけでもコミックマーケットのように人混みが蠢き、報道ヘリも何機か飛んでいる。

 流れる外の景色も次第にゆっくりになり、一瞬揺れて停止した。「よしっ!」と父が勢いをつけて立ち上がる。電車から降り、改札口を通って駅から出ようとする。でも、それが如何に難しいことなのかを思い知らされた。お世辞にも大きいとはいえない駅にところ狭しと人が混み合っている。アメリカの牧場の羊の群れのように押し合いへし合い、一つの巨大生物にも見える。

 雫達は人の波に流されて、揉みくちゃにされて、ボロボロになってようやく駅を抜け出すことができた。

 父はその駅のそばにあるインターネット喫茶――全体的にモダンな店構えで、完全個室制と書かれた看板が掲げられている――に雫を連れていく。

 タッチパネル式のディスプレイに何度かタッチして、24番と書かれた部屋に雫を入れる。父は大きな、温かい手で雫の頭を撫でた。


「学会が終わるまでここで待っているんだ。いいな?」


 その声はとても明るく、喜びに満ちている。雫が「うんっ!」と頷くと、父もにっこりと笑う。父は大袈裟に踵を返し、学会に向かう。

 雫は父の姿が見えなくなるまで見送っていた。

 そして、雫は自分のリュックサックを開けた。中から取り出した紙の束。それは父が発表する論文のコピー。百八枚に渡る研究の結晶。

 雫は一ページめくった。

 論文の内容は全て頭に入っているが、繰り返し見ずにはいられない。

 それにしても素晴らしい研究だ、と雫は思う。200年近く続いてきた大論争に終止符を打つことになるのだから。

 父の論文の根幹を成す一つの理論と一群の方程式。感情理論と情動方程式群。

 昔から続いてきた議論に「感情変化のハードプロブレム」というものがある。

 それは、心脳問題と似たような議論。

 『外的要因によって感情の変化が起きると仮定すると、変化前の段階で変化後の感情を予測することは可能か』という問題だ。昔は、『どんなに精密に観測しようと、生じる僅かな誤差によって予測される結果に大きな差が生じる』というカオス理論によって、『不可能である』と結論付けられた時期もあった。

 しかし、クオリアの存在証明が成されたことで状況は一変する。宮久大学が主導する「世界意識プロジェクト」――――――多数の人間が一つのことに対して意識を集中している時に乱数発生器を用いて量子力学的な統計データを集めることで人間の意識と量子力学の関係を解明するための実験群――――の中の一つの実験、バーニングマン実験で乱数発生器の出す乱数に大きな偏りが見られた。つまり、人間の意識は量子に干渉することが出来ると証明されたのだ。

 その後、東京大学、筑波大学、宮久大学の三大学共同実験「第二次陽電子シナプスゆらぎ測定実験」によって『意識は量子力学における特異点である』ということが発見された。これは、世界中の量子力学者と感覚質学者の腰を抜かせるには十分過ぎるほどだった。『意識は量子力学における特異点である』ということは、意識は量子の影響を受けないことに等しい。つまり、不確定性原理やカオス理論が適用されず、正確な感情予測が可能になる。それを学者達は"感情理論"と呼んだ。

 しかし、それは理論上の話だった。正確な感情予測が可能になるといえど、その法則性が見つからない。宮久大学の教授達がいくら頭を悩ませても、法則性の尻尾さえも掴めない。やがて、宮久大学もこの理論の証明を断念した。当時の科学者達にはまだ早すぎたのだ。それに加えて、感覚質倫理監視委員会という集団が学会や大学に圧力をかけ、感情理論関係の研究を中止させた。唯物論や唯心論といった思想の違いは些細なもの。感覚質倫理監視委員会を組織し、感情理論に反対した彼らは恐れているのだろう。感情理論が証明されることで、自らの考えている事が見透かされ、人の知るものとなることを。これまで神秘的な存在で、神格化すらもされ始めていた"意識"というものが人間の手によって解き明かされ、ただの電気信号が生み出す特異点だと証明されることを。


 科学者の風上にも置けない奴等だ、と雫は思う。

 科学者というのは、私情を一切捨てて研究に打ち込むもの。道徳だとか倫理だとかに左右されるなんて話にならない。

 だからこそ、フリーの研究者である父でしかその研究は出来ない。父だけが感覚質学の新しい道を切り開けるのだ。

 雫は他者陶酔に浸った目で、父の論文を眺める。舐めるように見つめる。雫にとって、その論文は覚醒剤だった。一ページ捲る度に全身を痙攣が襲い、脳の奥から浮上するような快感。体が火照ってきて、息遣いが荒くなる。意識が断続的になってきて、視界が霞む。あまりの興奮と快感に意識が断線しかけているのだ。

 それは段々と早くなってきて―――――――ブツッ。



 気がつくとパソコンのキーボードにもたれ掛かっていた。重い頭をなんとか起こし、時刻を確認する。今度はイスにもたれ掛かって、ため息をつく。意識が途絶えてから数時間。もう学会が終わっている頃だ。その証拠に、窓の外には帰り行く学者達の姿がある。日は落ちかけて、白衣を着た者達の影を長く伸ばしていた。

 足が勝手に貧乏揺すりを始める。無意識で眼球が忙しく動き、人々の中から父を探し始める。動物のように蠢く人混みの中にも、父の姿は見当たらない。

 だんだん、イライラが積もってくる。眼球だけではない。顔まで動く。

 キョロキョロと窓の外を見回して父の影を探す。

 それでも見つからない。

 しばらくの間、眼球を回して、首を動かして、父を探す。それでもいなくて、苛立ちが増すばかりで。


――――――――いた!


 見覚えのあるスーツ。間違いない。父だ。

 急いで個室を飛び出して、カードで会計を済ませて店を出る。父はゆっくりとこちらに歩いてきていた。顔もうつむいていて、足元ばかり見ている。雫は違和感を覚えた。でも、気にしない。そんなこと、心理学の世界が一変することを思えば、遠いイギリスの交通事故くらいどうでもいい事なのだ。


「おっかえりー! 学会どうだった?」


 返事は、無い。

 疑問に思って、顔を覗き込む。赤い光を反射した深紅の宝石が落下した。光を屈折させながら涙滴状になって、灰色のコンクリートの地面に当たって砕ける。

 一滴、二滴、三滴。

 砕けて、砕けて、砕ける。

 黒ずんだ円がいくつもできた冷たいコンクリートを見て、雫は思わず息を呑む。そんなことは絶対に無いと心の片隅で期待しながらも、心が締め付けられて、息が苦しくなる。

 父は何も言わない。駅に向かってとぼとぼと足を動かす。父を追って、一瞬だけ小走りになる。

 なんでだろう。いつもより疲れるし息も苦しい。息切れが激しくなって、歩く速度が落ちる。

 そんな雫を横目に父は駅へと足を進め続ける。

 父の姿が赤の夕日に重なって逆光になる。駅に向かう影と地面に長く伸びる影。ゆらゆらと揺れる影は、とても切なく見えた。

 行きとは違って一言も喋らずに帰る。家に着いてすぐ、父は重い足取りで階段を上がって自室に篭った。複雑な――主に後悔や無念、痛恨といったような感情が胸内でぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃとかき混ぜられて絡み合って、一つの混沌を形成する。

 そんな感情をどうしても整理しきれず、死体のようにベッドに転がった。




 夢を見た。

 ピカソの絵画のように滅茶苦茶な風景の中、父だけが正常な姿を保っていた。ピチョン、と蛇口を貫く水滴が上に落ちる。真っ二つに裂けた犬の頭がその水滴に食らい付いて、脳漿血漿がぶちまけられる。茶色に塗りたくられた空から血の雨が降り注ぐ。空からの恩恵を受けた畑の大腿骨が肉をつけ、人の形を成す。720度にねじ曲がった電柱からつくしが生え、桜の花をつける。それはわずか5秒のことだった。道路に出来た水溜まりからラクダの頭にマグロの胴体。そして、人間の手足がついたよう魚が顔を出す。極彩色の空を見ていると、自分も極彩の赤に染まりそうで怖くて、思わず目を背ける。その先はには真っ赤な花が咲いていた。指が花弁の代わりを果たしているとか、血に濡れているとか滑稽で現実離れしたものじゃない。葉がなく、赤い花弁が弧を描いている。確か、難しい漢字の別名を持つ花。

 彼岸花。

 別名は曼珠沙華とか地獄花とか死人花とか。

 花言葉は「悲しい思い出」「また会う日を楽しみに」「独立」「思うはあなた一人」。

 不吉だとされていて、家に持ち帰ったら火事になるなんてことも言われていた。

 でも、それが雫にはとても美しく見えた。だから、涙がこぼれる。

 一滴、二滴、三滴。

 ピチョン。ピチョン。ピチョン。

 アスファルトの地面に黒い染みを作る。数瞬後、そこから彼岸花が芽を出し、花を咲かす。気が付いたときには辺り一面に彼岸花が咲き乱れていた。

 父がいない。数秒前まで目の前にいたはずなのに。

 眼球だけ動かして父の姿を探す。

 いつの間にか雫の前には川が流れていた。淀みの全く無い清流。でも、川底が見えないほど深い。

 視線を上げると、父はすぐに見つかった。

 父は川の対岸にいた。笑顔で手を振っている。

 雫の側は石が敷き詰められた河原なのに、父の側には彼岸花が咲き誇る。

 彼岸と此岸。

 雫は涙をこぼす。今度の涙は恐怖の涙。父がどこかに行ってしまいそうで怖くて、それが悲しくて、「行かないで」って叫びたくても声が出ない。

 父はゆっくりと踵を返した。雫に背中を向けて、とぼとぼと歩き去っていく。


 夢から醒めても父は戻って来なかった。水を飲もうと階段を降りると、居間に魂の抜けた父の器がぶら下がっているから。手はだらしなく下ろされて、紫色の斑点が浮かんでいる。目も白目を剥いていて、口は大きく開いている。首には天井から吊り下げるためのロープが巻かれていた。

 警察が来た。

 わけのわからない難しいことを色々聞かれた。交友関係、前日の行動、日頃の様子からいつも飲んでいる酒の銘柄まで。

 質問の合間を縫って、雫は警察の男に質問した。


「父はどうなっているんですか」


 知っている。そんなことは知っている。でも、雫は受け入れたくなかった。

 願わくは――――『大丈夫ですよ。もうじき意識を取り戻します』と言ってくれるように。雫は祈った。天照大御神、大日如来、キリスト、ゼウス、ヤハウェ、フライングスパゲティモンスター、その他名前も知らない世界中の神に祈った。必死になって、祈った。生まれてから今までで一番エネルギーを使うほど祈った。

 でも、祈りは届かない。


 クビツリジサツデスヨ、ゴシュウショウサマデス。

 警察の男はそう言った。

 クビツリジサツ。

 くびつりじさつ。

 首吊り自殺。

 雫の脳内で漢字に変換される。ニュースなどで聞き慣れた単語のはずなのに、雫には未知の言語のように認識される。


 首吊り自殺。名詞。自殺の一種。ロープを首に巻きつけて体重をかけ、圧迫することで呼吸を阻害し、同時に首の骨を折る。


 単語に対する知識はある。しかし、脳がそれを認めたくなくて、認識を拒否する。理解を拒否する。実感が沸かないまま、父の器は警察が解剖のために持って行ってしまった。

 その後、父の葬式があげられた。参加したのは父の血縁だけで、研究仲間だった人は一人も来なかった。

 『御愁傷様』、『雫ちゃんも可哀想ね』、『あんな屑死んでよかった』、『君のお父さんの通帳の場所知ってる?』、『相続された遺産は僕が預かってあげるよ』。

 様々な事を話しかけられた。でも、父が死んだという実感が一向に沸いてこない。普通に生活していたら、ある日ひょっこり帰って来る。そんな感覚だし、そうあってほしい。朝食を作るときでもつい、二人分作ってしまうし、しょっちゅうその場にはいない者に話しかけてしまう。

 ある日、遺品整理のために雫は父の部屋に入った。

 薬品の匂いが懐かしい。

 しかし、父が所有している研究機材や薬品類は全て親戚が売りに出してもうここには無い。それは雫の願いによって引き起こされた幻想。それでも、雫はこの部屋に父の面影を見ていた。温かくて懐かしい父の匂い。

 そして、大きな黒檀の机の上にポツンと置かれている写真立て。風景から浮いているように感じるのは、気のせいではない。

 遊園地の帰りに撮った記念写真。

 母が笑っている。父が笑っている。雫も笑っている。

 もう二度と見られない情景。

 母が離婚して出ていって失踪して、父が首を吊った今ではもう……

 不意に涙がこぼれ落ちた。

 床に涙の染みが生じて、仄暗い水底に沈むような重低音が脳内で響く。

 雫は必死に涙を堪えようとする。父に弱さを見せたくなくて、そう思い込んで父が死んだということを忘れようとして。

 でも、涙が止まらない。

 どれだけ涙腺が脆くなっていたのだろう。頬を伝って涙が流れ落ちる。全身から力が抜けて、透き通った水滴が止めどなく目から溢れ出る。独りぼっちの家、独りぼっちの部屋。家族団欒の思い出の――もう作ることは出来ない思い出の断片。

 もう雫の世界には彼女自身しかいなくて、暖かみをもたらす存在は全ていなくなった。

 雫は「ゴクリ」と唾を飲む。顔を上げる。


「やっとわかったよ……」


 雫は涙声で呟いた。


「父さんは死んだ」


 零れ落ちた涙が床に小さな小さな水溜まりを作る。それは張りつめたように澄んでいて、鏡のように雫の泣き顔を映し出している。

 雫は、涙を拭い去った。


「それは変えようの無い真実。だから、私が父さんの研究を引き継ぐ」


 雫は立ち上がる。

 引き出しを開けて手に取ったのは『クオリア概論から感情理論の時代へ――クオリア疾患と情動方程式群』の原稿。電子データも削除されているから、この世に残存する最後の一編。

 父が命を削って書いた論文。

 雫はそれを取り出し、丁寧に両手で持った。そのまま部屋を出て階段を降りる。最早何の躊躇も無い。電気の消えた薄暗い台所で"物体"をポケットに入れる。踵を返して居間に入ると沈んだ空気が漂ってきた。この"居間"という空間自体が海底にあるような錯覚すら覚える。思わず吐き気を催す。手で口を押さえようとするが、両手とも父の論文で塞がっている。

 整った顔を歪めながら、雫は早足で居間を通り抜け、庭に出た。

 すると一変。雫は大切そうに持っていてクリップで閉じた論文の原稿を天に向かって放り投げた。

 比翼の鳥の翼のように広がった論文が宙を舞う。でもそれは一瞬。

 雫はポケットからライターを取り出した。まだ重力に導かれない内に雫は火のついたライターを論文の束に押し付けた。


 燃え移る。


 絶え間なく供給される酸素によって火の勢いは強くなる。落下。

 その拍子に論文の束を留めていたクリップが外れ、地面に父の論文が放り出される。引火。

 比翼の鳥の翼を包む火の花弁が、立体的に展開し、産声を上げる。開花。

 熱によって生じた上昇気流に灰が舞い上げられる。それは父の断末魔のようにも思えた。

 何かが弾けるような小さな小さな音を立てながら、白かった紙は茶色、そして黒へと変化していく。侵食する炎。火花が、螺旋状に渦巻く上昇気流に背を押されて空に還る。儚く、消える。でも、そんな例は少数派。ほとんどは黒ずんで、灰になって、ボロボロと崩れて土になる。地面に付いて、己の存在すら忘れて、自然の一部になる。


 誰かが言った。「真に人が死ぬというのは、生命活動の停止ではない。自分の痕跡の一切合切が此の世から消え、自分の存在が人々の記憶から消えたとき、人は死ぬ。だから、俺は歴史に名前を刻み付ける。人々が俺の名を語り継いで、書物に記して、俺を生かし続ける。そう、不老不死だ。俺は人類史上最初の不老不死になるんだ」

 そう言った"彼"の目は輝いていた。今まで見たことがないほど、自信に満ちていた。雫は心の底から"彼"を敬愛していた。それは、崇拝にも近い感情。

 でも、"彼"は死んだ。

 人々からは忘れ去られ、同職には蔑まれ、雫を除いた家族も親戚も死に絶えた。 そして今、"彼"が存在したたった一つの証拠が、痕跡が灰になっていく。沙羅双樹の花の色にも似た色彩の炭粒が茶色の地面に広がる。その次の瞬間、風が渦を巻き始めた。恐らくは父の論文が燃える熱で生じた上昇気流の副次効果だろう。局所的に起こったつむじ風が、灰も炎も燃えカスも、父の全てを巻き込んで空に昇る。その様子は空に向かって落ちるよう。二重螺旋の軌道を描いた父の遺産は、空の赤紫に吸い込まれていった。


 それを見届けた雫は、静かに目を閉じる。住宅街の中心の近くに位置するにも関わらず、風の音がはっきりと聞こえるほどに閑静だった。耳をすますと、微かに人々の話し声が耳に届く。女の声、男の声、子供の声。一家団欒。父親と母親。一家で食べる夕食。それはとても幸せそうな情景で、雫には現実離れしたものに感じられた。真っ赤な夕日がまぶたを刺激して、ようやく目を開ける。


「私が、父さんの代わりになるんだ!」


 夕日に向かって叫ぶ。青春漫画のようだが、根底にあるのは青春なんかと全くかけ離れた衝動。復讐。

 もう調べはついていた。あの論文の発表で、父は今度こそ学会から完全に追放され、あらゆる名誉も称号も失ったのだ。クオリアの発見によって唯心論を信仰する学者が大半になった今、唯物論を主張するのは自殺に等しい。一般社会でも唯心論が絶対に正しいとされていた。唯心論は正義で唯物論は悪。唯心論は優しく、慈愛に満ちている思想で、唯物論は冷たくて冷酷な思想。そんな停滞した世界を打ち壊すべく、父はあの論文を書き上げた。


「全ての感情は方程式で説明できる。そこには主観や自我などは全く介在しない」


 これで唯物論の勝利は確定したはずなのに。それなのに父は首を吊り、父を殺した唯心論派の学者は未だにのうのうと生きている。

 許せない。

 自分の権威を守るためだけに科学の進歩を停滞させ、一人の研究者の命を奪った。そんなつまらないことで、父は殺された。

 許せない。

 ならば、復讐を。

 雫も最初は仇を打とうと考えた。宮久大学の教授陣を全員事故に見せかけて殺そうとして、緻密な計画を練った。毎日毎日、復讐のことで頭が一杯だった。朝起きるときも、登校の途中も、授業中も下校中も風呂の中でも布団の中でも。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐。

 これからずっと、復讐一筋に生きていこうとした。

 しかし、雫は風呂の中で気がついてしまった。「このまま奴らを殺しても、父の名が上がる事はないだろう」「私は父の代わりとして、名誉を取り戻さなければならない」と。

 父――――篠村弦は研究者であり、その娘――――篠村雫も研究者である。自称だが。それなら、研究者なりの、研究者しかできない復讐方法があるのではないか。雫はそう考えた。


 そして、雫は辿り着いた。

――――――そうだ、研究で復讐すればいい。

 教授というのは何より面子を大事にする生物だ。なら、完膚無きまでに面子を潰してしまえ。奴らが必死になって守ろうとしてきた"権威"を根本から叩き壊してしまえ。奴らの権威は唯心論とその支持者によって支えられている。なら、唯心論を根本的に覆せばいい。そのためには、父の研究を完成させなければならない。感情の変遷が十九の方程式群で計算できる『情動理論』。雫も幾度となく父の論文『クオリア概論から感情理論の時代へ――クオリア疾患と情動方程式群』を読み返し、理論が正しいことを確認した。父は動物や、許可をとって人間でも実験したが、実際の生活環境内での臨床実験はまだやっていない。そもそも臨床実験は論文が認められ、安全が確認された上で行われる。大学と対立している父では到底出来ない実験だ。しかし、唯一の活路が、抜け道がある。それは呆れるほどに当たり前で、落胆するほどに簡単な方法。

 物理学や薬学ならともかく、心理学ならたいして大掛かりな装置も必要ない。言語すら使えればなんとかなる。それなら、日常生活の中で検体を定めて、様々な方法で揺さぶりを掛ければいいのではないか。根本的に心理学自体がアバウトな学問だ。実験の結果を厳密に数値で計算する必要も、光子検出装置とかいう巨大な機械を使う必要もない。ただ、検体に心理面での揺さぶりを与え続けて変化を観察する。基本としてはそれだけだ。オプションとして、カタルシスだとか色々な要素が混ざり合うが、基本は上にあげた通りになっている。だから、雫は一瞬で最適解を導き出した。

 擬似的に社会を再現した"学校"という箱庭。とある生徒を軸とした大規模心理学実験を行い、その実験内の感情変遷を一つ残らず算出して予測する。


 被験者の生徒の名は――――――雛代 鳴。


 雫は翌日から早速行動を開始した。目の前で花瓶を落とす。すれ違い様に耳元に「かごのとり」と囁く。こっそり筆箱の色を赤にする。本人にも気付かれないように少しずつ。少しずつ環境を変えていく。

 それは生半可な大学教授よりもよっぽど知識のある雫にしか出来ない実験方法。AをしたらBになるという、外的要因と感情の変化の関係を知り尽くしているからこそ、このような事が出来る。側からみれば超能力のようにしか見えないだろう。だが、仕方のないことだ。心理学の先進分野を除いて、一般的に人の心を覗くのは絵空事というように認識されている。心を覗く、と言っても笑われるだけだろう。勿論、雫は人の心を覗いているわけではない。推測しているのだ。何気ない仕草。無意識の行動。反射的に出た発言。一挙一動に至るまで全てを監視して全てを推測する。心理状態を読み取って、出た結果に応じて対応を変える。これが相手の行動を操る秘訣だ。


 雫はその方法で鳴を操ってきた。最初はちょっとした行動をさせる程度。でもまだ物足りないと感じた雫は、鳴の根本的な価値観すら変えてしまった。善性の象徴のようだった鳴 の精神を捏ねて潰してねじ曲げて、自分をいじめるように仕向けたのだ。案の定、鳴はクラスの中心だったために、その他大勢は操るまでもなかった。鳴の行動を引き金に、クラス中の悪意が雫に向けられてしまったのだ。

 人間は本能的に悪意を忌避する傾向がある。ならば、心理操作によって悪意を芽生えさせれば、父の研究が正しいと証明することができる。そう考えた雫はわざといじめられる事を選択した。自ら進んで、渦を巻く悪意の中心に飛び込んだのだ。当然、いじめは熾烈を極めた。幾度となく雫の下駄箱には砂が詰め込まれ、靴は一日足りとも長持ちしなかった。バケツに突っ込まれ、カッターで滅茶苦茶に切り刻まれ、様々な色に彩色されて虹色だった日もある。

 机は油性ペンの落書きで所狭しと埋められていて、下地が見える所の方が珍しかった。『学校来るな』、『バカバカバカバカバカバカ』、『死ねブス』、『社会のゴミ』、『くたばれ根暗』書かれていたことを要約するとこのようになるだろう。何の捻りもない、小学生レベルの落書き。雫は思わず吹き出してしまった。それは本当に小さく。本来なら誰にも気づかれないような動作。しかし、その場面を見ていた影がいた。影の名前は雛代咲。クラスの先頭になって雫をいじめていると同時に、雫の傀儡でもある女子生徒。雫によって精神を改造された咲は雫が吹き出したのを見て、大量の苦虫を噛み潰したような顔をしたが、クラスメイトの面前ということもあってかすぐに元の顔に戻す。だが、雫を見ていた影はもう一つあった。雫を貫く喧騒に隠れた視線。雫はしっかりとそれを感じていた。教科書を出すフリをして、横目で視線の主を確認する。

 風になびく黒のポニーテール。忌々しい程の巨乳。スラリと細長い脚。

 雫は記憶の大海から関連する記憶を引きずり出す。


 浮鞠 廻。

 陸上部の次期エースと期待されていて、圧倒的な俊足で一年生の段階から活躍している有名人。県大会で新記録を叩き出したり、インターハイでベスト8に輝いたり、表彰された回数は数え切れない。クラスの中でも一目置かれる存在で、彼女を中心としたグループも出来ている。精神構成はH7に分類され、良くも悪くも単純で友達思い。極めて操りやすい部類に入る。


 雫は思い出した内容を数回見直して吟味する。暫しの間の思案を経てから、雫は薄っすらと笑みを浮かべた。


 加速する回想。


 二年生に進級して学級が組み直された。雫は「また、精神操作をやり直さなきゃダメか……」等と悩んでいたが、クラスの編成を見て気が変わった。

 幸いなことに雛代咲、浮鞠廻の二人が同じクラスのままだったのだ。雫の予測通り、クラスが変わったばかりでバラバラだったクラスは二人を中心にまとまっていった。雫にとってもっとも操りやすい形に。まず、雫は自分に対するいじめを激化させた。今までは持ち物を隠されたり、靴を切り刻まれたりする位だった。しかし、雫の思い通りに咲とそのグループは雫の身体にも危害を加え出した。腕を、腹を、脚を、背中を殴る蹴る踏み潰す。便器を舐めさせ、髪の毛にガムを絡み付かせ、濁った汚水を掛けさせ、関節を外される。

 それを廻の目の前で繰り広げさせた。

 そう、雫が次の被検体に決めたのは廻だった。わざと自己紹介の時に興味を持たせて、何気無い日常に手を加える。変えた日常から少しずつ暗示を掛けて、自分に好意を持たせるようにする。その作業は思いの外、早く済んだ。洗脳・精神改変に要した時間は二週間。たったそれだけで廻は雫に思いを寄せるようになった。にわか仕込みの心理学を駆使して、必死になって雫の気を引こうとしている姿は雫から見ても滑稽だった。しかし、より一層自分に依存させるため、わざと"乗ってあげた"。廻からの心理学アプローチに対して、期待されている通りの反応を返し続ける。これによって廻は「雫が自分を好きになっている」と錯覚し、依存を強めていく。まさに負の螺旋だ。

 雛代咲を使った、悪意に関する実験は"いじめ"という形で成功を収めた。

 ならば次は、ハードルを上げるしかない。


 人間の本能で最上級に忌避されている行動。

 種の保存を第一に優先した時、最も不利益になる行動。

 現代古代を問わず、全ての社会で最大級の重罪をもって受け入れられる行動。





 『"殺人"』





 犯罪心理学上、動機さえ作れば、後は坂を転がり落ちるようにして人を殺してしまう。

 雫が見た限り、廻はもう坂の入り口に立っている。雫への依存を強めたことによって良心の枷がとれかかっていたのだ。だから、後は背中を「トンッ」と押すだけ。

 いじめられた後、廻だけにしか聞こえないように「……たすけて」と漏らす。それだけで坂を転げ落ち、殺人を犯す。その時の廻の顔は微笑んでいた。雫でさえ 心底ゾッとするような冷たい微笑。


 翌日から、咲を見ることは無くなった。


 廻が咲に何をしたのか、考えるだけで恐ろしい。拷問か、それとも食人か。いずれにせよ、常軌を逸しているのは確かな事。

 でも、廻はその時の記憶を無くしているようだった。

 最初、雫は不思議に思っていたが、『定義観念系深層心理による記憶干渉』に思い至る。

 ならば、何かに利用できないか。雫がそこに至ったのはごく自然なことだった。


 殺人の記憶が無くなったと言うことは、それに対しする罪の意識も無くなった可能性が高い。普通、罪の意識はストッパーの役割を果たす。罪を犯した後、被害者に感情移入することで倫理観が表面に出て、再犯を防止するのだ。

 だが、廻の場合は心理的負担を軽くするために自ら殺人の記憶とそれに伴う罪の意識を消している。さらに、雫がいじめられているという特別な環境下に限り、人を殺すということが証明された。

 雫はこう考えた。

 なら、もう一回だ。

 もう一回、廻に人を殺させて、研究を磐石な物にしよう。

 「廻は雫のためなら人を殺す」。これは何があっても変わらぬ事実。だからそれを利用する。学校のパワーバランスをちょっといじって、三鷺碧と白風綺の二人が雫をいじめるように。雫の心理操作は信じられないくらい的確で、全ては雫の目論見通りに進んでいった。





 ――――――そうだ、全ては明日。明日に論文が完成する。

 父親の復讐として、論文を公開するのだ。

 そうして、学会の権威は失墜して、父親が再評価される。











 雫は顔を上げた。



 「待っててね、父さん。もうすぐ、もうすぐで父さんの論文が世界の最先端を行くから」



 虚空は、ただそこにあるだけで、何も答えなかった。

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