傘はいらない⑥
厚かましいことに、香月が風呂から上がった後も、塩井はなかなか帰らなかった。そのうちに母親も起き出してたが、特に嫌な顔もせず、娘の先輩が家に来たことをむしろ喜んでいる様子だった。
母親が入れたホットミルクを、塩井はコタツに入ったまま美味そうに啜っている。
「テーブルの上にあるクッキーは食べてもいいやつか?」
「もらいもので、結構高いやつなんですけど」
「ああ、美味そうだ」
そんなもの欲しそうに見つめたら…。
「あら、塩井さん。全部食べてくれていいわよ」
ほら、母親は塩井に甘い。あとで香月が少しづつ食べようと思っていたのに、塩井に奪われてしまった。
「香月も遠慮せずに食べるといい」
「遠慮するなはこっちのセリフなんですよ。先輩には言いませんけどね」
「こら、先輩に向かって失礼でしょ。ごめんなさいね、うちの娘が」
なぜ自分の家なのに味方がいない。
「いえいえ、娘さんには大変お世話になってますよ」
「ほんとにね。先輩一人だと何をしでかすか分からないんだから」
「これは手厳しい」
「ていうかいつまでいるんですか。もう10時ですけど」
塩井が家に来たのが8時前のことだ。かれこれ2時間近く滞在している。
「せっかくだからお昼ご飯も食べていったら?」
「お母さん、あんまり先輩を甘やかさないで」
「いいじゃん塩井さん。食べていけば」
「朝陽も!この人に遠慮なんて言葉はないんだから、ほんとに昼まで居座られるよ!?」
母と弟がこの調子であれば、そのうち起きてくるであろう父親も同じだろう。家族4人のうち、3人が塩井を歓迎しているという最悪の状況になる。
「ではお言葉に甘えて」
「帰ってくださいよ」
「いいじゃないか。どうせ君の休日なんて空虚なものだろう?惰眠を貪る時間があるなら、私と過ごしていたほうが有意義だと思うが」
大した自信だが、スマホを見てゴロゴロする時間のほうが大切だ。どうせ塩井とは平日毎日会うのだから、今日くらいは好きにさせてほしい。
帰る気のない塩井が、起きてきた父親も含んだ香月家3人とワイドショーを見始めた。そうこうしているうちに昼ごはんの時間だ。
「私、ごはん部屋で食べるから」
「なんでよ。塩井さんがせっかく来てくれてるんだから、一緒に食べましょう」
「いい。見たい配信あるし」
昼ごはんのナポリタンとサラダをトレーに乗せて、二階の自室に立てこもった。塩井が帰るまでやりすごそう。
ナポリタンを一口食べた直後、部屋の鍵が外から開けられた。
「失礼するよ」
「不法侵入だ!」
塩井は昼食を乗せたトレーを、香月の部屋の床に置いた。
「私もここで頂くとしよう。しかし、なんというか殺風景な部屋だな。絵を描くのが好きな君なら、てっきりアトリエみたいな部屋なのかと…。ん?これはなんだ」
「ちょっと、勝手に触らないでください」
ベッドの上に置かれたぬいぐるみを、塩井がひょいと持ち上げた。
「ほう、可愛い趣味もあるじゃないか。これは一体なんのキャラクターなんだ?」
これ以上休みの邪魔をされてたまるか。こうなったら、徹底的に無視を決め込んでやる。
「おーい、香月。こっちで一緒に食べよう」
香月はヘッドフォンで耳をふさぎ、推しの配信に意識を集中させた。
それから一時間ほどして振り返ると、ようやく塩井の姿が消えていた。
「やっと帰ったか…」
この日の朝に出没した赤いドレスの女は、翌日に少しだけネットを騒がせた。今のところ幽霊説が有力視されているらしいが、正体を知るのは香月家と橘だけだった。




