傘はいらない⑤
不本意ながら塩井を家に上げることになってしまった。早く目が覚めたばかりに、香月の安寧は失われたのだ。早起きは三文の徳なんて言うが、むしろ大損だ。
「先輩、タオル持ってくるんでそこで待っててくださいね」
玄関で塩井を待たせて、タオルを取りに部屋へと向かう。香月自身も濡れているので、せめて床を濡らさないように靴下を脱いだが、廊下に足跡は残ってしまった。
軽く髪を乾かしてから玄関に戻ると、塩井の話し声が聞こえてきた。嫌な予感がする。家族の誰かと塩井を会わせたくなかったのに、すでに誰かと接触してしまっている。
「へえ、姉ちゃんって学校ではそんな感じなんすね」
「副部長としてよくやってくれているよ。まあ、現代アートへの理解が浅いのは玉に瑕だがな」
「もしかして姉ちゃんが言ってた、顔しか褒めるところのない変人って塩井さんのことなんですかね」
「香月…、私のいないところでそんな事を弟に吹き込んでいたのか」
塩井と朝陽が早くも打ち解けていた。
「朝陽!この人と喋っちゃダメ!」
塩井の顔をタオルで覆い、朝陽から見えなくした。
「むごっ…」
「これが噂の塩井さんね。姉ちゃんが言ってたとおり、マジで顔は綺麗な人なんだ」
「それ以外が色々残念なんだよ。先輩は私が引き取るから気にしないで。できれば今見たことも全部忘れて」
「いやさすがに無理っしょ」
「ほら先輩、お風呂行きますよ。着替えも貸してあげますから、それ着たらとっとと帰ってください」
水を吸って重たくなったドレスを引きずる塩井を、風呂魔まで連れて行った。ナメクジが這ったあとみたいに、塩井の通った部分がてかてか光っている。
「いやはや、悪いねまったく。お風呂だけでなく着替えまで貸してもらえるとは」
着替えを持ってくると、湯船に浸かる塩井が風呂場の扉越しに声をかけてきた。
「湯加減はどうですか?」
「もうちょっとぬるいほうが好みなんだが」
「貸してもらってる立場で文句言わないでください」
「聞いたのはそっちじゃないか」
「まさかクレーム入ると思いませんでしたから」
「なあ香月、これどっちがコンディショナーだ?ボトルの色が似てて分からないんだが」
湯船であったまるだけでなく、しっかり髪まで洗っていくつもりらしい。どれだけ厚かましいのだろう。
「ちょっと色が薄いほうです」
「こっちか?」
いきなり塩井が扉を開けた。
「うわっ!」
「どうして目を逸らす。女同士だというのに。…ああそうか。君は私との約束を果たすという形でしか、裸体を拝みたくないんだっけ」
「別に裸体とは言ってません!」
こんな会話を家族に聞かれたら、あらぬ誤解を受けてしまう。幸い塩井の体を直視することは免れたが、一瞬だけ視界の端に映った気がする。
「私も風邪ひかないうちに温まりたいんで、あんまり長風呂しないでくださいね」
「すまないが、私は一度入ると30分は出ない人間なんだ」
「誰のせいで濡れたと思ってるんですか。くそっ、先に私が入れば良かった」
塩井は宣言通り、いや宣言にプラス10分の合計40分後にようやく風呂から出てきた。母親が片づけを面倒くさがって、こたつを放置していてくれて助かった。ぽかぽかした塩井が出てくる頃には、髪も体もある程度乾いていた。
「お先に頂いた。次どうぞ」
塩井に渡したのは、香月の中学時代のジャージだというのに、なぜ彼女が着ると洒落て見えるのだろう。




