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傘はいらない④

 「通報される前に早く帰ってください。今の先輩、怪しいなんてもんじゃありませんから」


 「馬鹿を言うな。仮に警察が来たとして、何の罪で私を捕まえる?」


 「知りませんけど、大雨の中でドレス着て踊ってる人がまともなわけないんです。このへんお子さんがいる家庭も多いんですよ。小さい子が見たらトラウマ確定ですって」


 雨に濡れた前髪が目にかかっており、どこか冷たい塩井の瞳が髪の間から覗く様は、そのままホラー映画の広告に使えそうだった。


 「これも私なりの表現なんだよ。邪魔をしないでくれ」


 「なにを表現してるっていうんですか。これもアートだなんて言い出すんじゃないでしょうね」


 「考えてみろ。なぜ人間は傘を差す?」


 「濡れたくないからでしょ」


 「なぜ濡れたくない」


 「えっ、気持ち悪いから?」


 水を吸った衣服が肌に貼りつく感触は、どうしてあんなにも不愉快なのか。


 香月の答えは、塩井の中の正解とは程遠かったらしい。ドレスと同じ、真っ赤な色をしたパンプスで地面を打ち鳴らしながら、塩井が近づいてくる。


 「ちょ、それ以上近くにこないで」

 

 香月の差していたビニール傘を、塩井がもぎ取った。

 

 「うわ、なにするんですか!」


 「一度濡れてみろ」


 「は?」


 「私は例の映画を見ていて気づいたんだよ。人間が当たり前のように拒んでいる、雨に濡れるという行為。それを受け入れることこそ、真の心の解放に繋がるのではないかと」


 「とりあえず傘返してください」


 水を吸いやすい生地のスウェットで出てきてしまったので、あっという間にびしょびしょだ。塩井はビニール傘を畳み、後ろ手に隠した。


 「ただ濡れるだけでは物足りない。そう思って、まずは普段着で外に出てみたんだよ。しかし思っていたほど解放感は無かった。なにが足りないんだろうと考えた私は、持っている服の中で一番高級なこのドレスを引っ張り出してきてね。着てみたんだ。この雨の中」


 喋り終えるまで傘を返さないつもりか。


 「これぞ私の求めていた解放感だった。あえて高級な服をドロドロのぐちょぐちょにすることで、心の底まで雨を受け入れている感覚になれたよ。さあ香月。君も一張羅を持ってこい。雨の中を一緒に歩こうじゃないか」


 付き合っていられないので、塩井に奪われた傘を無理やり取り返した。力では香月のほうが上なので、抵抗されたが特に問題はなかった。


 休日の朝から変なものを見てしまった。風呂に入って二度寝して、忘れよう。きっと今のは悪い夢だったのだ。


 「私もう帰りますので」


 「待ってくれ!」


 「まだなにか?」


 「お、お風呂…」


 「ん?」


 「私の家、今お風呂壊れてて」


 「大変っすね」

 

 「貸してほしい」


 自ら雨の中に飛び込んだ人間が、風呂であったまろうなどと甘えた発言をしている。しかも、他人の家の風呂で。


 塩井を家に上げるのは、正直言って気が引ける。家族が家にいない時ならまだいいが、休日なので全員そろっている。少なくとも弟の朝陽はすでに起きているので、間違いなく鉢合わせしてしまう。こんな先輩が部長を務める部活に入っていると思われたくない。


 「どうしようかな…」


 「嘘だろ?君はそんな薄情者だと思わなかったぞ。いいじゃないか、風呂くらい!ああ、光熱費の心配か。いくらだ。いくら払えば使わせてくれる」


 「そういう問題じゃなくて」


 「へくちっ!」


 塩井がくしゃみをしてブルブル震えた。やはりこのまま放置は出来ないので、仕方なく家に上げることにした。


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