傘はいらない②
「私は雨が降るといつも考えるんだ。どうして人類の長い歴史において、傘というものは進化しないんだろうな」
狭苦しい相合傘で信号を待つ間、塩井が呟いた。
「インターネットもスマホもAIも作った人類なら、一切手を使わず、完璧に雨を防げる傘くらい開発できそうなものだが」
「先輩、信号変わりましたよ」
「なにか大きな力が裏で動いているのか?人類が雨に濡れることで利益を享受する謎の組織とか…」
「信号赤になっちゃいますよ」
塩井は思考に耽ると動かなくなる。部室で固まってぶつぶつ言っている分には構わないが、信号待ちでこれをやられると非常に迷惑だ。そうこうしているうちに、せっかく青になった信号が再び赤になってしまった。
「ほらもう、もたもたしてるから!」
文句を言おうと真横にいる塩井に顔を向けたが、相合傘で密着しているせいで距離が近い。至近距離で見る塩井は雨に濡れたせいで、より一層妖艶な空気をまとっており、つい開きかけた口を噤んでしまった。これだから顔のいいやつは。
同じ場所で二度目の信号待ちをしていると、一際強い風が吹いた。弁当屋の前に出ていた看板が吹き飛び、車道を越えて向かい側のクリーニング店に着地した。
そんな強風が吹いたものだから、香月の傘など耐えられるわけもない。傘は裏返って骨も折れ、すっかり使い物にならなくなってしまった。
「うわ、最悪。直んないじゃん」
傘を失った二人に、雨は容赦なく降りかかる。
「先輩、とりあえず屋根のあるところに避難しましょう!」
そう言って隣を見ると、塩井の姿がない。
「おーい、こっちだ香月。そんなところにいたらずぶ濡れになるぞ」
香月が傘を直そうと格闘していた隙に、塩井はちゃっかりコンビニの前に避難していた。人の傘に入れてもらっている立場のくせに。
「コンビニで傘を買おうかと思ったんだが、この風じゃまた壊れるのが目に見えている。無駄な金は使いたくないし、しばらく店内で休ませてもらおうじゃないか」
二人はあったかいコーヒーを買い、イートインスペースに並んで座った。
「あそこの街路樹、折れそうですね」
「去年の台風で何本か折れていたな。車が通行止めを食らって大変そうだった」
塩井のほうから、香ばしい香りが漂ってきた。
「あ、自分だけなんか買ってる」
塩井がコーヒーを二人分奢ってくれたが、その時に自分用にホットスナックを購入していたらしい。まったく気付かなかった。
「雨の日は小腹がすく」
「どういう理論ですか」
「それより香月、ずぶ濡れじゃないか。ほら、私のハンカチを使え」
「どうも」
塩井がポケットから取り出したえんじ色のハンカチは、無地のシンプルなデザインだった。頭からつま先まで濡れてしまっているので、ハンカチ一枚で吸収できる水分量は限られているが、ありがたく使わせてもらうとしよう。
「くさっ!」
ハンカチで顔を拭こうとすると、異臭が香月の鼻腔を刺激した。
「なんですか、この臭い⁉」
「アートを作る過程で色々拭いたからな」
「そんなハンカチ渡さないでくださいよ」
「汚いものじゃないから安心しろ」
「お返しします」
結局コンビニで少し割高のタオルを買った。
イートインスペースに戻ってくると、塩井が鼻歌を歌っていた。
「なんの歌ですか、それ」
「昔の映画の曲だよ。雨の日にはつい歌いたくなる」
塩井がその映画の有名なシーンをスマホで見せてくれた。
土砂降りの雨のなか、タキシードを着た男性が傘を差さずに踊っている。雨の表現は不自然で、いかにも人工的に降らせているのが丸わかりだが、それが妙に味のある映像に仕上がっていた。曲が盛り上がるパートでは、道路の側溝に溜まった雨水を蹴り上げながら、男性が軽やかなステップを踏んでいた。
「見たことないのか?名作だぞ」
「昔の映画ってつまんなそうで、見ようと思わないですね」
「まったく君は、損な人生を送っているな。これから私の家で鑑賞会でもするか?」
「いえ、結構です」
どうせ作品について、聞いてもいないうんちくをダラダラと語られる。下手したら上映時間よりも、塩井の解説のほうが長くなりかねない。




