傘はいらない①
梅雨入りにはまだ早いというのに、連日の雨。最後に晴れた空を見たのがいつか思い出せない。
新作トリックアートの構想を練っている橘に尋ねた。
「青空って何色だったっけ」
「青じゃない?」
「そっか」
しばらく会わないと知り合いの顔も忘れてしまう香月の記憶力は、空の色さえもそろそろ忘却し始めていた。
「もー、なんでずっと雨なんだろ。せめて休日くらいは晴れてもらわないと困るんだけど」
「私はそんなに嫌じゃないかな。雨の日の室内って落ち着くから、トリックアート作りが捗る。なんなら晴れの日でも、部屋の窓を閉め切ってイヤホンで雨の音を聞いてる」
「うわ、私生活ジメジメしてそう」
橘の家に行ったことはないが、部屋の片隅にキノコでも生えていそうだ。鼻を近づけて橘の制服の臭いを嗅いでみたが、特にかび臭さとかは無かった。
「私はもう帰るけど、橘は?」
「今日鍵当番だから、最後まで残るよ」
現代アート部では、完全下校の時間まで部員が全員残っていることは少ない。みんなが自由に来て好きなタイミングで帰るが、部室の施錠は当番制で行っている。昨日は香月。今日は橘だ。担当者は全員が帰るまで残らないといけない。
雨の日は兼任しているサッカー部が暇なので、岩崎が放課後の時間つぶしに部室を使っている。先輩相手に早く帰れとも言えず、岩崎が帰る気になるまで、橘は部室に残らないといけない。
「じゃあお先に」
「うん、また明日」
昇降口に降りて傘を開く。さっきよりも勢いが増している気がする。近くの川は大雨の日によく氾濫寸前までいくので、少し心配だ。それに今日は風も強い。傘の骨が折れてしまいそうだ。
やっぱり部室に戻って、雨が弱まるまで待とうかと悩んでいると、昇降口で佇む人影が目に入った。
吹き荒れる風に揺られ、髪を押さえる仕草が妙に艶っぽいのは、容姿端麗の塩井だからだろうか。
「おや、香月じゃないか。今帰りか?」
「はい。先輩も帰るとこですか」
「そのつもりだったんだが、傘がなくてね」
「え?朝から降ってたんだから、持ってきてるはずでしょ」
今日は起きた瞬間には豪雨だった。天気予報によると夜には雨脚は弱まるそうだが、降水確率はずっと90%。傘を持って家を出ないという選択肢はないはずだった。
「傘はもう使ってしまってな」
「傘は使ってもなくなりませんよ」
「いや、傘を使ったアートの試作品を作ってたんだ。そして気づいた。私は一本しか傘を持ってきてないから、手持ちがゼロになったと。さすがに作品を差して帰るわけにもいかないし、実は今とても困っているんだ」
「そうですか。じゃあ私はこれで」
「待て。困っていると言った」
「言ったからなんですか」
「香月、君の傘は大きいな」
「普通のサイズです」
何が言いたいかは分かる。要するに濡れて帰りたくないから、傘に入れてほしいのだろう。
「二人で一緒の傘に入ることを相合傘というが、あれにはダブルミーニングがあると知っているか?」
相合傘というワードを出すなら、もう素直に入れてほしいと言えばいいのに。なぜか塩井は遠まわしな言い方を好むようだ。
「二つの意味の『さす』があるんだ。傘を差す、そしてもう一つは、男女が互いに思いを刺す。言い方を変えれば、相手が好きという思いを貫くということだ。これは江戸時代に生まれた発想らしいぞ。昔の人は粋だな」
「はあ。で、先輩。何が言いたいんですか」
「濡れたくない」
「で?」
「傘に入れてほしい」
「最初からそう言えばいいんですよ。ほら、隣どうぞ」
傘の下で密着した塩井からはペンキのような匂いがしてきた。どうせまた、変なものを作っていたのだろう。




