バカと部長は高いところが好き⑬
「…酔った」
塩井の顔面はみるみるうちに青白くなってゆき、額には汗が浮かび始めた。
「そんなに揺れてないじゃないですか」
「微弱な揺れが地味にきついんだよ。普段乗り物酔いなんてしないんだが、このゆらゆらした動きがダメなのかもしれない」
ここまで辛そうな塩井を見るのは初めてだ。後輩の前で苦しむ姿を見せたくないのか、歯を食いしばって吐き気に耐えている。
しかし頂上で停止したままの観覧車が不規則にゆらゆらと揺れ、塩井を追い詰めていく。
「うぷっ…」
「ちょ、ここで吐かないで!」
狭い観覧車の中で嘔吐されたら逃げ場がない。いつ運転再開するかも分からないので、最悪何時間か吐しゃ物とともに閉じ込められてしまう。
「だ、大丈夫だ。ちょっとこみ上げてきただけ」
「どの辺まで上がってきてますか!」
「こ、このへん」
塩井は胸のすぐ上あたりを指さした。
「いやもう結構来てる!」
「落ち着け。飲み下すから」
深呼吸をして、こみ上げる吐き気を無理やり押し戻す塩井。汗がじっとりと滲んだ背中を、ワンピース越しに撫でてやった。
「さっきまでのロマンティックな雰囲気が台無しだな…うっ…」
「もういい、喋らないで」
「喋ってるほうが気がまぎれる。なあ香月、ずっと君に謝りたいことがあったんだ」
「今このタイミングで?」
塩井は力なく頷いた。まるで死を目前にして、最後の言葉を残そうとする映画のワンシーンのようだ。ただ吐き気を我慢しているだけなのだが。
「君は私と出会い、一目惚れをして現代アート部に入ってきた。私としてもまさか入部希望者が来るとは思ってなかったから、逃がすまいという気持ちがあってね。あの時はそこまで気が回らなかったんだが、最近ふと思うんだ。香月が現代アート部に入ったことで、あり得たかもしれないキラキラした青春を奪ってしまったのかもって」
「先輩、それはどういう…」
「香月はいい子だ。面倒見がよくてしっかりしているが、どこか愛嬌もある。最初はバスケ部に入ろうとしていたんだろう?あの時廊下で私と出会わず、そのままバスケ部の仮入部に行っていれば、また違った青春があったのかもしれない。私はね、香月。心のどこかで君を独占したいという気持ちがあったんだよ。他の部に行ってほしくない。だから君の気持ちが変わらないうちに入部手続きを済ませ、副部長として迎え入れた。でも本当は、バスケ部に行かせてやったほうが幸せだったのかも」
考えるより先に、香月の手が塩井の頬を叩いた。
「きゃん!」
「なんで。なんでそんな事言うんですか。先輩は私の…、私のこれまでを否定するんですか!」
「違う。そんなつもりじゃ」
「私は先輩と出会えて嬉しかった。そりゃ嫌なこともむかつく事もありましたよ。ていうかそっちのほうが多かったですよ。でも、それでも辞めずに部活を続けたのは、先輩が好きだったからなのに!」
どこからが人間としての好きで、どこからが恋愛感情としての好きだったのか、過去を振り返っても分からない。その気持ちをはっきりと自覚したのはブルーシートの下で抱きしめられた時だったが、本当はそれ以前から眠っていた感情だったのだろう。
「先輩だって私の気持ちを受け入れるって言ってくれたじゃないですか!」
「ああ、言ったさ。だがそれが香月にとって本当の幸せなのか…」
「幸せかどうかは私が決めます。はっきり言いますよ。幸せです」
塩井は座席にもたれて、力なく腕を垂らした。
「…そうか。はは、ここまでストレートに言われると照れるな。…うぇっ」
緊張が解けた瞬間、塩井がまた吐き気を催し始めた。




