一枚のコインで家が建つ㊵
塩井のスマホから身に覚えのない声が流れ出したが、それは間違いなく香月の声だった。
『私、先輩が憎い!憎たらしくてたまりませんよ、バカ…』
『憎まれるような事をした覚えは…、いや、ないとも言いきれないか。しかしなにが気に食わないんだ』
『顔ですよ、顔!なんでそんなに綺麗なんですか。おかしい、おかしいもん。おんなじ生き物だと思えない。前世でどんな徳を積んだらそのビジュアルになれるんですか』
録音された音声のなかで、香月は塩井の容姿をこれでもかというくらいに褒めちぎっていた。普段は心の中に秘めている言葉が、ノンアルで酔ったせいでとめどなく溢れている。
「いやぁぁ!」
再生を止めるために塩井からスマホを取り上げようとしたが、腕を上に掲げて香月が届かない高さに持っていかれた。おのれ、モデル体形め。
『いやまあ、香月が私の顔に惚れて入部したのは薄々感づいていたが、これほどストレートに言われては照れるな』
『好きな人』
『ん?』
『いるんでしょ、好きな人。だれ?』
なにを聞いているんだ、過去の自分は。
『あぁ…そのことか。いるにはいるが、私には手が届かない存在だよ』
『うそ。先輩に告られて断る人なんているわけない。アタックしたの?』
『しないというか、できないというか…』
『意気地なし!ビビり!雑魚!』
『私でも傷つくんだぞ』
『じゃあ私が、もらっちゃおうかな?』
画面を凝視している深川が固唾を飲む音が聞こえた。映像には香月の腰より下しか映っていないが、塩井に迫っていく様子はしっかり記録されている。
『待て待て、落ち着け!』
『落ち着いてますよ。いたって冷静です』
『きゃん!』
塩井が子犬みたいな悲鳴を上げる時は、体のどこかを叩かれたときだ。
「こ、この時の私、どこを叩いたんですか」
塩井は答えてくれない。
映像の中の塩井がスマホを取り落としたらしく、カメラは夜空と街灯の光を映し出した。画角の外で、ガサガサと音がする。
『だ、ダメだ、こんなところで。香月、お願いだからとまって…』
『うるさい口はふさいじゃいましょうか』
『ん…』
深川が嗚咽を漏らした。厳格な、少なくとも生徒の前では厳格なふりをしている生徒会長から出たとは思えない汚い声だ。
「これは…大変捗りますね」
スマホから流れる音声が静かになったが、再生が終わったわけではなかった。過去の香月の唇が塩井の口をふさいだせいで、誰も喋る人間がいなくなっただけだ。
「嘘だ、わ、私こんなことを…?」
「やはり覚えてないのか。人の唇を奪っておいて、なんて無責任な」
「なんで先輩も抵抗しないんですか!殴ってでも止めてくださいよ!」
「君は自分が思ってるよりも力が強いぞ。それにこの直前に一発殴られてるんだから、びっくりして抵抗なんて出来なかったんだ」
なぜ自分はキスの前に塩井を叩いたのだろう。香月は右手で握りこぶしをつくり、それを見下ろした。
昔からそうだ。愛おしいと思うほど、軽く痛めつけたくなる。専門用語ではキュートアグレッションというらしいが、塩井に対してもその歪な感情が迸ってしまったのだろう。
「…痛かったですか?」
「ああ、痛かったよ」
「ごめんなさい」
「許そう。そのあとのキスが上手かったからな」
深川が口元を抑えて体を折った。




