一枚のコインで家が建つ㉘
勇敢にもホームレスに立ち向かっていった塩井。その後ろ姿を見守る香月は、彼女が言葉とは裏腹に怯えているのが分かった。膝が小刻みに震えており、一瞬こちらを振り向いた塩井の目に恐怖の色が浮かんでいるのが見えた。それでも岩崎と四条を助け出すため、部長として自分を奮い立たせる姿に、香月の中に熱いものがこみあげる。
塩井はただの芸術家気取りではない。偏屈な性格で奇怪な行動ばかりが目立つが、人一倍強い正義感の持ち主なのだ。
「お前一人でなにができるってんだよ。こっちの2人より弱そうなくせして」
「愚かな。腕っぷしだけで勝負が決まると思っているなら、それは大きな間違いだぞ」
「生意気な口を…」
「多勢に無勢という言葉を知っているか?いかにも学のなさそうな君は聞いたこともないかもしれんが」
「馬鹿にすんな!それに今の状況、一対一じゃねえか。お前こそ言葉の意味知らねえんじゃねえの?」
岩崎と四条はすでに戦闘不能。香月は長髪から見えにくい位置に隠れているので、実質塩井とサシで向かい合っている形だ。
「まったく視野が狭いな。君は今、私のことしか見えていないだろう。美少女だなんて言われて注目を浴びるのは慣れているが、汚いホームレスにまじまじと見られるのは不愉快だ」
塩井は相手を挑発しながら、右手の人差し指と親指で丸の形を作っている。
「ここはホームレスどもの根城だと言われてるが、残念ながら先住民がいるんだよ。よそ者には出て行ってもらおうか!」
塩井が指を口に咥えて、甲高い音を鳴らした。沖縄の人がよくやる、指笛というやつだ。塩井の小さな口から発せられたとは思えないほどの音量で、ピーッ、という音が鳴り響く。
「なんのつもりだ!」
「足元にご注意」
「あん?足元…ぎゃっ!」
長髪の足首に、丸々と肥えたドブネズミが嚙みついた。小さめのチワワくらいのサイズで、ネズミというのはあまりにメタボリックだ。しかも1匹や2匹ではなく、朽ち果てた商店の裏からうじゃうじゃと這い出てくる。
「きもっ!」
「キモイと言ったか、香月。こんなに愛らしいネズミたちに」
やっぱりこの人の感性はおかしい。ドブネズミを愛らしいと思う感覚は香月にはなかった。
「いててて、離れろクソ!きたねえネズミども!」
「彼らは君らが住みつくずっと前から、この商店街跡を住処にしていたんだ。先住民に敬意を払いたまえ」
あれよあれよとネズミの数は30匹くらいに増えた。
「なんか先輩がネズミを操ってるみたいに見えるんですけど」
「忘れたのか?私があらゆる動物を餌付けしていることを」
「あ、そういえば四条さんとの戦いの時も…」
四条に誘拐された岩崎を救うため、塩井が餌付けしたカラスたちをけしかけた事がある。夕焼け空がカラスの大群で真っ黒に染まる光景のおぞましさは、香月の脳裏に焼き付いて離れない。
「カラスもドブネズミも人間から好かれない自然界のはぐれ者。だからこそ懐に入り込みやすいんだよ。ちょいと餌で釣ればこの通り」
「いだだだだだ!」
塩井の指笛の音色が一段高くなると、ネズミたちが動きを変えて長髪のすねをかじり始めた。傷口から危険な病原菌が入り込むだろうが、ホームレスはおそらく医療保険は未加入だろうし、感染症に罹患したら終わりだ。塩井から盗んだ小銭を全額つぎ込んでも、3割負担でなければ1人分の医療費にさえならないだろう。




