第7話:タイタニックに乗っていたのは蝶野会でした!
「き、貴様……よくも銀子様をォッ! 生かしておかんぞ!!」
敬愛する主を傷つけられ、陣内の怒りは沸点に達していた。その巨躯から放たれる殺気に、室内の空気が震える。
「あら、あんた。昔同じ道場に通っていた……確か陣川だか陣山だっけ? 私にあっさり負けて逃げ出したって聞いてたけど、こんなところでホストの真似事?
情けないわね。館長も『あいつが本気になれば総合格闘技のチャンプも夢じゃないのに』って嘆いていたわよ」
「だ、黙れ! あの時は女相手だと油断していただけだ。それに俺は表の格闘技など興味はない。実戦の中でこの力を高めてきたのだ!」
「はん! 実戦? 笑わせないでよ。あんたがやってるのは、ただの弱い者イジメじゃない。ちょっとぶつかっただけのサラリーマンをボコボコにして、半身不随にしたんですって? ……反吐が出るわ。あんたみたいなクズ、私が『月に代わってお仕置き』してあげる!」
「ほざけぇッ!!」
陣内の渾身の右正拳突きが、体重と怒りを乗せて繰り出された。対する姉さんは、避ける素振りも見せず、同じ右正拳突きを真っ向から突き出した。
――グシャァァァァッ!!!
響いたのは、肉の打撃音ではない。硬い物体が粉砕される、身の毛もよだつ破壊音だった。
「ギャァァァァァーッ……!!」
陣内の口から、獣のような絶叫が漏れる。学校を無人にしておいて本当に正解だった。
陣内の逞しい右腕は、肩口までズタズタに裂け、砕けた骨が皮膚を突き破って四方八方に飛び出している。いわゆる開放骨折というやつだ。素人目にも、格闘家としての再起は一生不可能だと分かった。
(……姉さん、冷静に見えて、かつての同門が武術を悪用したことが許せなかったんだな)
だが、これは当然の結果だ。姉さんと陣内では、格闘技において最も重要な『出力』の桁が違いすぎる。
帰国前、姉さんから送られてきた動画を思い出す。南米の麻薬王が軍用ヘリで逃亡しようとした際、姉さんは先端にフックの付いた鎖を投げ縄のようにヘリに絡ませ――なんと、人力で地面に引きずり降ろしたのだ。
旧ソ連製の攻撃ヘリ、ハインドD。二二〇〇馬力のターボエンジンを二基搭載した、合計四四〇〇馬力の化け物。それを腕一本で引き留める人間に、力で勝てる人類など存在するはずがない。
(普通途中でフックや鎖が千切れるはずなのに、姉さん曰く、「簡単よ、純君。マグロ漁師さんも力任せに竿を引くわけじゃないでしょ? うまく力の流れを感じながら……」
その解説を聞いただけで、僕は頭が痛くなった。)
要するに、三輪車と戦車の正面衝突なのだ。三輪車がどれほど気合を入れて時速百キロで突っ込んだところで、戦車相手に正面衝突すれば、粉々になるのは三輪車の方だと決まっているのだから。
最大戦力である陣内が、文字通り一瞬で『粉砕』された。その光景を前に、蝶野会の面々の士気は目に見えて瓦解していく。
「……言ったわよね。チャンスは一度きりだって。この部屋に残ったからには、相応の『お仕置き』をさせてもらうわよ」
姉さんが鋭い眼光で室内を射抜くと、三十人以上いたメンバーは一斉に視線を逸らし、蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
このまま全員を叩きのめせば、一方的な蹂躙に見えかねない。そう判断したのか、姉さんはあえて彼らに「蜘蛛の糸」を垂らした。
「情けないわね。自分たちの女王様と親衛隊長がボコられたっていうのに、仇を討とうという気概もないの? そんなんだから、弱い者いじめしかできないのよ」
姉さんは冷たい笑みを浮かべ、さらに追い込む。
「まあいいわ。あんたたちの臆病さに免じて、もう一度だけチャンスをあげる。今すぐ土下座して、明日中に退学届を出すと誓いなさい。……そうすれば、前歯一本の代償で許してあげるわ」
(……流石は姉さん。残酷なまでに『上手い』やり方だ)
これで蝶野会は引くに引けなくなった。
ここで一人だけ怯えて土下座すれば、後で仲間から『裏切り者』として凄惨なリンチに遭うのは目に見えている。一方で、「全員で一斉にかかれば、数の暴力でこの化け物に勝てるかもしれない」という淡い、そして致命的な期待が彼らの脳裏をよぎり始めたのだ。
集団心理の罠。逃げ道を塞がれ、プライドを逆撫でされた彼らの瞳に、捨て身の狂気が宿り始める。
「……野郎ども、やっちまえッ! 一人ずつ相手にするから負けるんだ、全員で囲めば女一人、どうにかなるはずだ!!」
誰かの叫び声を合図に、三十人の『ゴミ』が、自ら粉砕機へと飛び込んでいった。
狙い通り、一斉に襲いかかってきた蝶野会の残党。
姉さんは口角を「ニマァッ」と吊り上げ、凶悪な笑みを浮かべた。
「……差し出した救いの手に、唾を吐いたのはあんたたちだからね?」
神速の右ストレート。それが、向かってくるメンバーの前歯を次々と、そして正確に粉砕していく。
姉さんの凄まじさは、拳の速さだけではない。その神がかったフットワークにある。
今朝は僕を守りながらシェネ(その場で回転する演技)の回転で敵を蹴散らしたが、今はさらに複雑なパ・バランセ・アン・トゥルナン(踊りながら回転する演技)を応用し、死のダンスを踊っている。
三十人以上の包囲網を、優雅なステップで、あるいは僅かな隙間を縫うように移動。常に敵の正面を取りながら、必殺の右を叩き込む。
格闘技ではなくバレエの道を選んでいれば、間違いなく世界のプリマになっていただろう。……そんな場違いな見惚れ方をしてしまうほど、姉さんの暴力は美しかった。
踊り終えた時、そこには一人として立っている者はいなかった。
全員が口を押さえ、床をのたうち回っている。当然だ。歯医者で一ミリ削るだけでも神経に障る激痛が走るというのに、それを五、六本まとめて叩き割られたのだ。
おまけに、姉さんの絶妙な手加減のせいで、激痛のあまり気絶することすら許されない。意識を保ったまま、無限に続くかのような苦痛に身を焼かれるしかないのだ。
「……ひっ、や、ヤバイよ! 逃げよう!」
隅で震えていた女子生徒三人が、僕たちが入ってきた扉へ向かって走り出した。
だが、姉さんがそれを見逃すはずもない。ウサイン・ボルトを超える瞬速で先回りし、逃げ道を塞いだ。
「誰が逃げていいと言ったかしら? 三度目のチャンスは、死んでも存在しないのよ」
「どきなさいよ、この……っ!」
リーダー格の少女が、隠し持っていたナイフを振り回した。
だが、姉さんはその刃先を左のジャブで叩き折り、瞬時に彼女の腕を絡め取った。
「刃物を持ち出した以上、命のやり取りで構わないわね?」
――バキィッ!!
容赦のない破砕音。腕を複雑骨折させた上、返しの右で前歯を奪い取る。
腕を折られた衝撃と、神経を逆撫でする歯の激痛。その両方を同時に味わわされた少女は、声にならない悲鳴を上げて崩れ落ちた。
広々とした生徒会室は、今や阿鼻叫喚の地獄絵図――まるで災害現場の救護所のような惨状へと変わり果てていた。
「さて……会長さん。このSDカードがマスターデータでしょうけど、どうせ自宅のクラウドやサーバーにもバックアップがあるんでしょう?」
麗奈姉さんは、恐怖に顔を引き攣らせる銀子のスマートフォンを無造作に奪い取った。
「パスワードは? ……素直に吐かないと、インプラントの回数が数本増えるわよ?」
「ひ、ひぃっ……! 〇○○〇……っ!」
銀子会長が震えながら白状したコードを叩き込み、姉さんは手際よく生徒会室のメインコンピュータへと接続した。画面には、僕には理解不能な文字列が滝のように流れ落ちる。
「姉さん、そんなスキルどこで覚えたの……?」
「師匠とヨーロッパのシンジケートを相手にしていた時、ちょっとね。あいつら、何重にもファイアウォールを張り巡らせるから、バックドアをこじ開けるのが大変だったわ」
(……CIAからスカウトが来そうなのに、なんでこの人、女子高生なんてやってるんだろう?)
姉さんの指がキーボードの上で踊る。
「よし、終わったわ! 自宅のバックアップも、外部のストレージも、ランサムウェアを流し込んで完全に暗号化してあげたわ。佳奈ちゃんの動画はもちろん、ここにあるヤバそうな裏帳簿のデータもすべて私の端末に転送済み。……これで蝶野家の『首輪』は、私たちが握ったわね」
姉さんは満足げに、自分のスマートフォンをポケットに仕舞った。
画面には、もはや二度と復元できない銀子会長の「支配の証拠」たちが、ゴミのように消去されていくログが映っていた。
「……あ、あ、あああ……っ!!」
銀子会長は、自分の帝国が指先一つで崩壊したことを悟り、力なく床に崩れ落ちた。
「姉さん、目的は果たしたんだ。そろそろ救急車を呼んで引き上げよう」
僕の提案に、姉さんは冷徹な瞳を崩さなかった。
「ダメよ、純君。こういう手合いはね、中途半端に痛めつけるのが一番良くないの」
手下たちが全滅し、文字通りの『裸の女王』と化した銀子会長へ、姉さんが音もなく歩み寄る。
歯の激痛と底知れぬ恐怖にガタガタと震える銀子会長の髪を、姉さんは無造作に掴み上げ、無理やり立たせた。
「何度も言うけれど。あんたたち全員、明日中に退学届を出しなさい。二度と私たちの前に現れないと誓うなら、今日はこれで勘弁してあげる。……でも、もし逆恨みして私たちや、私たちの『大切な人』に手を出そうとしたら――」
姉さんは空いた手で、銀子の二の腕を測定不能の握力で静かに「圧殺」した。
「あ、が……っ!? 〇……〆÷*8々€!!」
もはや言語を成さない悲鳴が漏れる。姉さんはその顔を至近距離で覗き込んだ。
「誓うの? 誓わないの? はっきりしなさい。私は気が短いのよ」(いまさらそれ言う?)
「ち、ちか……いま、す……っ」
消え入りそうな声。だが、姉さんは許さなかった。今度は容赦なく、彼女の奥歯を指先で引っこ抜いた。
「はぁ? 聞こえないわね。……もう一本、いっとく?」
(姉さん、栄養ドリンクの宣伝じゃないから!)
「ち、誓います! 誓いますからぁッ!! ごめんなさい、許して、助けて……パパ、パパぁ……っ!!」
かつての独裁者は、もはや幼児のように泣きじゃくり、床に這いつくばった。姉さんはその耳元で、呪文のように低く囁いた。
「……今日だけは、信じてあげるわ」
姉さんはその後、蝶野会のメンバー一人ひとりに「誓い」を立てさせた。気絶したふりをする者や、目に敵意を残す者には、容赦なく追撃の制裁が下される。
最後に残った陣内には、姉さんの声から温度が消えた。
「あんたみたいな奴は、絶対に反省なんてしない。……だから、こうしてあげる」
――メキッ、ボキッ、バキィィィッ!!
二度と聞きたくない破壊音が響き渡る。使い物にならなくなった右腕だけでなく、左肘、そして両膝。姉さんの軍靴が、彼の「暴力の根源」を粉々に踏み砕いた。
一生をベッドの上か車椅子で過ごすことになるだろう。僕も彼がやったこと知らなかったら、「やりすぎだよ!姉さん」と止めに入った。だが、罪もないサラリーマンを半身不随にし、その家族の人生まで奪った男だ。シャバでのうのうと生きてきた報いとしては、これでも生ぬるい。僕は静かに、納得して目を逸らした。
「一応警告しておくけれど。警察に泣きつきたければご自由に。もちろん、あんたたちの悪事もすべて白日の下にさらされることになるけれど。……もし、私たちを道連れにする覚悟があるなら、陣内と同じ末路を辿る準備をしておきなさい」
姉さんの最後通牒に、全員が激痛に耐えながら必死に頷いた。
だが、蝶野銀子だけは、屈辱に震えながらもその瞳の奥にどす黒い火を灯していた。
(……これ、また一波乱あるな。はぁ、僕の胃薬、足りるかなぁ)
これで、蝶野会の帝国は完全に沈没だ。
皮肉なものだ。タイタニックに乗っていたのは、僕たちじゃなく蝶野会の方だった。今後は大西洋の冷たい海ならぬ、世間の冷たい荒波に揉まれ、溺れないよう必死に生きていくことになるだろう。
自業自得とはいえ、せめてこれを教訓に更生してほしいものだ。……はぁ。検事になったら、こんな感傷は日常茶飯事になるんだろうか。将来の夢が、少しだけ憂鬱になった。
去り際、一応生徒会の固定電話で匿名で救急車だけは呼んでおいてあげた。今夜の夜間救急センターは、折れた腕と砕けた前歯の山でてんてこ舞いだろう。
(……医療従事者の皆さん、本当にすみません。後で匿名で差し入れの料理vberで頼んでおこう。)
本当は姉さんからのお小遣いなんて受け取りたくないのだけれど、彼女は有無を言わせぬ笑顔で、高校生には重すぎる額の『軍資金』を僕の財布にねじ込んでくる。
「大丈夫よ、純君! 師匠との修行時代、賞金首をたくさん『生け捕り』にしたから、お姉ちゃん貯金はいっぱいあるの! 検事の仕事が嫌になったら、私が一生養ってあげるから安心してね♥」
アメリカの賞金稼ぎ(バウンティハンター)は、生きて連行してこそ多額の報酬が出るらしい。姉さんの「手加減して生かしておく技術」は、そんな修羅場で培われたものなのだ。
……けれど姉さん。僕はヒモになんかなりたくないんだよ!
さあ、今度こそ本当に帰ろうとしたら、姉さん、窓の外じぃ~と睨見つけながら、右手の中指立てて、アッカンベーまでしているよ。ここ5階だから、窓の外には誰もいないはずなのに?
「姉さん、どうかしたの?」
「気にしないで純君、ちょっとコウモリに挨拶してただけよ。」「?」
「いいから、いいから、早くかえりましょう。それともこのまま、大人のデートに向かっちゃう♥」
「明日も学校だから早く帰って予習しなくちゃ!姉さんも英語や数学はともかく、海外長かったんだから、現国や古典勉強しなきゃ!」
「純君のイケズ…………」
帰り道。街灯の下を、姉さんは僕の腕にしあわせそうに抱きつきながら歩いていた。
ふと、姉さんのスマートフォンが震えた。着信相手を確認した彼女は、珍しく真剣な顔で僕を見た。
「純君、ごめんね。少しだけ、離れていてくれる?」
姉さんが自分から僕に「離れて」なんて言うのは、滅多にないことだ。
ただ事じゃないと感じた僕は、何も言わずにスッと距離を置き、背を向けた。背後から漏れ聞こえる姉さんの声は、ひどく低く、冷徹な響きを帯びていた。
「分かってるわ……。健康診断(定期報告)は受けるから。その件はまたいずれ。……それから、今回の件もよろしく頼むわよ。どうやってって? それくらい自分で考えなさい。あんたたち、それでもスパ……ゲフンゲフン! ……そうそう、この前のドラマ、面白かったわよね!」
姉さんが突然、不自然な大声を出した。
「アリバイがないからって疑われた容疑者が、実はいい年してアイドルの『推し活』をしていて、それがバレたくなくて嘘をついてたなんて! 本当、東京で推し活してたなんてバカバカしい理由よねぇ! ……ええ、そういうわけだから。よろしく頼んだわよ」
電話を切った姉さんが、何食わぬ顔で駆け寄ってくる。
「純君、お待たせ! いやー、海外の友達から久しぶりに連絡が来ちゃって。彼女、日本語が堪能でびっくりしちゃうわよね!」
「……はぁ」
僕は露骨に溜息をついてみせた。
「姉さん、僕ももう高校生だよ。そんな下手な芝居はいい。姉さんが僕に話せないことを抱えているのは分かってる。……でも、これだけは言わせて。僕は姉さんを信じてる。だから、もう絶対、どこにも行かないでね」
「……純君」
「どうしても行かなきゃいけない時は、僕も連れていって。僕は姉さんがそばにいてくれるだけで、幸せなんだから」
「じゅ、純君……っ! 私も幸せ! 純君に会えて、義姉弟になれて本当に良かったぁ……!」
姉さんの瞳に、じわりと涙が浮かぶ。街灯の光に照らされたその表情があまりに綺麗で、僕も柄にもなく胸が高鳴った。
「姉さん……」
「え、ま、待って純君! 私、まだ心の準備が……っ!」
見つめ合う二人。いい雰囲気になりかけた、その時だった。
「……あ、あれ見て! あの駄菓子屋、無造作に置いてある段ボールの中……ま、まさか、あれはっ!?」
僕は姉さんを置き去りにしてダッシュした。視線の先には、奇跡のような光景が広がっていた。
「こ、これは八〇年代に全国の男子を虜にした伝説のプロレスバトル漫画、『ゼイ肉マン』の初版本じゃないか!!」
震える手で一冊を手に取る。
「見てよ姉さん! この初版本の凄いところは、スーパーマンやスパイダーマンが伏せ字もなしで実名で登場しているところなんだ! 今の版じゃ絶対に見られない、奇跡の著作権無法地帯……これぞ歴史的遺産だよ!」
「はいはい。その情熱、少しは私にも向けてほしいわね……」
姉さんは呆れ顔で溜息をつきながらも、僕の嬉しそうな顔を見て、満足そうに微笑んだ。
その頃。
血と泥に塗れて這いつくばる銀子の瞳には、まだ黒い怨念が渦巻いていた。
(……ち、ちきしょう。……あいつら、絶対に許さない。パパに頼んで、あいつら全員、惨殺してやるわぁぁぁぁっ!!)
失った前歯の隙間から漏れる、汚い呪詛。
彼女がその「パパの権力」すら、すでに姉さんの指先一つで、警察組織のアリバイ工作(という名の裏金調査)の道具として利用され始めていることに気づくのは、もう少し先の話である。




