16Carat シュレーディンガーの子猫ちゃん
16Carat シュレーディンガーの子猫ちゃん
がやがやそわそわ、落ち着かない女子生徒たち。
どの女子生徒も頬を赤らめ、潤んだ瞳で熱烈に“その人物”へと視線を注ぐ。
“その人物”を目にした彼女たちの当初の反応はさまざまだが、結局はその様へと帰結するのだ。
ある者は、きゃあっと包み隠さず声をあげて、人目を気にせずその様へ。ある者ははっと息を飲んだかと思えば恥じらいの表情でうつむき、そっとその様へ。
“その人物”――――彼、は、廊下を歩いていた。
女子生徒は、彼の歩行を遮らないよう廊下の端へと身を引いて、すれ違う際には上目づかいで可憐な乙女の眼差しを向ける。お礼の代わりに彼はふわりと微笑んで、さらに彼女たちを上気させる。直列に並んだ教室の窓の向こう側からも、熱い乙女の恋慕に満ちた視線を受けて、彼はある教室の前で立ち止まった。
―――ガラッ……!
教室のドアを引いた瞬間、その教室内の女子生徒を同じく魅了して、彼は教壇へと立った。
「ちょっと百合っ!やばいよ!藤居先生の代わりの先生っ!めっちゃイケメン!!」
「ふぁ…………。んう…なぁに~~?」
猫のように大きな欠伸をする口元を片手で押さえながら、百合は興奮した様子の親友の美結へと顔を向けた。美結は凛とした雰囲気のポニーテールの似合う女の子なのだが、今はしまらない顔つきで、恍惚の表情を浮かべている。
「教壇を見なさいっ!」
――ぐいっ!
「ふぁいっ?!(はい?!)」
ぼぉっとして覚醒しない頭をがしっと掴まれて、百合は視線を教壇へと向けさせられた。
―――真っ黒くて、綺麗な人が立っていた
カラスの羽のように艶のある真っ直ぐな黒髪はもみあげ部分を残して後ろで高い位置から一つに結い上げられて、鮮やかな紅葉色の和風の細い組紐で幾重にも巻き締め、蝶結びされている。長い前髪もエム字型に分けられて、中央に顔の長さ程の長めの一房が横になびく。結い上げても腰下あたりまである長い髪。おそらくその紐を解けば足元近くまで届くであろう。すらりと背の高い細身の体は黒のスーツで染め上げられて、黒ずくめ。
しかしそれは気品ある、黒。ワインレッドのネクタイを首元に締め、六つボタンのついたダブルスーツの袖口をルビーレッドのカフスボタンでとめ、左胸にはブラック・ルチルクォーツのラペルピンが光る。
そしてなにより、とても整った顔立ちをしていた。
長めの前髪の間から覗く微笑みを含んだ赤い瞳。流れるような長い睫毛。きめの細かい白い肌。何一つとして非の打ち所のない、形の良い目鼻立ち。美のイデアを具現化したかのような中性的な美しい漆黒の紳士であった。
美結は、ねっ!やばいでしょっ!今世紀最大のイケメンでしょっ!と言いながら、百合の正面へ移動して、顔を覗きこんでくる。
「……うん。真っ黒いきれいな人だね。あの人が藤居先生の代わりの先生なのかな。」
百合は微笑みながらも、美人であることにはそれほど関心もなさそうに言った。
「反応うすっ!隠さなくていいのよ~!目がうるんでるんだからっ、ほんとはときめいてるんでしょっ!!」
「あくびしたから涙が出てるだけだよー…さっきの始業式での校長先生、『…であるからしてーー』って話がなかなか終わらないんだもん。眠くなっちゃった……でも、美結の言う通り、きれいな人だとは思うよ?」
そう返事をしながら、百合は正面で信じられないと首をかしげている親友を、隣の席へと座らせた。何を隠そう、そこは美結の席である。
―――キーン…コーン、カー…ン…コーン
ホームルームを告げるチャイムの音が鳴って、教室内はしんと静まり返った。
視線が全て、教壇の見慣れぬ人物へと集中する。
――フ……
真黒な彼は、優しげに笑って、固い雰囲気をいっきにやわらげた。
「―――そんなに見つめないでいただけますか?穴が空いてしまいます。」
穏やかで丁寧な口調に、女子生徒はうっとりと聞き惚れ始める。
「ご存じだとは思いますが、皆さんの担任である藤居先生が産休に入られましたので、代わりにワタシが、皆さんの担任を請け負わせていただきます。」
高く結い上げた長い黒髪を艶やかにゆったりと揺らし、彼は教室全体を見回した。
穏やかで優しそうな表情に、男子女子問わず、生徒は安心したような表情を浮かべている。
――にこっ
(あれっ……?今、こっちを見て笑ったような?)
ぼーっとしながら、教壇の彼を見ていた百合は、一瞬だけ彼と目が合ったような気がした。
気を持ちなおして視線を彼に向き直したときには、もう彼は別の方向を向いていた。
「担当科目は国語。司書教諭も担いますので何か用がありましたら図書室の教諭室へお越しください。授業が入っていないときにはそこにいますから、お気軽に。おっといけない。まだ名乗っておりませんでしたね―――」
彼は右手を胸の前にもってきて、恭しくお辞儀をした――
「ワタシは――――黒鍾美 楪と、申します。以後お見知りおきを。」
お昼休みになって、百合と美結は図書室に居た。
いつもはそこまで賑わっていない図書室も、今日は新任司書教諭目的の女子生徒で埋め尽くされている。百合は来るつもりは毛頭なかったのだが、すっかり新しい担任の虜になっている美結に引っ張られて、図書室の中に別室で備え付けられている教諭室を覗きこむはめに。ドアの小さなガラス窓から、女子生徒たちは目的の人物を、押すな押すなのぎゅうぎゅう詰め状態でちやほやしている。百合と美結もその群衆に巻き込まれて、身動きが取れなくなっていた。
「いたたっ!ねぇ美結!私、教室に戻ってもいい?」
「いいわよって言いたいところだけどっ……この状態で、動けるの?」
「……無理!掃除が始まるまで、このままなのかな……いたっ!」
「いたぁ!誰よっ!今髪ひっぱったの!」
「押さえてっ美結!動くとますます苦しいっ!!」
後ろからどんどん野次馬は数を増やしていくため、前方にいる百合と美結は、自然と抑えつけられる。
楪はそんな状態にはわれ関せずといった様子で、机に向かっていたが、それを見かねて立ち上がった。
「きゃあ~~~~~!!!」
「近づいて来てくれた!!」
「やばい!すっごいイケメンっ!」
ドアを隔てて、目的の人物がこちらへ向かってきたので、乙女たちは黄色い歓声をあげる。
無表情のまま楪は、はぁっとため息をついて、ドアを開く。
――ガラガラッ!!
「きゃっ!」
「わっ!」
ドアが急に開かれたため、百合と美結は勢いに乗って、室内へと放り出される。彼女たちを楪は両腕で受け止めると、うらやましそうにそれを見ている上気した女子生徒たちへと優しく注意した。
「見世物ではないのです。ここまで集まられてしまうと、図書室利用者に迷惑でしょう?賢明な麗しい子女であるアナタたちなら分かっていただけますね?掃除の時間も近いのですから、教室にお戻りください。」
「はーーーーーい♡」
「きゃあああ~~~~~!!」
賢明な麗しい子女という言葉に頬をますます赤くしながら、女子生徒たちは蜘蛛の子を散らすように、素直に退散していった。
「あの、ありがとうございます……。」
「黒鍾美先生っ!私、先生のクラスの西永美結です!」
楪の腕から離れながら、二人は背の高い彼を見上げてお礼を言う。
「いいえ。怪我がなくて何よりです。美結さんですね、覚えましたよ。」
彼は優しげに笑って、美結の乱れてしまった髪を整えてやった。
「………あ、ありがとうございます!きゃぁああ……!」
「さ、きれいになりましたよ。同じ髪型をした者同士、仲良くしましょうね。」
「はい!よろしくお願いしますっ!じゃあ、掃除に行くよ、百合!」
「う、うん!」
天にも昇る気持ちの美結は、百合の手を取って、上機嫌で駆け出そうとする。
「―――待ってください。百合さんはここに残って、ワタシの荷物整理を手伝っていただけますか?」
(あれ……?先生、私の名前もう知ってるの…?)
「はい。分かりました………?」
百合は後ろでうらめしそうにわめいている美結を放って、その場に残る羽目になった。親友の視線が背中に刺さって精神的に痛いが、こうなった以上、しょうがない。
楪は中へと百合を案内し、段ボールに入った荷物(主に本)を、机に運ぶよう指示した。
「すみませんね。一人だとなかなか進まなくて。」
「いいえ。私で良かったらなんでも言って下さい。それよりも…先生はどうして私の名前を知ってたんですか?」
「あぁ。朝のホームルームの時、ぼーっとしているのが唯一アナタだけだったので、出席簿で名前を確認させていただきました。いけない子ですね。ワタシの授業でしたら、教科書を一ページ音読してもらうところです。」
机に本を並べながら、楪は百合のほうへと視線を落として悪戯っぽく笑った。
「あ……はは。勘弁してください……」
地面に座って段ボールから本を取り出していた百合は、肩をあげて、申し訳なさそうに苦笑いした。
―――――当たり前…だろう……?白百合の…きみ………――
「……?あれ?何か今…聞こえた?」
一瞬、地の底から響くような、どすの利いた声が微かに聞こえた気がして、上を見上げる。
「どうしました?」
朗らかな様子の楪を見て、気のせいかと思い、何でもないと伝えて作業をすすめる。
「教師がこんなことを聞くのは避けるべきことかもしれませんが、教えてくれますか?」
本を並べる手を休めて、不意に楪は楽しげに尋ねた。
「なんですか?」
「百合さんには想い人はいらっしゃいますか?いらっしゃるのでしたら、どんなところがお好きなのですか?もしかして、もう恋人だとか……?」
「へぇっ!!?何ですかいきなり!」
百合は持っていた本をバラバラと落として、慌てて拾い集める。
「そんなの……なかなか言えないですよ~!楪先生って、大胆なこと聞きますね…!」
頬を一気に染め上げて、持っていた本で、顔を隠す。
「想い人のことを考えるだけで、人は誰しも幸せになれるもの……なれない土地に異動してきて、心が毛羽立っているワタシの心に潤いを与えると思って、淡々とでいいですから、話していただけませんか?もちろん、誰にもいいません。」
楪は大人の落ち着きとも言える口調ながら、柔らかい微笑みを浮かべて、縮こまっている少女を丸め込む。
「………う~。」
百合は耳まで真っ赤にして固まっていたが、俯きがちに、おずおずと口を開き始めた。
「――その人は、私の心を救ってくれた人です。」
「はい。」
満足そうな声をあげて、楪は壁に背を預けながら、楽しげに目をつぶる。
視覚も触覚も捨てて、一言も聞き逃すまいといった姿勢であった。
「すごくきれいな人で、毛先だけゆるめの癖がついた髪が、歩くたびに右肩にさらっと揺れて、思わず触ってしまいたくなります。背が高くて…スタイル抜群で。その人の匂いが何となく鼻をかすめるだけで、幸せになります。瞳も宝石みたいに澄んできれいで……その目に見つめられると、見ほれて動けなくなってしまいそう。いつもその目で私を優しく見つめてくれるから、私も甘えて…覗き込んでしまいます。とても心地よくて……一番心惹かれているのは、瞳なのかもしれません。」
百合の脳裏には、イレールの姿があった―――――
きりりと接客をする姿
空いた時間に宿題をする自分に、そっとお茶をだしてくれる姿
キッチンに立ってボウルを混ぜる姿
指を鳴らす姿
友人と笑い合う姿
迎えに来てくれて、うれしそうに近寄ってくれる姿
マフラーを大切そうに巻いてくれる姿
宝石を取り出して、心の救済をする神秘的な姿
そして――ずっと隣に居てほしいと言ってくれた、何事にもかえられない、あの瞬間の彼の姿
「どんなことにも真摯に向き合ってくれて、すごく誠実な人です。私の前ではあまり弱い部分を見せずに頑張っているような気がして、少し心配というか、淋しいなって思うこともありますが……。それは優しすぎるからで………私を傷つけないよう大事に、大切にしてくれているのだけは、すごく感じます。私はその人にとって恋人ではないはずなのに――――」
百合は、黒曜石の瞳を幸せそうに潤ませた
「―――――――これ以上の愛情に、出会ったことはありません。」
「それほどの、純粋できれいな愛情を、向けてくれるんです―――」
彼女はそっと、胸ポケットからピンク・サファイアのバレッタを取り出すと、それを胸へと抱き寄せた。
楪は目を開き、ふっ、と意味深ににやりとした。
「その幸せが、ずっと続くといいですね。」
「はい………いつまでも、私はあの人の隣に居たいです。」
「バレッタ見せてくれますか?きっと思い出の品なんですよね。」
百合からバレッタを受け取ると、彼はそれを興味深げに観察した。
一瞬、瞳が怪しく瞬いた
「ありがとうございます。透明度の高い良質のサファイアですね。高校生が持つには少し早いような気がしますが。」
それを百合へと手渡す。
「お守りなんです。楪先生は、宝石にお詳しいんですか?」
彼の口ぶりからはそんな気がした。
「昔、ワタシの人生を変えてくれた人物が、宝石についてよく聞かせてくれたのです。その人は時々変わったことを言う人で、宝石の輝きは人の心、心の輝きは宝石だと言っていましたよ。全く、何を言っているのでしょうね。」
彼は呆れたように言い捨てつつも、表情は柔らかかった。
(イレールさんみたいな人が、他にもいたんだ。どんな人なんだろう?)
そんな柔らかい表情を、百合も優しい表情で見上げる。
――――キーン……コーン…カー…ン、コー…ン
掃除の終了を告げるチャイムの音が鳴る。
「終わってしまいましたね……ゆったりとした心地よい時間が………」
楪は残念そうに言った。
百合は午後の授業に出るべく、立ち上がって、身なりを整える。
「すみません……荷物整理、あんまり進みませんでした。」
本はまだ段ボールにぎっしりとつまっている。
「構いません。貴重なお話でしたよ。本当に。」
本当に、の部分に力がこもっていた。
「今日話したことは、ぜったいに!誰にも話しちゃダメですからねっ!!じゃあ、これからよろしくお願いします、楪先生!」
彼女は念を押すと、最後ににこっと笑って教室へと帰って行った。
楪は目を細めて、彼女の後姿を見送っていたが、急にうつむいた。
―――クッ…クッ…
肩を震わせて、さも愉快そうに笑っている。
―――クッ……
「――――――おめでたい!なんとおめでたいことか!白百合の君!!!」
ぐらりと頭が傾いて、狂気に満ちた紅い双眼が黒髪の間から覗く。
それは司書教諭、黒鍾美楪ではなかった
それは別の“だれか”
「キサマらの安寧の時間は終焉を迎える!!ワタシが全て破壊し、オマエの躯を奪い去る!オマエはSanta-Luciaへの贄となる。愛しい者を失ったSaint-Hilaireは絶望の深淵へと沈み、死よりも耐えらぬ辱めを受けるのだ!」
前髪をかきあげ、瞳を爛々とさせながら、口元が大きく歪む。
「オマエの学び舎は今やワタシの『呪術の園』という名の箱庭。その中に囚われた白百合の君は、半死状態の白い猫。シュレーディンガーの哀れな子猫――――」
「では、手始めの呪術を。」
「デスサイズを手放した道化に、今一度刃を握らせてご覧にいれましょう―――――」




