↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『エリザベートとジュディ、美貌の代償』  作者: 東曌


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/11

第八話 美しさを管理する者たち 皇后とスター、それぞれの檻

第八話 美しさを管理する者たち

 皇后とスター、それぞれの檻



美しさは、誰のものなのだろう。


本人のものだろうか。


それとも、その美しさを見つめ、称賛し、消費する人々のものなのだろうか。


十九世紀のヨーロッパに、エリザベートという皇后がいた。


二十世紀のアメリカに、ジュディ・ガーランドというスターがいた。


二人は、同じ時代を生きてはいない。育った環境も、社会的な立場も、人生を取り巻く制度も違う。


エリザベートは皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の妻として、ハプスブルク帝国の宮廷に生きた。


ジュディは映画会社MGMに所属し、観客に夢を届けるスターとして働いた。


一人には王冠があった。


もう一人には、スポットライトがあった。


けれど、王冠もスポットライトも、それを身につける人に、自由だけを与えてくれるものではなかった。


## 一 皇后の美しさは、国家のものだった


エリザベートは、ヨーロッパでもっとも美しい女性の一人として語られた。


長く豊かな髪。細い身体。整った顔立ち。


その姿は肖像画や写真を通して広まり、彼女の名声を形づくった。


しかし、皇后という立場は、単に美しい衣装を着て人々の前に立つことではない。


宮廷には宮廷の作法があった。公式行事があり、訪問客があり、皇族として果たすべき役割があった。


皇后は一人の女性であると同時に、帝国の象徴でもあった。


彼女の振る舞いは、個人の好みだけで決められるものではない。人々は皇后の姿に、宮廷の威厳や国家の格式まで読み取ろうとした。


美しさは、彼女自身の身体に宿っていた。


しかし、その美しさに与えられる意味は、彼女一人では決められなかったのである。


エリザベートは髪の手入れに多くの時間をかけ、体重や身体の状態にも強い関心を向けた。乗馬や旅行を好み、宮廷の生活から距離を取ろうとした。


こうした行動には、本人の美意識や意志があった。


だから、彼女をただ周囲に支配された被害者として描くのは正確ではない。


彼女は、自分の身体を自分のものとして保とうとした人でもあった。


けれど、そこには矛盾があった。


自分の身体を自分で管理しようとすることが、いつしか美しさを維持するための厳しい規律へと変わっていく。


美しくあることは、彼女にとって誇りであると同時に、手放しにくい課題でもあったのではないだろうか。


皇后という立場から逃れたいと願いながらも、皇后としての美しさは、彼女の名声と切り離せなかった。


## 二 スターの身体は、映画会社の管理下にあった


ジュディ・ガーランドを取り巻いた環境は、エリザベートの宮廷とは大きく異なっていた。


MGMは、映画を製作する会社だった。


俳優を契約で管理し、作品を企画し、撮影日程を組み、宣伝を行い、観客にスターの魅力を届けた。


スターの人気は、映画会社にとって重要な資産だった。


ジュディには、歌う才能があった。


声には力があり、感情を歌に乗せることができた。観客を笑わせ、泣かせ、スクリーンの向こうへ連れていく力があった。


一九三九年の『オズの魔法使』でドロシーを演じたとき、彼女は世界中の観客の記憶に残る存在となった。


だが、スターとしての成功は、本人の才能だけで成り立つわけではなかった。


撮影所には、仕事の予定がある。役柄に求められる外見がある。宣伝のためのイメージがある。


ジュディは、体重や外見について管理を受けた。撮影所時代の薬物使用をめぐっても、彼女の健康と仕事の関係は、後年まで大きな問題として語られてきた。


ただし、すべてを映画会社の命令だけで説明することはできない。薬物の使用や依存には複数の要因が絡み、本人の健康状態や周囲の対応、当時の医療や労働環境も考える必要がある。


それでも、子どもの頃から仕事を続け、求められる姿でいることを期待された彼女にとって、身体と仕事の関係が大きな負担になっていたことは確かだ。


映画会社は、観客が見たいスターを必要とした。


しかし、観客が見たい姿と、スター本人が生きやすい姿は、必ずしも同じではなかった。


## 三 王冠とスポットライトは、同じものではない


ここで、二人を単純に重ねてしまわないようにしたい。


エリザベートは皇后だった。彼女の生活は、王朝、宮廷儀礼、皇族としての責任と結びついていた。


ジュディは映画スターだった。彼女の生活は、契約、撮影日程、映画産業、興行と結びついていた。


皇后は、国家の象徴として見られた。


スターは、観客の夢を担う商品として扱われることがあった。


この違いは大きい。


エリザベートが宮廷から距離を取ろうとしたことと、ジュディが映画会社の仕事を続けることに困難を抱えたことを、同じ経験だと断定することはできない。


しかし、二人の人生を並べることで、ひとつの問いが浮かび上がる。


人々がある女性に特別な価値を見いだしたとき、その女性自身の望みは、どこまで尊重されるのだろうか。


皇后には、皇后らしさが求められた。


スターには、スターらしさが求められた。


その期待は、名声をもたらした。


同時に、そこから外れる自由を難しくすることもあった。


## 四 美しさを愛することと、人を大切にすること


エリザベートの美しさは、今も肖像画や博物館、舞台作品を通して人々を引きつける。


ジュディの歌声は、映画や録音を通して、今も新しい世代に届いている。


二人の魅力が、時代を越えて人々の心を動かすこと。それ自体を否定する必要はない。


美しいものに心を奪われることも、優れた歌声に感動することも、人間の自然な営みだ。


問題は、その魅力を愛するあまり、本人の苦しみや望みを見落としてしまうことにある。


美しい皇后は、いつも美しくなければならなかったのか。


愛されるスターは、いつも観客を喜ばせなければならなかったのか。


本人が疲れていたとき、自由になりたいと願ったとき、あるいは期待に応えられなくなったとき、周囲は彼女たちを一人の人間として見ることができたのだろうか。


その問いは、過去の宮廷や撮影所だけに向けられるものではない。


現代の私たちも、誰かの美貌を評価する。誰かの才能を称賛する。画面に映る姿から、その人の幸福まで想像してしまう。


しかし、私たちが見ているのは、その人の人生の一部分にすぎない。


肖像画には、描かれなかった時間がある。


映画には、編集で切り落とされた時間がある。


そして、どれほど鮮明な映像が残っていても、本人の内面をすべて知ることはできない。


美しさを愛することと、その人を大切にすること。


この二つは、似ているようで、同じではないのかもしれない。


エリザベートとジュディ。


一人は王冠を背負い、もう一人はスポットライトを浴びた。


二人の人生を同じものにすることはできない。


けれど、彼女たちの姿を通して、私たちは考えることができる。


人々が求める理想の姿と、本人が生きたい人生が食い違ったとき、私たちは何を守ろうとするのか。


その答えを探すために、次は二人の死後に目を向けてみたい。


人が亡くなったあと、残された人々は、その人をどのように記憶するのだろうか。


そして、現実の一人の人間は、いつから「伝説」へと変わっていくのだろうか。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。