第八話 美しさを管理する者たち 皇后とスター、それぞれの檻
第八話 美しさを管理する者たち
皇后とスター、それぞれの檻
美しさは、誰のものなのだろう。
本人のものだろうか。
それとも、その美しさを見つめ、称賛し、消費する人々のものなのだろうか。
十九世紀のヨーロッパに、エリザベートという皇后がいた。
二十世紀のアメリカに、ジュディ・ガーランドというスターがいた。
二人は、同じ時代を生きてはいない。育った環境も、社会的な立場も、人生を取り巻く制度も違う。
エリザベートは皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の妻として、ハプスブルク帝国の宮廷に生きた。
ジュディは映画会社MGMに所属し、観客に夢を届けるスターとして働いた。
一人には王冠があった。
もう一人には、スポットライトがあった。
けれど、王冠もスポットライトも、それを身につける人に、自由だけを与えてくれるものではなかった。
## 一 皇后の美しさは、国家のものだった
エリザベートは、ヨーロッパでもっとも美しい女性の一人として語られた。
長く豊かな髪。細い身体。整った顔立ち。
その姿は肖像画や写真を通して広まり、彼女の名声を形づくった。
しかし、皇后という立場は、単に美しい衣装を着て人々の前に立つことではない。
宮廷には宮廷の作法があった。公式行事があり、訪問客があり、皇族として果たすべき役割があった。
皇后は一人の女性であると同時に、帝国の象徴でもあった。
彼女の振る舞いは、個人の好みだけで決められるものではない。人々は皇后の姿に、宮廷の威厳や国家の格式まで読み取ろうとした。
美しさは、彼女自身の身体に宿っていた。
しかし、その美しさに与えられる意味は、彼女一人では決められなかったのである。
エリザベートは髪の手入れに多くの時間をかけ、体重や身体の状態にも強い関心を向けた。乗馬や旅行を好み、宮廷の生活から距離を取ろうとした。
こうした行動には、本人の美意識や意志があった。
だから、彼女をただ周囲に支配された被害者として描くのは正確ではない。
彼女は、自分の身体を自分のものとして保とうとした人でもあった。
けれど、そこには矛盾があった。
自分の身体を自分で管理しようとすることが、いつしか美しさを維持するための厳しい規律へと変わっていく。
美しくあることは、彼女にとって誇りであると同時に、手放しにくい課題でもあったのではないだろうか。
皇后という立場から逃れたいと願いながらも、皇后としての美しさは、彼女の名声と切り離せなかった。
## 二 スターの身体は、映画会社の管理下にあった
ジュディ・ガーランドを取り巻いた環境は、エリザベートの宮廷とは大きく異なっていた。
MGMは、映画を製作する会社だった。
俳優を契約で管理し、作品を企画し、撮影日程を組み、宣伝を行い、観客にスターの魅力を届けた。
スターの人気は、映画会社にとって重要な資産だった。
ジュディには、歌う才能があった。
声には力があり、感情を歌に乗せることができた。観客を笑わせ、泣かせ、スクリーンの向こうへ連れていく力があった。
一九三九年の『オズの魔法使』でドロシーを演じたとき、彼女は世界中の観客の記憶に残る存在となった。
だが、スターとしての成功は、本人の才能だけで成り立つわけではなかった。
撮影所には、仕事の予定がある。役柄に求められる外見がある。宣伝のためのイメージがある。
ジュディは、体重や外見について管理を受けた。撮影所時代の薬物使用をめぐっても、彼女の健康と仕事の関係は、後年まで大きな問題として語られてきた。
ただし、すべてを映画会社の命令だけで説明することはできない。薬物の使用や依存には複数の要因が絡み、本人の健康状態や周囲の対応、当時の医療や労働環境も考える必要がある。
それでも、子どもの頃から仕事を続け、求められる姿でいることを期待された彼女にとって、身体と仕事の関係が大きな負担になっていたことは確かだ。
映画会社は、観客が見たいスターを必要とした。
しかし、観客が見たい姿と、スター本人が生きやすい姿は、必ずしも同じではなかった。
## 三 王冠とスポットライトは、同じものではない
ここで、二人を単純に重ねてしまわないようにしたい。
エリザベートは皇后だった。彼女の生活は、王朝、宮廷儀礼、皇族としての責任と結びついていた。
ジュディは映画スターだった。彼女の生活は、契約、撮影日程、映画産業、興行と結びついていた。
皇后は、国家の象徴として見られた。
スターは、観客の夢を担う商品として扱われることがあった。
この違いは大きい。
エリザベートが宮廷から距離を取ろうとしたことと、ジュディが映画会社の仕事を続けることに困難を抱えたことを、同じ経験だと断定することはできない。
しかし、二人の人生を並べることで、ひとつの問いが浮かび上がる。
人々がある女性に特別な価値を見いだしたとき、その女性自身の望みは、どこまで尊重されるのだろうか。
皇后には、皇后らしさが求められた。
スターには、スターらしさが求められた。
その期待は、名声をもたらした。
同時に、そこから外れる自由を難しくすることもあった。
## 四 美しさを愛することと、人を大切にすること
エリザベートの美しさは、今も肖像画や博物館、舞台作品を通して人々を引きつける。
ジュディの歌声は、映画や録音を通して、今も新しい世代に届いている。
二人の魅力が、時代を越えて人々の心を動かすこと。それ自体を否定する必要はない。
美しいものに心を奪われることも、優れた歌声に感動することも、人間の自然な営みだ。
問題は、その魅力を愛するあまり、本人の苦しみや望みを見落としてしまうことにある。
美しい皇后は、いつも美しくなければならなかったのか。
愛されるスターは、いつも観客を喜ばせなければならなかったのか。
本人が疲れていたとき、自由になりたいと願ったとき、あるいは期待に応えられなくなったとき、周囲は彼女たちを一人の人間として見ることができたのだろうか。
その問いは、過去の宮廷や撮影所だけに向けられるものではない。
現代の私たちも、誰かの美貌を評価する。誰かの才能を称賛する。画面に映る姿から、その人の幸福まで想像してしまう。
しかし、私たちが見ているのは、その人の人生の一部分にすぎない。
肖像画には、描かれなかった時間がある。
映画には、編集で切り落とされた時間がある。
そして、どれほど鮮明な映像が残っていても、本人の内面をすべて知ることはできない。
美しさを愛することと、その人を大切にすること。
この二つは、似ているようで、同じではないのかもしれない。
エリザベートとジュディ。
一人は王冠を背負い、もう一人はスポットライトを浴びた。
二人の人生を同じものにすることはできない。
けれど、彼女たちの姿を通して、私たちは考えることができる。
人々が求める理想の姿と、本人が生きたい人生が食い違ったとき、私たちは何を守ろうとするのか。
その答えを探すために、次は二人の死後に目を向けてみたい。
人が亡くなったあと、残された人々は、その人をどのように記憶するのだろうか。
そして、現実の一人の人間は、いつから「伝説」へと変わっていくのだろうか。




