第六話 同じ撮影所、違う運命―ジュディ・ガーランドとエリザベス・テイラー
第六話 同じ撮影所、違う運命―ジュディ・ガーランドとエリザベス・テイラー
ハリウッドには、夢をつくる場所があった。
大きな撮影所。
まぶしい照明。
豪華な衣装。
そして、スクリーンの向こう側にいる何百万もの観客。
映画会社は、まだ幼い少女たちの中に、未来のスターを見つけようとした。
ジュディ・ガーランドも、エリザベス・テイラーも、その世界で育った。
二人は、ともにメトロ・ゴールドウィン・メイヤー、MGMに所属した子役である。
同じ撮影所。
同じ映画産業。
同じように、幼いころから大人たちの判断を受けながら、カメラの前に立つ仕事を続けた。
けれども、二人に求められたものは、同じではなかった。
ジュディには、歌声があった。
人の心に届く歌。
喜びも悲しみも、一つの旋律に込める表現力。
観客を笑わせ、泣かせ、物語の中へ連れていく力。
一方、エリザベスには、見る者の目を引きつける美貌があった。
印象的な瞳。
長いまつ毛。
子どものころから際立っていた顔立ち。
もちろん、エリザベスは美しいだけの女優ではない。演技を重ね、役を演じ、やがて大人の女優としても評価されていく。
ジュディも、歌うだけの少女ではなかった。喜劇の間合いを理解し、演技をし、共演者と呼吸を合わせる力を持っていた。
二人とも、確かな才能を持っていたのである。
それでも、映画会社が彼女たちを売り出すとき、強調される魅力には違いがあった。
ジュディは、歌い、踊り、観客を楽しませる少女スターとして期待された。
エリザベスは、幼いころから、その美貌が注目を集めた。
同じ撮影所にいても、スターとしての価値を決める物差しは、一つではなかったのだ。
## 一 ジュディの身体は、誰のものだったのか
ジュディの歌声は、彼女自身の努力と才能によって磨かれたものだった。
しかし、映画会社は、その声だけを評価していたわけではない。
スクリーンに映る姿。
衣装を着たときの見え方。
カメラの前に立ったときの印象。
それらもまた、スターとしての評価に関わっていた。
ジュディは体重や食事について、スタジオから管理や圧力を受けたと、後年の証言や伝記で語られている。
まだ若い彼女にとって、仕事を与える大人たちは、自分の将来を左右する存在でもあった。
もっと努力すれば、認められるのだろうか。
もっと周囲の期待に応えれば、安心して仕事ができるのだろうか。
そのような問いが、彼女の胸に浮かんだことがあったとしても不思議ではない。
ただし、彼女がそのとき何を考えていたのか、私たちはすべてを知っているわけではない。
確かなのは、ジュディの身体が、本人だけの問題ではなく、映画会社が管理しようとする対象になっていたことだ。
歌声は彼女のものだった。
しかし、その歌声をスクリーンに届けるための身体は、周囲からさまざまな注文を受けていた。
ここに、スターという仕事の矛盾がある。
人々を楽しませる才能がある。
その才能を発揮するには、仕事を続けなければならない。
けれど、仕事を続けるために、本人の身体や生活まで管理されるようになったら、いったい誰のために、その才能を使っているのだろう。
## 二 エリザベスのまなざし
エリザベス・テイラーは、ジュディとは違う入口からスターへの道を進んだ。
彼女の目は、幼いころから人々の印象に残った。
青みを帯びた瞳と、豊かなまつ毛。その特徴的な目元は、彼女の美貌を語るとき、しばしば取り上げられる。
二重まつ毛については、医学的には睫毛重生と呼ばれる状態が知られている。通常のまつ毛とは別に、もう一列のまつ毛が生えることがある。
エリザベスの場合、この生まれ持った特徴が、彼女の印象的な目元の一部として語られてきた。
映画の世界では、ほんの一瞬の表情が、観客の記憶に残ることがある。
目を伏せる。
顔を上げる。
カメラを見つめる。
そのわずかな動きが、映画の中の人物に命を与える。
エリザベスは、そうしたスクリーン上の存在感を備えた女優だった。
一九四〇年代には子役として注目され、『緑園の天使』で大きな成功を収める。
そして成長するにつれ、少女役から大人の女性の役へと活動の幅を広げていった。
けれども、生まれ持った美貌が評価されたからといって、彼女が自由だったわけではない。
子役には、学校へ通い、遊び、友人と過ごす時間が必要だ。
しかし、映画の撮影には予定がある。
作品を完成させるための仕事がある。
大人たちが決める契約や撮影の都合がある。
エリザベスもまた、幼いころから、映画産業の仕組みの中で働いた少女だった。
彼女の美貌は、スターへの扉を開く大きな力になった。
しかし、その扉の向こうには、撮影所の管理や、仕事への期待が待っていたのである。
## 三 美貌があれば、苦しまなかったのか
ジュディとエリザベスを比べると、ひとつの疑問が浮かぶ。
生まれ持った美貌がスターとしての魅力になったエリザベスは、ジュディよりも恵まれていたのだろうか。
そう簡単には言えない。
エリザベスは、美貌を持っていたからこそ、幼いころから外見を注目される立場に置かれた。
人々は、彼女の顔立ちを称賛した。
映画会社は、その魅力を作品や宣伝に生かした。
観客は、スクリーンの中の彼女を見つめた。
そのことが、彼女に喜びを与えた瞬間もあっただろう。
自分の演技が評価されること。
仕事を成し遂げること。
観客に愛されること。
それらを、すべて苦しみだったと決めつけることはできない。
しかし、称賛されることと、自分の人生を自由に決められることは別である。
エリザベスも、子役としての仕事や教育、家庭の事情など、さまざまな制約の中で成長した。
美貌は、彼女の才能の一部を目立たせる力になった。
けれど、美貌があれば、すべての問題が消えるわけではない。
ジュディは、体格や外見について周囲から評価され、管理された。
エリザベスは、美貌そのものが注目を集める存在として、成長していった。
二人の経験は違う。
それでも、どちらの人生にも、本人の意思だけでは決められないことがあった。
ここで考えたいのは、どちらが幸運だったかということではない。
社会が人の外見や才能に価値をつけ、その価値を維持することを求めたとき、本人の希望はどこまで尊重されるのか、ということだ。
## 四 スクリーンの中の少女、スクリーンの外の人間
一九三九年、ジュディは『オズの魔法使』でドロシーを演じた。
ドロシーは、家に帰りたいと願う少女だった。
仲間たちと旅をし、困難を乗り越え、故郷の大切さを知る。
ジュディの歌声は、ドロシーの願いを世界中の観客へ届けた。
一方、エリザベスは、成長とともに、より大人びた役へと進んでいく。
一九五二年の『黒騎士』では、レベッカを演じた。
黒髪と印象的な目元。衣装に身を包み、画面に姿を現す彼女は、強い存在感を放っていた。
ドロシーとレベッカ。
二人は、まったく異なる物語の中に生きている。
ドロシーは、故郷を求める少女だった。
レベッカは、周囲の偏見や危険に直面する女性だった。
そして、二人を演じた女優たちもまた、それぞれ異なる人生を歩んでいた。
観客は、映画の中の人物を愛する。
ドロシーの笑顔に励まされ、レベッカの美しさに目を奪われる。
けれど、その役を演じた人間が、撮影の合間に何を考え、何を心配し、どのような生活を送っていたのか。
映画だけを見ていても、すべてを知ることはできない。
スクリーンは、物語を映す。
しかし、俳優の人生そのものを、すべて映すわけではない。
## 五 愛されたことと、理解されたこと
ジュディは、歌声によって愛された。
エリザベスは、美貌と演技によって愛された。
二人とも、多くの人々の記憶に残るスターになった。
その人気は、映画会社の宣伝だけで生まれたものではない。本人たちが持っていた才能と魅力が、人々の心を動かしたからこそ、長い年月を経ても作品が見られ続けているのだ。
しかし、愛されたことと、理解されたことは同じではない。
観客が愛したのは、スクリーンの中の姿だった。
歌うジュディ。
ドロシーを演じるジュディ。
美しい目でカメラを見つめるエリザベス。
『黒騎士』のレベッカを演じるエリザベス。
それらは、確かに彼女たちの一部である。
けれど、彼女たちのすべてではない。
仕事ができない日もある。
疲れている日もある。
人に会いたくない日もある。
期待に応えられない日もある。
スターにも、そんな日があったはずだ。
それでも、観客が求めるのは、いつもの歌声であり、いつもの美しさであり、いつもの輝きだったのかもしれない。
人々に愛されることは、幸せの一つになり得る。
けれど、その愛が、特定の姿を保つことへの要求に変わってしまったら。
その人は、ありのままの自分で愛されているのだろうか。
それとも、期待された姿を演じ続けることで、愛されているのだろうか。
この問いに、簡単な答えはない。
ジュディもエリザベスも、苦しみだけでできた人間ではなかった。
二人には才能があり、喜びがあり、仕事への誇りがあった。
だからこそ、その人生を、苦難の物語だけに閉じ込めてしまいたくない。
ただ、輝かしいスターの姿の向こう側に、本人の人生があったことを忘れずにいたい。
美貌は、彼女のすべてではない。
歌声も、彼女のすべてではない。
二人は、観客が愛したイメージよりも、ずっと大きな存在だった。




