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純白の魔法世界に共産の真赤を  作者: おとぎ長
第一章 赤の真価は、魔法で進化する

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7/8

七 織られた魔法陣

 サーリが硬貨を缶に戻すあいだ、私は灯りの石を見ていた。

「ひとつ、訊いてもいいかな」

「なに」

「その魔力というものがあるなら、お兄さんの傷も、それで治せるものではなかったのか」

 サーリの手が止まった。

「治せるよ。教会の治癒なら」

「教会」

「神父様が、古い言葉の呪文を読んで、唱えるの。そうすると、傷も、病気も、元に戻る。……でも、すごく高い。坑夫が一年働いても、一回ぶんにならない」

「では、自分で唱えることは」

 サーリは、缶の蓋を閉めた。

「できない。わたし、文字が読めないから」

 

 私は、少し意外に思った。

 この部屋には、灯りの金具にも、棚に貼られた札にも、文字がある。文字の読めない者が多い暮らしなら、こうはならない。

「この辺りでは、文字を読めない人は多いのかな」

「ううん」

 サーリは首を振った。

「町の子は、みんな七つになったら学校で、文字と呪文を習うの。ダッカだって読めるよ。火をおこすのとか、水をきれいにするのとか、小さい呪文なら、ちっちゃい子でも唱えられる」

「君も、学校に」

「行った。でも、文字が、じっとしてないの」

 サーリは、宙に指で何かを書くような仕草をした。

「見てると、ぐるぐる入れ替わって、どれがどれだか分からなくなる。先生には、なまけてるって言われた。神父様には、呪いだって言われた。だから、呪文も、ひとつも覚えられなかった」

 

 私は黙って頷いた。

 ディスレクシア、という言葉が浮かんだ。発達性の読み書き障害。知能には何の問題もないのに、文字を音や意味に結びつける働きだけがうまくいかない。前の世界では、学習障害の一つとして知られていた。

 相談会に来た母親の中に、そういう子を連れた人が何人かいた。宿題のプリントを前に泣く子。音読の時間に教室を抜け出す子。どの子も、最初は「なまけている」と言われていた。診断がついてようやく、本人も親も、自分のせいではなかったと知った。

 治るものではない。ただ、読み上げてもらう、耳で覚える、書く代わりに話す。やり方を変えれば、学ぶことはできた。

 だが、この世界の魔法は、文字を読まなければ始まらないという。

 あの子たちにとって、これ以上残酷な世界は、なかなか思いつかなかった。

 

 サーリは立ち上がり、織機の横木を指さした。

 そこに、掌ほどの真鍮の板が打ちつけてあった。円の中に複雑な図形があり、その周りを、細かな文字がぐるりと取り巻いている。

「これ、魔法陣。糸が切れにくくなるの。お母さんが、職人さんに刻んでもらったんだって」

「魔法陣というのは、こうして文字で書くものなのだね」

「うん。図と、文字。文字のほうに、何をするかが書いてあるんだって。だから普通は、文字が読めないと作れないし、直せない」

 サーリは、真鍮の板に指を当てた。

「でも、わたし、形なら分かるの。文字は読めないけど、文字がどこにどう並んでるかは、ぱっと見たら分かる。織機の紋紙と同じ。穴の並びで、模様が決まるでしょ」

「だから、真似をした」

「うん。文字を読まないで、形だけ、紋紙に写して、布に織ったの。そしたら」

 サーリは少しだけ、得意そうな顔をした。

「ちょっとだけ、効いた。真鍮のよりずっと弱いけど、糸が切れにくくなった」

 

 私は、その意味を考えた。

 文字で書かれた命令を、読まずに、その配置だけを写し取る。意味を知らないまま、形をなぞって、別の素材に置き換える。それで、動いてしまった。

 理屈の上では、ほとんど無茶な話だった。

 

 サーリは寝台の下から木箱を引きずり出した。

 蓋を開けると、細長い布が詰まっていた。端がほつれ、乾いた血と膿で茶色く汚れている。包帯だった。

「お兄ちゃんが怪我したとき、治癒の魔法陣なんて、見たこともなかった。だから」

 サーリは一番上の一枚を床に広げた。真鍮の板の写しと、ほとんど同じ模様だった。

「織機の魔法陣を、ちょっとずつ変えたの。糸を切れにくくするのを、傷を閉じるのに」

 二枚目を隣に並べる。線が少し増えている。三枚目、四枚目。日を追うごとに、模様は枝分かれし、絡み合い、元の形を呑みこんでいった。

 十枚を超えたあたりで、もう、どこが真鍮の板の名残なのか、私には見分けがつかなかった。

 

「毎晩、包帯をほどいて、傷を見るの。傷の形と、その周りの、魔力の流れ。それで、昨日の模様のどこが合ってなかったか考えて、教会にある魔法陣を真似て直して、新しいのを織る」

「流れが、見えるのかな」

「見えるっていうか……分かるの。模様と同じ」

 十三歳の子どもが、誰にも教わらず、文字も使わず、糸を守るための小さな魔法陣を、毎晩一人で、人を治すためのものに作り変えていった。

「こういう布の魔法陣は、ほかにもあるのかな」

「ないよ」

 サーリは、あっさりと言った。

「布の魔法陣なんて見たことないよ。普通は職人が彫刻で作るものなの。そもそも、文字のない魔法陣なんて、魔法陣じゃないって言われた。呪いの子の、変な織物だって」

 

「傷は、ちゃんと閉じたんだよ」

 サーリの声が、少し小さくなった。

「膿も、ちょっとずつ減ってた。痛いのも、包帯を巻いたら楽になるって、お兄ちゃん言ってた。……なのに、体のほうが、どんどん固くなって」

 見えている傷は治せた。見えていない毒には、届かなかった。

 昨日、口に出しかけたことだった。今日は、黙っていた。

 

 私は、自分の右手の包帯を見た。床のどの布よりも、模様が細かく、深い。

「これが、最後の一枚だね。お兄さんが亡くなってから、仕上がった」

「……うん」

「死んだ人に治癒を使うことは、よくあることなのかな」

 サーリは、首を強く横に振った。

「だめなの。ぜったい。死んだ人を起こすのは、死霊術っていって、悪魔の業なの。そういう話を聞いたら、すぐ神父様に言いなさいって。使った人は、火で焼かれるって」

「では、私のようなものは」

「いない。何百年も、いない。お話の中だけ」

 サーリは私を見た。

「わたし、死霊術なんて知らない。教会の壁の魔法陣だって、文字がいっぱい書いてあるから、わたしには関係ないと思ってた。神父様も言ってたもん。死霊術は、呼ぶ死者の名前を書いて、悪魔に差し出すんだって。わたし、名前なんて書けない」

「書かなかった」

「書けないの」

「だから、だろうね」

 

 頭の中で、話がつながっていった。

 治癒とは、損なわれたものを元に戻す術だという。治癒の魔法陣を真似て織られた布が、死んだ体に巻かれた。布は傷を戻し、それから、失われた命まで戻そうとした。

 命を戻すには、戻すべき魂が要る。

 文字の読める術者なら、そこに名前を書く。誰の魂を、どこから。だが、この子の布には文字がない。宛先のない呼びかけは、この世界の死者だけでなく、どこか遠くまで届いてしまった。

 そして、拾える魂は、一つしかなかった。

 

 あの晩、私の手を握る者は誰もいなかった。誰にも看取られず、誰にも呼び止められず、私はただ、どこにも繋がれないまま浮いていた。

 ケルドは違った。サーリが、最後まで手を離さなかった。

 だから、兄は戻らなかった。

 だから、私が来た。

 

 私は、それを口にしなかった。

 君が手を離さなかったから兄は戻らなかったのだ、などと、どんな言い方をしても、そうとしか聞こえない。

 

「おじさん?」

「いや」

 私は首を振った。

「君の布は、よくできていると思ってね」

 嘘ではなかった。

 ただ、言わなかったことのほうが、ずっと多かった。

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