七 織られた魔法陣
サーリが硬貨を缶に戻すあいだ、私は灯りの石を見ていた。
「ひとつ、訊いてもいいかな」
「なに」
「その魔力というものがあるなら、お兄さんの傷も、それで治せるものではなかったのか」
サーリの手が止まった。
「治せるよ。教会の治癒なら」
「教会」
「神父様が、古い言葉の呪文を読んで、唱えるの。そうすると、傷も、病気も、元に戻る。……でも、すごく高い。坑夫が一年働いても、一回ぶんにならない」
「では、自分で唱えることは」
サーリは、缶の蓋を閉めた。
「できない。わたし、文字が読めないから」
私は、少し意外に思った。
この部屋には、灯りの金具にも、棚に貼られた札にも、文字がある。文字の読めない者が多い暮らしなら、こうはならない。
「この辺りでは、文字を読めない人は多いのかな」
「ううん」
サーリは首を振った。
「町の子は、みんな七つになったら学校で、文字と呪文を習うの。ダッカだって読めるよ。火をおこすのとか、水をきれいにするのとか、小さい呪文なら、ちっちゃい子でも唱えられる」
「君も、学校に」
「行った。でも、文字が、じっとしてないの」
サーリは、宙に指で何かを書くような仕草をした。
「見てると、ぐるぐる入れ替わって、どれがどれだか分からなくなる。先生には、なまけてるって言われた。神父様には、呪いだって言われた。だから、呪文も、ひとつも覚えられなかった」
私は黙って頷いた。
ディスレクシア、という言葉が浮かんだ。発達性の読み書き障害。知能には何の問題もないのに、文字を音や意味に結びつける働きだけがうまくいかない。前の世界では、学習障害の一つとして知られていた。
相談会に来た母親の中に、そういう子を連れた人が何人かいた。宿題のプリントを前に泣く子。音読の時間に教室を抜け出す子。どの子も、最初は「なまけている」と言われていた。診断がついてようやく、本人も親も、自分のせいではなかったと知った。
治るものではない。ただ、読み上げてもらう、耳で覚える、書く代わりに話す。やり方を変えれば、学ぶことはできた。
だが、この世界の魔法は、文字を読まなければ始まらないという。
あの子たちにとって、これ以上残酷な世界は、なかなか思いつかなかった。
サーリは立ち上がり、織機の横木を指さした。
そこに、掌ほどの真鍮の板が打ちつけてあった。円の中に複雑な図形があり、その周りを、細かな文字がぐるりと取り巻いている。
「これ、魔法陣。糸が切れにくくなるの。お母さんが、職人さんに刻んでもらったんだって」
「魔法陣というのは、こうして文字で書くものなのだね」
「うん。図と、文字。文字のほうに、何をするかが書いてあるんだって。だから普通は、文字が読めないと作れないし、直せない」
サーリは、真鍮の板に指を当てた。
「でも、わたし、形なら分かるの。文字は読めないけど、文字がどこにどう並んでるかは、ぱっと見たら分かる。織機の紋紙と同じ。穴の並びで、模様が決まるでしょ」
「だから、真似をした」
「うん。文字を読まないで、形だけ、紋紙に写して、布に織ったの。そしたら」
サーリは少しだけ、得意そうな顔をした。
「ちょっとだけ、効いた。真鍮のよりずっと弱いけど、糸が切れにくくなった」
私は、その意味を考えた。
文字で書かれた命令を、読まずに、その配置だけを写し取る。意味を知らないまま、形をなぞって、別の素材に置き換える。それで、動いてしまった。
理屈の上では、ほとんど無茶な話だった。
サーリは寝台の下から木箱を引きずり出した。
蓋を開けると、細長い布が詰まっていた。端がほつれ、乾いた血と膿で茶色く汚れている。包帯だった。
「お兄ちゃんが怪我したとき、治癒の魔法陣なんて、見たこともなかった。だから」
サーリは一番上の一枚を床に広げた。真鍮の板の写しと、ほとんど同じ模様だった。
「織機の魔法陣を、ちょっとずつ変えたの。糸を切れにくくするのを、傷を閉じるのに」
二枚目を隣に並べる。線が少し増えている。三枚目、四枚目。日を追うごとに、模様は枝分かれし、絡み合い、元の形を呑みこんでいった。
十枚を超えたあたりで、もう、どこが真鍮の板の名残なのか、私には見分けがつかなかった。
「毎晩、包帯をほどいて、傷を見るの。傷の形と、その周りの、魔力の流れ。それで、昨日の模様のどこが合ってなかったか考えて、教会にある魔法陣を真似て直して、新しいのを織る」
「流れが、見えるのかな」
「見えるっていうか……分かるの。模様と同じ」
十三歳の子どもが、誰にも教わらず、文字も使わず、糸を守るための小さな魔法陣を、毎晩一人で、人を治すためのものに作り変えていった。
「こういう布の魔法陣は、ほかにもあるのかな」
「ないよ」
サーリは、あっさりと言った。
「布の魔法陣なんて見たことないよ。普通は職人が彫刻で作るものなの。そもそも、文字のない魔法陣なんて、魔法陣じゃないって言われた。呪いの子の、変な織物だって」
「傷は、ちゃんと閉じたんだよ」
サーリの声が、少し小さくなった。
「膿も、ちょっとずつ減ってた。痛いのも、包帯を巻いたら楽になるって、お兄ちゃん言ってた。……なのに、体のほうが、どんどん固くなって」
見えている傷は治せた。見えていない毒には、届かなかった。
昨日、口に出しかけたことだった。今日は、黙っていた。
私は、自分の右手の包帯を見た。床のどの布よりも、模様が細かく、深い。
「これが、最後の一枚だね。お兄さんが亡くなってから、仕上がった」
「……うん」
「死んだ人に治癒を使うことは、よくあることなのかな」
サーリは、首を強く横に振った。
「だめなの。ぜったい。死んだ人を起こすのは、死霊術っていって、悪魔の業なの。そういう話を聞いたら、すぐ神父様に言いなさいって。使った人は、火で焼かれるって」
「では、私のようなものは」
「いない。何百年も、いない。お話の中だけ」
サーリは私を見た。
「わたし、死霊術なんて知らない。教会の壁の魔法陣だって、文字がいっぱい書いてあるから、わたしには関係ないと思ってた。神父様も言ってたもん。死霊術は、呼ぶ死者の名前を書いて、悪魔に差し出すんだって。わたし、名前なんて書けない」
「書かなかった」
「書けないの」
「だから、だろうね」
頭の中で、話がつながっていった。
治癒とは、損なわれたものを元に戻す術だという。治癒の魔法陣を真似て織られた布が、死んだ体に巻かれた。布は傷を戻し、それから、失われた命まで戻そうとした。
命を戻すには、戻すべき魂が要る。
文字の読める術者なら、そこに名前を書く。誰の魂を、どこから。だが、この子の布には文字がない。宛先のない呼びかけは、この世界の死者だけでなく、どこか遠くまで届いてしまった。
そして、拾える魂は、一つしかなかった。
あの晩、私の手を握る者は誰もいなかった。誰にも看取られず、誰にも呼び止められず、私はただ、どこにも繋がれないまま浮いていた。
ケルドは違った。サーリが、最後まで手を離さなかった。
だから、兄は戻らなかった。
だから、私が来た。
私は、それを口にしなかった。
君が手を離さなかったから兄は戻らなかったのだ、などと、どんな言い方をしても、そうとしか聞こえない。
「おじさん?」
「いや」
私は首を振った。
「君の布は、よくできていると思ってね」
嘘ではなかった。
ただ、言わなかったことのほうが、ずっと多かった。




