八 死んだ自由
その日、私は部屋から一歩も出なかった。
外へ出れば、誰かに会う。会えば、ケルドとして笑わなければならない。昨日のダッカとのやりとりを思い出すと、それは魔石に火を点けるよりも難しそうに思えた。
サーリは昼前に、織り上がった布を抱えて出ていき、わずかな硬貨を握って戻ってきた。それきり織機の前に座ったまま、ほとんど口をきかなかった。私も、話しかける言葉を持たなかった。
日が傾くころ、匂いに気づいたのは、私のほうが先だった。
甘く、重い匂い。目覚めたときに嗅いだのと同じものが、昨日よりはっきりしていた。傷からではなかった。私の体そのものから、立ちのぼっていた。
左手を見た。包帯を巻いていないほうの手だ。爪の付け根が、灰色がかっていた。指の腹を押すと、へこんだまま、なかなか戻らなかった。
織機の前にいたサーリが、振り向いた。鼻をひくつかせ、それから私の手を見て、顔色を変えた。
駆け寄ってきて、私の右手をつかむ。包帯の模様をなぞる指が、震えていた。
「……抜けてる。うそ、もう抜けてる」
「抜ける?」
「魔力。布に入れたのが、ちょっとずつ抜けてくの。お兄ちゃんのときも、そうだった。だから毎晩、織ってた」
サーリは私の手を離さないまま、織機のほうを振り返った。
「織らなきゃ。今夜、織らなきゃ」
灯りを点けたのは、サーリだった。私は、それを見ているしかなかった。
サーリは包帯の結び目に手をかけ、一瞬ためらってから、ほどいた。新しい紋様を織るには、傷の形を見なければならないのだという。
掌の刺し傷は、昨日より小さくなっていた。膿はまだ残っているが、縁のほうから、肉が寄りはじめている。布は体が腐るのを止めるだけでなく、兄を殺した傷を、いまも閉じようとしていた。
痛みはなかった。遠くで、何かがひきつれるような違和感があるだけだった。
だが、包帯が離れたとたん、手首から先の色が、目に見えて沈んでいった。灰色が、皮膚の下でじわりと広がっていく。
「早く、早く……」
サーリは傷を食い入るように見つめ、唇の中で何かを繰り返した。それから古い包帯を巻き戻し、きつく結んだ。灰色の広がりが、止まった。
サーリは織機に向かい、紋紙を一枚抜き出して、錐で新しい穴を開けはじめた。
私は寝台の端に座って、その背中を見ていた。
兄が倒れてから、この子はほとんど眠っていない。昨夜ようやく眠れたばかりだ。まだ十三の子どもが、また夜通し、死んだ体のために布を織ろうとしている。
「サーリ」
「なに」
「無理をしなくていい」
錐の音が止まった。
「私は、一度死んでいる。もう一度腐るくらい、どうということはない。君が眠らずに織るほどのものではないよ」
本心だった。前の世界で、私はやり直したいとも思わずに死んだ。この体で目を覚ましたことも、望んだわけではなかった。
「……なんで、そういうこと言うの」
サーリは振り向かなかった。背中が、小さく震えていた。
「どうってことない、って、なに。お兄ちゃんの体だよ」
「それは、そうだが」
「おじさんが腐ったら、お兄ちゃんも腐るの。お兄ちゃん、もう一回死ぬの」
振り向いた顔は、ぐしゃぐしゃだった。
「わたし、また見るの? お兄ちゃんが、毎晩ちょっとずつ黒くなってくの、また、ひとりで見るの?」
私は口を開きかけて、閉じた。
「それに、見つかったら……」
サーリは言いかけて、言葉を探すように唇を動かした。
「見つかったら、わたしがやったって。死んだ人に……神父様が、壁の、あの絵の……」
そこから先は、言葉にならなかった。代わりに、息だけが速くなった。
言われなくても、分かった。腐った体が長屋で見つかる。三日前に死んでいたと知れる。包帯の模様が調べられる。昨日この子が口にした「燃やされる」が、この子一人の上に落ちてくる。
「お兄ちゃんいなくなったら、わたし、施設に連れてかれる」
サーリは、袖で顔をこすった。
「呪いの子が行くとこ。前に、隣の長屋の子も行った。帰ってこなかった」
こすってもこすっても、涙は止まらなかった。
「やだ。やだよ。……ひとりは、もう、やだ」
最後のほうは、ほとんど幼い子の泣き声だった。
部屋が静かになった。灯りの石だけが、変わらずに光っていた。
私は、自分の右手を見た。
この体は、この子が毎晩織らなければ腐る。この体が腐れば、この子が燃やされる。腐らなくとも、この手が金を稼がなければ、この子は連れていかれる。
死ぬ自由すら、私にはもうなかった。
前の世界では、誰の手も握っていなかったから、ひとりで静かに死ねた。この世界では、目覚めたときから、手首を握られていた。
「……分かった」
私は寝台から立ち上がり、織機のそばへ行った。
「腐らないように、努力しよう」
サーリは鼻をすすりながら、私を見上げた。
「……ほんと?」
「ほんとうだ。何か、手伝えることはあるかな」
サーリはしばらく私の顔を疑わしそうに見ていたが、やがて、糸巻きを一つ突き出した。
「これ、巻いて。ゆるまないように」
私は糸巻きを受け取った。包帯の右手は、まだうまく指が曲がらなかった。左手で糸を引き、右手の指で押さえる。糸が、一度ゆるんだ。
「ちがう、へたくそ」
「すまない」
「わりぃわりぃ、でしょ」
「……わりぃ、わりぃ」
サーリは、まだ濡れた目のまま、ふん、と鼻を鳴らした。それから、少しだけ笑って、織機に向き直った。
錐の音が、また始まった。
私は糸を巻きながら、考えていた。生きたいと思ったわけではない。理論も、自分も、もう信じてはいない。
一人だったらまたそのまま腐っていただろう。だが幼き少女を巻き込んで死を選ぶほど、良心は腐っていなかった。




