三 あなたはだれ
少女は、織機のそばまで下がっていた。手には、木の杼が握られている。武器のつもりなのだろう。細い腕が、杼の重さで震えていた。
「……だれ」
「さて」
答えようとして、困った。名前を言ったところで、この子には何の意味もない。
「……別のところで死んだ、年寄りだよ」
「年寄りじゃない。お兄ちゃんの顔してる」
「顔は、そうらしいね」
私は寝台の上で体を起こした。体は思ったより素直に動いた。若い体というのは、こういうものだったか。動かすたびに、忘れていたことを一つずつ思い出す。
右手の包帯を、少女のほうへかざして見せた。
「これは、お嬢さんが織ったのかな」
少女は答えなかった。ただ、杼を握る指に力が入った。それが答えだった。
「お兄さんは、怪我をしたんだね。この手を」
「……鉱山で。つるはしが、刺さって」
少女の声は、低かった。
「ちっちゃい傷だったの。お兄ちゃんも、平気だって言ってた。でも、三日したら口が開かなくなって、首が固くなって、体がずっと、反り返るみたいに……」
少女はそこで言葉を切った。唇を噛んでいた。
「みんなに言ったの。お兄ちゃんが死んじゃうって。お薬ちょうだいって。でも、だれも来なかった。大げさだって。文字も読めない子の言うことだって」
「それで、自分で」
「毎晩、織ったの。前の晩の傷を見て、模様を直して。少しずつ、よくなってるみたいだったのに」
少女は織機を見た。張られた糸が、窓の光を受けていた。
「最後のが、織り上がったときには、もう、息、してなかった。でも、せっかく織ったから。巻いてあげたら、治るかもしれないって、思って」
頭の中で、話がつながっていく。
顎のこわばり。首の硬直。小さな刺し傷。おそらく破傷風に近い何かだ。だとすれば、傷をいくら塞いでも意味はない。毒はとうに体に回っていた。この子の布は、見えている傷を治そうとして、見えていない原因には届かなかった。
「つまり、君のしたことは」
口が勝手に動いていた。
「治療としては、最初から方向が間違っていた。原因は傷ではなく——」
そこで、少女の顔が見えた。
杼を握ったまま、少女は泣いていなかった。泣くのを、こらえていた。
言葉が止まった。
いま私は、何を説明しようとしていたのか。この子がどこで間違えたのかを、か。毎晩、眠らずに兄の傷を見て、一人で布を織り続けた子に向かって。
窓口の前で、私の顔を見なかった青年の横顔が浮かんだ。
私は口を閉じた。五十年かかって、ようやく覚えたのが、黙ることだった。
しばらくして、少女がぽつりと言った。
「お兄ちゃんは、どこに行ったの」
私は答えを知っていた。
死んだ私は、どこにも行かなかった。光も、川も、迎えも、何もなかった。天井の染みが消えて、梁が見えた。それだけだ。死の向こうには、何もなかった。
それを、この子に言うべきだろうか。
「……私には、分からない」
嘘をついた。
生まれて初めて、相手のための嘘だった。




