第四話 銀貨十枚
王都の冒険者ギルドは、教会の次にでかい建物だった。
二階まで吹き抜けで、正面の壁が一面、依頼票で埋まっている。紙と紙が重なって、風が通るたびに全部が一斉にめくれる。あの音は今でも耳に残っている。
人が多い。装備の音がうるさい。血と鉄と酒の匂いがする。
いい場所だと思った。ここには紙が一枚もない、と思ったのだ。壁一面が紙だらけなのに、そう思った。
*
「登録ですね。証書を」
受付の女は、俺の顔を見なかった。名札に「アニェス」と書いてあった。
俺は証書を出した。
――C六六六 ジャック・バルブ。属性、土。クラス、無し。
女はそれを、三秒より短く見た。
「土属性・無クラス。よろしいですね」
「あの」
「はい」
「実は俺、上位クラス持ちなんです。証書には書いてないんですけど、事情があって」
言ってしまった。二回目だ。
アニェスは、そこで初めて俺の顔を見た。
それから、判で押したような速さで言った。
「当ギルドは証書の記載に基づいて登録します。異議がある場合は教会の記録室へ。手数料は銀貨三枚です」
「……銀貨三枚」
「はい」
俺は黙った。
教会の記録室。あそこに行けば、フェルナン神父が座っている。銀貨三枚払って、あの部屋で何と言えばいいのか。俺の記録を伯爵家に売ったのはあなたですよね、と。
木札を渡された。Gと彫ってある。いちばん下だ。
千八百人が同じ日に鑑定を受けたときと同じで、ここでも俺は番号と等級で扱われた。ただ、あの日と違って、今度は誰も驚かなかった。
*
パーティ募集の壁は、依頼票の壁の反対側にあった。
紙に名前と等級と、できることを書いて貼る。それだけだ。
俺はこう書いた。
『ジャック G 土属性 火力担当 前衛可』
貼って、三日待った。
誰も来なかった。
当たり前だ、と今なら分かる。この王都に、土属性の無クラスは何百人といる。壁には同じような紙が四十枚以上貼ってあった。数えたから正確だ。そのうち十一枚は俺より上の等級だった。
安宿は一泊で銅貨四十枚。飯を入れると六十枚。俺の全財産は銀貨十五枚、つまり銅貨千五百枚。飯を抜けば三十七日、抜かなければ二十五日。
四日目には、そればかり計算していた。
*
五日目に、ガスパールという男が俺の紙を見て笑った。
Dランクの三人組の頭で、三十くらい。悪い男じゃなかったと思う。ただ、そういう笑い方をする男だった。
「火力担当? 属性だけで火力って書くやつ初めて見たわ」
「俺は本当は上位クラス持ちだ」
三度目だ。
周りが二、三人、こっちを向いた。
「証書は?」
「教会が、間違えたんだ」
――四度目。
あのときの俺は、その言葉が便利だと思い始めていた。一言で全部が済む。相手が黙るからだ。
黙るのは納得したからじゃない、ということを、俺はまだ理解していなかった。
「なあ坊主。じゃあ見せてみろよ」
ガスパールが、床に鉄の釘を一本転がした。
「そこまで言うんなら、見せられるんだろ」
*
俺は釘を拾った。
手のひらに乗せて、集中する。
この一年で分かったことが一つある。溶けた鉄は、俺の手の上では熱くない。
俺の手だけだ。俺以外の全部を焼く。
釘の頭が丸くなって、色が変わって、橙から白に寄っていく。指の間で、それが液体になる。
「――おい」
誰かの声がしたときには、もう投げていた。
狙ったのは訓練用の的だ。ちゃんと当たった。
白い塊は的の板を抜けて、その裏の樽を抜けて、樽の中の水が一瞬で蒸気になって天井まで上がった。的の残りが燃えた。飛び散った滴が、依頼票の壁に届いた。
紙は、よく燃える。
悲鳴が上がった。誰かが走った。
俺は、動かなかった。
自分でも意外なくらい、動けなかった。熱くないからだ。俺のところにだけ、何も届かない。
*
火は、すぐに消し止められた。
誰が消したのかは見ていない。誰かが自分の外套を叩きつけて、壁の火を押さえたのだけ、視界の端にあった。
被害は、床板が三枚。訓練用の的。樽が一つ。依頼票が十九枚。
十九枚。それは俺が数えたんじゃない。アニェスが数えた。彼女は火が消えて三十秒後にはもう数え始めていて、その速さのほうが、火よりよほど怖かった。
「損害、銀貨十枚です」
「……十枚」
「依頼票は写しを取り寄せます。依頼主への連絡も必要です。人件費が含まれます」
「待ってくれよ」
俺は言った。今でも、この台詞だけは思い出すと胃が縮む。
「俺は今、才能を見せたんだぞ。あんな威力、この階に出せるやついないだろ。それで金を取るのか」
アニェスは、俺の顔を見なかった。
「銀貨十枚です。今お支払いになりますか。それとも登録に借用として記載しますか」
*
払えば残りは銀貨五枚だった。
借用にすれば、返すまでギルドの依頼を受け続けないといけない。逃げれば手配が回る。
俺は借用にした。
――金貨二十枚は、銀貨にすると二千枚だ。一年半前の俺にとって、銀貨十枚は端数だった。落としても気づかない額だった。その計算を、俺はこのときしなかった。今、している。
その手続きの間、誰も俺を見ていなかった。さっきまで「おお」と声を上げていた連中も、もう自分の卓に戻っていた。
ガスパールだけが、帰りぎわに一度だけこっちを見て、何か言いかけて、やめた。
言われなくても分かる、と当時の俺は思った。悔しかったんだろう、と。
――今なら分かる。あれは、警告をやめた顔だ。
言っても無駄だと判断されたときの顔を、俺はあのあと何百回も見ることになる。
*
その夜、俺は宿の一階の隅で、水だけ頼んで座っていた。
飯は抜いた。銅貨四十枚。あと十二泊。
壁の俺の紙は、火の粉で端が焦げていた。誰も剥がしてくれなかったので、そのまま貼ってあった。
――結局、誰も信じなかった。
あの日、俺が思ったのはそれだけだ。
この一年、ずっと同じだった。親方も、父も、酒場のやつらも、母も、ギルドのやつらも、誰も俺を信じない。
俺はこの世界で、たった一人だ。
本気で、そう書き残せるくらいには、そう思っていた。
「六六六番だろ、あんた」




