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第三話 一年

 家を出るまでの一年について書く。


 正直、いちばん書きたくない一年だ。だが書かないと次が繋がらないので、順番に書く。


 数えるとこうなる。鍛冶屋が三日。父の現場が十一日。酒場が、たぶん百回以上。金貨二十枚が消えるまで、二百三十日。


 覚えているのは数字ばかりだ。中身のほうは、なるべく思い出さないようにしてきた。


          *


 生誕祭が終わって、雪が二回降って、三回目が溶けた頃。俺は東区の鍛冶屋の前に立っていた。


 母が「行くだけ行け」と言うから行った。行くだけのつもりだった。


 どうせ三日で見抜かれる、と思っていたのだ。あの親方が俺の手つきを見て、驚いて、「お前、まさか」と言う。そういう場面を想像していた。想像するのは得意だ。俺は前世からずっと、想像だけは一流だった。


 親方の名前はオーギュストといった。六十過ぎで、背は俺より低い。腕だけが異様に太い。四十年やっているらしい。


 そして、無属性・無クラスだった。


「弟子入り、志願です」


「証書」


 出した。


 ――C六六六 ジャック・バルブ。属性、土。クラス、無し。


 オーギュストはそれを三秒見て、返してきた。


「あの、本当は俺、上位クラスなんです。『鍛冶師』の。証書には書いてないんですけど、事情があって」


 言ってしまってから、しまったと思った。証明できないことを言うのは、この一年で覚えた癖の一つ目だ。


「手を見せろ」


「え」


「手」


 俺は両手を出した。オーギュストは俺の手を上下ひっくり返して、指の腹を親指で押して、それだけで終わりにした。


「紙の話はいい。三日やってみろ」


 ――なんだ、と思った。


 拍子抜けした。俺は反論を三通り用意していたのに、一つも使わずに済んでしまった。


 いま思えば、あれがこの世界で唯一、紙を見なかった人間だった。


          *


 一日目は、掃除だった。


 炉の灰を掻き出して、外に運んで、水を汲んで、炭を運んだ。それだけで日が暮れた。手のひらの皮が二か所むけた。


 二日目も掃除から始まった。


 昼過ぎ、オーギュストが鉄の棒を持ってきて、俺の前に置いた。


「触れ」


 俺は触った。


 ――そこで、何かが起きた。


 うまく言えない。冷たい、とか、重い、とかじゃない。棒の中身が見えた。目で見たんじゃない。手のひらから、中の様子が直接入ってきた。


「……この辺、硬すぎます。焼きが入りすぎてる。あとここ、空洞(す)が三つ。縦に並んでる」


 言ってから、自分で驚いた。「空洞」なんて言葉、俺は知らなかったはずだ。


 オーギュストは何も言わずに棒を持っていって、たがねを当てて割った。


 三つあった。縦に並んでいた。


 しばらく、誰も何も言わなかった。炉の音だけがしていた。


 そのとき俺は、勝ったと思った。


 ここからだ。ここから親方が驚いて、認めて、扱いが変わる。そういう場面が来るはずだった。


「うちに来て正解だったな」


 オーギュストは、鉄の破片を炉に放りながら言った。


「十年やれ。十年で俺を抜く」


          *


「十年」


「ああ」


「もっと早くはならないんですか」


 オーギュストは、初めてこっちを見た。怒った顔ではなかった。むしろ、少し面白がっているように見えた。


「ならん」


「でも俺、才能が」


「才能はある。だから十年で済むんだ。ないやつは三十年やっても届かん」


「……」


「手が覚えるのに十年かかる。お前の頭がどんだけ良くてもだ。頭は関係ねえんだよ、この仕事は」


 俺は、頷いたふりをした。


 頭の中では、まったく別のことを計算していた。


 十年後、俺は二十四だ。二十四で、ようやくこの東区の親方と同じところ。前世の記憶があって、三万人に一人の上位クラスがあって、それで、十年。


 ――そんなわけがあるか。


 これは何かが間違っている。俺の使い方が間違っている。もっと早く、もっと大きく届く道が、絶対にどこかにある。


 三日目、俺はもう一度だけ聞いた。


「あの、このクラスって、戦いに使えます?」


「知らん」


 オーギュストは箒を寄越した。


 その日の夜、俺は辞めると決めた。


          *


 辞めると言ったとき、オーギュストは引き止めなかった。


 一言だけ言った。


「またいつでも来い。炉は逃げん」


 ――あの炉は、今も同じ場所にある。


 七年経って、まだ火が入っているらしい。


 俺は、あの通りだけは通らないようにしている。


          *


 次に父の現場に行った。十一日で辞めた。


 仕事の内容は書かない。つまらないからだ。


 一つだけ書いておくと、父は初日、休憩のときに俺を連れ回って、現場の全員に紹介した。


「俺の息子だ。土属性だぞ」


 誇らしそうだった。


 俺は、その場で消えたくなった。


 父にとって「土属性」は届いた場所で、俺にとっては床だった。同じ言葉なのに、立っている高さが違う。それを本人に説明する方法が、俺には思いつかなかった。


 だから何も言わなかった。


 十一日目に、俺は道具を置いて帰った。父は現場で最後まで待っていたらしい。それを母から聞いたのは、もっとあとだ。


          *


 それから、酒場に通うようになった。


 「片耳の鹿亭」という店だ。安くて、汚くて、夜中まで開いている。


 最初のうちは楽だった。金があるからだ。奢れば、みんな話を聞いてくれる。


 俺は自分の話をした。教会の裏の部屋の話。器具が浮いた話。三万人に一人の話。


 最初の二か月くらいは、それで通った。


 三か月目に、ロベールという男が言った。石工の見習いで、俺より二つ上だった。


「そりゃ大した話だが、証拠はあんのか」


 俺は銅貨を一枚、テーブルに置いた。


 手をかざす。集中する。


 銅貨の縁が、じわりと橙色になった。輪郭が丸くなって、中心が沈んで、そして落ちた。溶けた銅がテーブルの板を焼いて、じゅう、と鳴って、向こう側まで抜けた。


 店が静かになった。


 それから、わっと沸いた。ロベールが俺の背中を叩いた。誰かが酒をおごり返してきた。俺は、その夜がこの一年でいちばんいい夜だったと思っている。


 テーブルの弁償に銀貨八枚取られたことを除けば。


          *


 問題は、次の質問だった。


「じゃあよ」


 ロベールが、コップを置いて言った。悪気はなかったと思う。今でもそう思っている。


「なんで証書には『無し』って書いてあるんだ?」


 俺は、口を開けた。


 言えることは一つもなかった。


 本当のことを言えば、金で売ったと言うことになる。金貨二十枚で、自分の記録を貴族の三男に売った男。それを言った瞬間、この店の全員が俺をどう見るかは、想像しなくても分かった。


 だから俺は、こう言った。


「教会が、間違えたんだ」


          *


 さっきとは違う静かさが来た。


 沸いたあとの静かさじゃない。もっと薄くて、冷たいやつだ。


 隣にいた誰かが、俺の袖を引いた。


「……おい。それは言うな」


「なんで」


「なんででも」


 その夜、店の空気はもう戻らなかった。


 俺は、その理由が分からなかった。


 いや、分かるはずだった。母の話を聞いていたのだから。分かるはずだったのに、俺は自分に都合よく処理した。「こいつらは教会が怖いんだ、臆病者だな」と。


 それから半年、俺は同じことを言い続けた。


 言うたびに、聞いてくれる人間が減った。金がなくなるにつれて、もっと減った。


 最後のほうは、店の隅で一人で飲んでいた。


 東区では、俺はもう「上位クラスの子」ではなかった。


 「教会が間違えたって言って回ってる小僧」になっていた。


          *


 母が俺の腕を掴んだのは、冬に入る直前だった。


 家の土間で、いきなりだった。指が食い込んで痛かった。母にあんな力があるとは知らなかった。


「誰に言った」


「え?」


「教会が間違えたって話だ。誰に言った。何人だ。名前を出したか。相手の名前を、覚えてるか」


 母は数えていた。


 俺は、なんでこの人が数えているのか分からなかった。


「……知らないよ。十人とか、二十人とか」


 母の手から力が抜けた。


「アタシはな、ジャック」


 煙草に火をつけようとして、三回失敗した。


「一人にだ。一人に言っただけだ。十四のとき、神父に聞かれて、正直に答えた。それだけで六年だ」


「……」


「あんたは二十人に言ったんだ」


          *


「やめろ」


「なんで」


「なんででも」


「みんなそう言うんだよ!」


 声が出た。この一年で、いちばん大きい声だったと思う。


「なんでもかんでも『言うな』ばっかりだ。誰も本当のことを知ろうとしない。母さんもだ。母さんも、俺のこと信じてないんだ」


 母は、しばらく黙っていた。


 それから、言った。


「信じてる」


「じゃあ――」


「信じてるから言ってんだよ、バカ」


 俺は、その意味が分からなかった。


 いま書いていても、あのとき自分が何を分かっていなかったのか、正確には説明できない。ただ一つだけ確かなのは、母はあの日、俺の話を疑っていなかったということだ。


 疑っていない人間だけが、あそこまで怖がる。


          *


 冬は長かった。


 金貨は、年が明ける前に尽きた。


 剣を売りに行った。三枚で買ったやつだ。銀貨六枚にしかならなかった。店主は「飾りだからな」と言った。飾りだと知らずに買ったのは俺だけだったらしい。


 父は、残った分を全部飲んだ。責める気にはならなかった。俺が最初に始めたことだ。


 母は、あれから一度も金の話をしなかった。記録の話も、教会の話もしなかった。


 毎晩、湯屋に出て、朝に帰ってきて、寝て、また出ていった。


          *


 十五になった春、俺は家を出た。


 朝早く、二人が寝ているうちに荷物をまとめた。着替えと、干し肉と、銀貨が四枚。


 置き手紙は、前に書いたとおりだ。


 『こんな家にいたら、俺の才能が腐る』


 書くのに、たぶん一分もかかっていない。


          *


 町を出て、街道に入ったあたりで、鞄の中に入れた覚えのない包みがあるのに気づいた。


 布に、何かがくるんである。


 開けると、銀貨が十一枚あった。それと、紙が一枚。


 紙には、字が書いてあった。


 一行だけ。


 ――ジャック・バルブ


 それだけだ。ほかには何もない。


 線が震えていた。「ク」が枠からはみ出していた。同じ字を何度もなぞった跡があって、そこだけ紙が薄くなって、毛羽立っていた。


 母は、字が書けない。


 奴隷だった六年間、母には名前がなかった。番号で呼ばれていたと言っていた。


 だからこれは、どこかで、誰かに、いつからか、習ったものだ。


 いつからかは、俺は知らない。聞かなかったからだ。


          *


 そのとき俺が思ったことを、正直に書く。


 ――名前だけかよ。


 それだけだった。


 銀貨十一枚のほうは数えて懐に入れて、紙は鞄のいちばん下に押し込んだ。


 そのまま、七年、開かなかった。


          *


 俺は王都の冒険者ギルドへ向かった。


 冒険者は誰でもなれる。身分もいらない。証書もいらない。実力だけで上がっていける、この世界で唯一の職業だ。


 実力さえ見せれば紙なんて関係ない世界が、そこにある。


 俺は本気でそう思っていた。


 ――思っていたのだ。

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