恋の夜を邪魔するな
「足首にはちらりとお揃いの赤いお守りの紐。きゅん。」の文を追加しました。
不気味なほど大きな赤い月が地平線から覗く。それはやがて流される夥しい量の血を予見しているかのようだった。李一族の内通は、央の国から見れば反逆。けれど、北の国の民族から見れば正義に他ならない。央の国ができる前、ここは北の国の領土だったのだから。温暖で緑豊か、凍らない港があり、鉄鉱石や銀が採れる土地。どちらにも自分達の正義がある。
そんな緊迫した情勢など嘘のように、街はいつも通り賑やかで、私はその守られた平和に安堵する。
門扉を開くと、出迎えてくれた浩宇の姿があった。夕闇に浮ぶ涼しげな月白色の苧麻の服。まるでこの世の狭間に吸い込まれるように、私は彼の方へと誘われる。ただ、共に夕食を摂るだけのために。
最近、朱氏様が残業続きなのは承知だった。きっと2人きり。ぅふ。
「仕事、早く終わったの?」
浩宇に問い掛ければ、「そ」とムダのない返事が返される。
「朱氏様はお忙しいのにね」
「まだ、官僚には知らされてないから」
九族の刑は未だ宣言されていない。第5駐屯地の統括だった李将軍は、宮廷内の地下の独房に幽閉されている。警備は厳しく、猫の子1匹入ることはできない。
しかし、宦官の間では九族の刑が執行に向けて前準備が行われていた。文官にも武官にも李一族がいる。今回、これらの捕縛や執行の手筈を秘密裏に任されているのは宦官だった。そのため、スーパー宦官の朱氏様は連日、激務に追われている。
官僚の間では、李氏一族からそれとなく誰もが距離を置くようになったと聞く。万が一火の粉が降りかかろうものなら首が飛ぶ。
「いい匂い」
「だろだろ? 牛肉。甘辛ダレ炒め」
「わーい」
朱氏様邸には通いの家政婦がいて、掃除洗濯や食事の用意をしてくれるらしい。
和やかに夕食タイム。会話しながら、頭の中は邪な想いでいっぱい。だってだって、浩宇は二人きりって分かってて私を誘ったんだから。浩宇は私のこと男と思ってるけど、でも、たぶん、エロい目で見てるよね。「夜は変になる」なんて言っちゃうくらい。今、夜!
「おっと。枝豆の皮入れる器持って来る」
かさ かさ かさ
浩宇が立ち上がって歩くと、床のレンガの上で草鞋が乾いた音を立てる。
「あれ? いつも靴じゃなかったっけ?」
尋ねると、浩宇は草鞋を脱いで、足の指を動かす。足首にはちらりとお揃いの赤いお守りの紐。きゅん。
「水虫だから。会合には殿下が出席なさるし、さすがに草鞋は遠慮しててさ」
「そーだったんだ」
「官僚ってさ、靴履かなきゃダメってのが、辛い」
「はは。水虫泣かせだね」
浩宇らしい。官僚になっても贅沢しない。官僚は、たとえ家の中でも、もうちょい高級な絹の靴や美しい履き物を履くのに。
食事中の話題は、今後の暮らしについて。いつまでも朱氏様にお世話になるわけにもいかないので、そろそろ新居を探そうとしていると浩宇は言う。
「お母さんを呼んで一緒に住むの?」
父親が亡くなって科挙を受けられなかった話を聞いている。官僚になった浩宇は、どう考えても兄弟の中で1番収入が多いから、母親を故郷から呼び寄せると思って尋ねた。
「それがさ、母を呼べなくなったんだ。大地主んなったから」
「は?」
意味が分からず首を傾げる私に、浩宇は苦笑しながら説明してくれた。身内から官僚が出ると、臨時の税や農地への税を免除される。隣近所や親戚は税逃れのために田畑を浩宇の母親のものにし、小作人となった。これによって、小作人になった者達の税はなくなったけれど、問題が残った。浩宇の母親は故郷を離れられなくなってしまった。
「へー。そーゆー裏技があったんだ」
感心。今では、浩宇の母親は、名義貸しの見返りで何不自由なく暮らしているそうな。
「な、一杯だけ酒飲も。明日に残らない程度」
浩宇の提案に、私は快く賛成した。浩宇は盃を取りに、再びかさかさと草鞋の音を立てながら台所へ向かう。
しばらくして、廊下を何かが通り過ぎたような気配があった。レンガに固い物が当たる音が微かに聞こえた。明らかに忍んでいる微かな足音。盃を取りに行っただけなら、とっくに戻ってきてもいい。遅すぎる。
「浩宇」
嫌な予感がして、私は台所へ向かった。すぐに反応できるよう、懐の拳銃に手を添える。注意深く台所を覗くと、香ばしく魚が焼ける匂いがする。広い台所の片隅、竈門の網の上に干し魚が載っているのを、傍に置かれた蝋燭が照らし出している。
「いーじゃん。魚。中が柔らかいくらいが通なんだよ」
努めて普段通りの声を出しながら、私は竈門の中を覗き、灰を被せて火を伏せる。消しながら考える。浩宇は酒の肴をちょっと炙ろうとしただけだろうと。だとしたら、ここに姿がないのは変。台所は広い。灯りが届かないどこかに浩宇がいるかもしれない。背中で衣擦れの音を探す。斜め右後ろ、少し離れた場所に気配がある。左手で炙った魚の尻尾を持ち、私はゆっくり立ち上がって振り返った。
蝋燭の灯りは浩宇の膝と、その後ろに密着する黒い服の膝までしか届いていない。
「誰」
私は低い声を出した。
返ってきたのは、冷淡な男の声だった。
「朱氏はどこだ」
浩宇がどうされているのか分からない。密着具合から想像すると、背中からがっちりと羽交い締めにされているのだろう。
「まだ帰ってない」
「だったら待たせてもらう。静かにしてれば、何もしない。騒げば殺す」
少しずつ目が闇に慣れてきた。浩宇の首には男の太い右腕が回り、いつでも首をへし折れるよう、左手で抑え込んでいる。慎重に。浩宇の命が第一。
「朱氏様に何をするつもり?」
「潜り込ませていた僧と李将軍が、どこまで吐いたのかそれとも何も喋っていないのか、それを知りたいだけだ」
「知ってどうする。何もできない」
言葉を交わす間も、ぎらぎらした男の目は私を見据え、浩宇を押さえつける腕は揺るがない。ようやく目が慣れ、男の後ろにも私をじっと見つめる目があることに気づいた。その数、1対、2対、3対、4対。私は左手に持っていた魚の干物を男の頭目掛けて思いっきり投げつけた。
「うわぁっ」
いっせいに男の後ろで身構えていた猫が男に飛びかかった。鋭い爪が男の皮膚を襲う。
「浩宇!」
その隙に浩宇の体を引き寄せて奪還し、どかっと男を蹴り飛ばす。ふざけんなよ!
どかっ
一発KO。男は意識を失った。私は男を縛り上げる。
よくもステキな夜を台無しに!! 部屋で2人きりになれるチャンスなんて、そんなにないんだからね!
どかっどかっ
「瑞、もう蹴らなくても」
浩宇が男に情けをかける。この男の罪は重い。愛を育む(?)絶好のチャンスを奪ったんだから。ふん。あー、ムカつく。この後、しっぽり2人でお酒を飲むことなく、男を宮廷に連行しなければならなくなってしまった。
一仕事終えて喉が渇き、私は台所にあった水瓶から木杓子で水を掬って口に含む。その瞬間、脳内を思考が駆け巡る。男は朱氏様を殺しにきた。縛り上げたときに刃物は持っていたけれど、浩宇を拘束したとき刃物を使わなかった。なぜ台所に。水瓶。毒!
ぺっ
「どうした、瑞」
土間に口の中の水を吐き出した。口を濯がなきゃ。くっ。水瓶の水が使えない。口の中が熱い。口腔粘膜から恐ろしい速さで血管へと染み込んでいく。
「ど、どく。」
「瑞!」
不覚。私はめまいに襲われ、土間に倒れ込む。猫に舐めさせてはいけない。私は消えかける力を振り絞って土間を這い、吐き出した水の上に体を被せる。うつ伏せだった体が仰向けにされた。景色がぐるぐると回る中心に浩宇がいる。背中に何かが当たって浩宇の顔が近づく。
「瑞、井戸から汲んできた。水で口を濯いで」
口に水を注がれる。それはダラダラと端から溢れていく。それでも浩宇の手を借りて、私はなんとか口の中を何度も濯いだ。
「毒が分からない。皮膚から吸収されるのもある」
服が剥かれた。1秒ほど間があった。バレちゃったね。女だって。
「ごめん。」
浩宇は軍人のように硬く一言断った。さらしを鋏で切ってから毒水がかかった私の胸に新鮮な水を浴びせる。そして、自分が着ていた月白色の苧麻の服を脱いで、私の身体を包んだ。
その後の記憶は途切れている。激しく上下する激しい振動のなかで、「ああ、浩宇、いつの間にか、馬に乗れるようになったんだね」──そう思ったことだけを覚えている。




