9話「魔王様と猫?」
「……魔王様。魔王様。私たち、第8話に出てなかったですが、主役としてそのあたり、危機感とかないんですか?」
静寂に包まれた魔王城、玉座の間。
ボロボロに崩れた石床の上で、白猫のエリザベスは、倒れて気絶していた主人の腹部にご機嫌な様子で丸まっていた。彼女は、ようやく震え始めた魔王の瞼を見逃さず、顔を近づけて覗き込む。
「……む。……何を、訳の解らない事を言っているのだ……?」
「あ、やっと起きましたね。もう、どれだけ心配したと思っているんですか」
魔王は重い頭を振りながら、ゆっくりと上体を起こした。腹の上から滑り落ちた猫を抱き寄せ、力なく、しかし不敵な笑みを浮かべてみせる。
「……少しばかり、寝不足気味だったものでな」
「……もう。そういうことに、しておいてあげます」
強がる主人を、エリザベスは琥珀色の瞳でじっと見つめる。その視線には、彼が自分を守るためにどれほどの激痛に耐えていたかを知る者としての、深い慈しみと、少しの呆れが混ざっていた。
「……して、俺様はどれほど眠っていたのだ? 随分と体が重いが」
「そうですね……。二年くらい?」
「なんだ、二年か。意外と短……。……えっ? 二時間とかではなく? 二年!? まさか、本当に二年経ったのか……?」
魔王は驚愕のあまり、引き攣った顔で自分の手足を確認し始めた。
「……道理で、猛烈に腹が減っているわけだ」
「えっ、本気で信じちゃうんですか? 冗談ですよ。本当は二日です。……まぁ、二日飲まず食わずなら、お腹は空いているでしょうけど」
あまりに素直な主人の納得ぶりに、エリザベスは我慢できずに深い溜息を吐き出した。
「えっ……二日か。まぁ、二日か」
「流石に二年も経ってたら、私、もっと逞しい野良猫になってますよ」
「まあ、よい。二日だろうと腹が減っていることに変わりはない。まずは腹ごしらえだ。確か玉座の裏の、緊急用備蓄棚に……おい。エリザベス! 大変だ!」
魔王が血相を変えて指を差す。
「ここに隠しておいた、俺様の貴重な食料が無くなっているっ!」
「あぁ、それなら」
エリザベスは口の周りを前足で優雅に拭いながら、事も無げに答えた。
「私が全部食べました。主人が死んで、中身が腐ったら勿体ないですからね」
「……そうか」
魔王はそれ以上何も言わず、ただ空虚な瞳で、かつて食料があったはずの空っぽの棚を見つめていた。その背中からは、魔王としての威厳など微塵も感じられない、深い悲哀が漂っている。
そんな主人の様子を面白そうに眺めていたエリザベスが、不敵な笑みを浮かべて声をかけた。
「フフッ……冗談ですよ。魔王様、あちらをご覧下さい」
「……どうした、エリザベス。空腹で幻覚でも見せようというのか?」
魔王が力なく首を巡らせると、そこには豪華な金糸のクッションの上に、丁寧な盛り付けられた果物の山が鎮座していた。
「もちろん、空腹な魔王様のために、ちゃんと『別』に用意しておきましたよ。……ふふん。さあ、今すぐ私を褒め称えてもいいんですよ?」
「おお……っ! 流石だ、流石だぞエリザベス! お前こそが俺様の真の配下だ!」
先ほどまでの絶望が嘘のように、魔王の瞳に輝きが戻る。彼はよろよろと立ち上がると、まるで聖杯でも拝むかのような崇高な手つきで、その皿へと手を伸ばした。
ふと、魔王は果実を口に運ぶ手を止め、もっともな疑問を口にする。
「……で、これはどこで手に入れたのだ? 城の中に食料はもう無いはずだが」
エリザベスは琥珀色の瞳を細め、窓の向こう側に広がる深い闇を平然と指差した。
「城を出てすぐの、森の中ですよ」
その言葉を聞いた瞬間、魔王の脳裏に城を取り囲む禍々しい原生林の光景が浮かんだ。凶悪な魔獣が跋扈し、見るからに怪しげな植物が群生する、あの「魔の森」だ。
魔王は手の中の果実を、まるで爆発物でも見るかのような目で見つめ、戦々恐々と呟いた。
「……あの森か。おい、これ……本当に大丈夫なのか? 毒とか、あるいは呪いとか……そんな不吉なモノは含まれておらんだろうな?」
あまりに情けない主人の問いかけに、エリザベスは興味なさそうに視線を外すと、突き放すような口調で言い捨てた。
「そんなの知りませんよ。私は食べてないですし」
「……」
魔王の手が、小刻みに震え始める。
(背に腹は代えられん……毒だろうが呪いだろうが、空腹に勝る恐怖などないわ!)
魔王は意を決したように、バリバリ、ムシャムシャと無心で果実を頬張り始めた。
「……ふむ、案外いける。いや、なかなか美味いではないか!」
その食べっぷりをエリザベスが(ああ、やっぱり食べた)と半ば安心して眺めていた、その時だった。
「……ぬ? 腹が、腹が急激に熱い……。何だこの、内側から爆発するような衝撃は……! ちょっとトイレッ!!」
魔王はマントを振り乱し、脱兎のごとくトイレへと駆け込んだ。
静まり返った玉座の間。主人の排泄音(?)だけが響く中、重厚な扉が唐突に爆砕された。
「見つけたぞ魔王! お前の悪事もここまでだ。この伝説の名探偵が来たからには、事件を迷宮入りに! そう、真実はいつも僕の中に!」
そこに立っていたのは、季節外れのコートを羽織り、これ見よがしに虫眼鏡を構えた男。
エリザベスは、あまりのツッコミどころの多さに、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
(……真実を迷宮入りに? ダメじゃない? 真実は普通『一つ』だし。というか、事件って何?)
「……えーと。よく見てください。ここ、猫一匹しか居ませんが?」
エリザベスは、あからさまに「帰れ」というオーラを出しながら、面倒くさそうに前足の爪を研いで見せた。
だが、名探偵は不敵に唇を歪め、手にした虫眼鏡をキラリと光らせる。
「フッ……甘いですね。それこそが、犯人の仕掛けた精巧な『ミスリード』! 一見、ここには無害な猫が一匹しかいないように見える。だが、現場の状況を再構築すれば、自ずと真実は……」
名探偵が、いかにも「これから謎解きが始まりますよ」と言わんばかりに、仰々しく人差し指を天に突き上げた――その刹那。
「……なんか話長そうだから」
空気を切り裂く風切り音。
エリザベスの「猫パンチ」という名の、音速を超えた右ストレートが名探偵の顔面に深くめり込んだ。
「ぎゃべふっ!?」
名探偵は、自らの推理と一緒に扉の向こう側へと吹き飛んでいく。
彼はそのまま綺麗な放物線を描き、ついさっき魔王様が毒見をしたばかりの暗い森の奥深くへと、星になって消えていった。
「つい、やっちゃった」
静寂の戻った玉座の間で、エリザベスは何事もなかったかのように前足をペロリと舐めるのだった。




