10話「魔王様とトイレ?」
魔王は今、トイレの中で絶体絶命の淵から生還し、ようやく静かな落ち着きを取り戻していた。
額の汗を拭い、個室という名の聖域で、彼は深く、長く、勝利の吐息を漏らす。
「ふぅ……危なかった。あと一歩、あと一歩で、俺様の尊厳が崩壊するところだったぞ……」
そんな死線を越えたばかりの魔王の耳に、ズボンのポケットから無機質なバイブレーションが響く。液晶を確認すれば、そこには『枝豆コーヒー』の文字。
魔王は忌々しげに鼻を鳴らし、通話ボタンを押し込んだ。
「……俺様は今、重大な任務の真っ最中だ」
『あはは、いきなり酷いな魔王様! 』
スマホの向こう側で、少女が弾んだ声で叫ぶ。
「で? 用件は何だ?」
『「従魔大戦」の大型アプデ情報、見ました!? 遂に、私の最推しキャラである「マ・オウ」が限定実装されるんです! もう、興奮して昨晩から一秒も眠れてないんですよ!』
「……何だと!? あの、告知から半年以上放置されていた、もはや伝説キャラとなったマ・オウがついに来るというのか!」
『そうですよ! 性能もぶっ壊れ、ビジュアルも最高! 追い課金確定の神運営です!』
「……フッ、素晴らしい情報だ。よくやったぞ枝豆コーヒーよくぞ知らせてくれた」
先ほどまでの拒絶はどこへやら。魔王と枝豆コーヒーは、新キャラのスキル倍率や「無課金で引けるか否か」について、国家予算の審議よりも真剣な熱い討論を繰り広げていた。
ふと我に返り、通話を終えたスマホの液晶を見れば、表示された通話時間は一時間を優に超えていた。
静まり返った城内に、突如として無慈悲なノックの音が響き渡る。
ドンドンッ! ドンドンッ!
「魔王様! 魔王様ったら! いつまでそこに籠もっているんですか!? あれほど『トイレへのスマホ持ち込み禁止』って、貼り紙をしておいたじゃないですか!」
扉越しに突き刺さるエリザベスの鋭い声。だが、魔王は便座に深く腰掛けたまま、一歩も引く構えを見せない。
「待て、俺様は今、国家の存亡にも関わる『重大な任務』の真っ最中なのだ……っ。ふぅ……っ、ぬぅぅ……!」
「……その『任務』、さっきからスマホの操作音と、変なうなり声しか聞こえてこないんですけど。いい加減にしてください!」
エリザベスの語気が、焦燥を帯びて一段と強まった。
「ちょっと! 早くして下さいよ。冗談抜きで、そろそろ何時も流れからして『来る』んですから!」
「何だ、エリザベス。貴様もトイレか? 安心しろ、俺様は、フィナーレを迎えようとしているところだ。あと少しだけ待て」
その言葉を聞いた瞬間、扉の向こうでエリザベスが深く、深くため息を吐く気配がした。
「……誰がトイレの順番待ちなんて言いました! あぁ、もういいですよ、勝手にしてください!」
エリザベスの足音が、ぷいっと投げやりな様子で遠ざかっていく。その気配が完全に消えたことを確認し、魔王は固く閉じていた瞼をゆっくりと開いた。
「ふ、ふふ……危なかった……。流石に、エリザベスの前で……終焉を迎えるわけにはいかぬからな……」
額からは、冷や汗が滝のように流れ落ち、漆黒のコートをじっとりと濡らしている。
先ほどまでの電話での快活な声はどこへやら。蒼白を通り越して土気色になったその顔は、先代魔王が崩御した時よりも悲痛な色を帯びていた。
だが、安堵したのも束の間。
魔王の腹部で、再び「それ」が胎動を始めた。
「――っ!? う、ウソだろ……。静まりたまえ、俺様の腹よ……! これ以上の暴走は……」
「⋯⋯何言ってるんだか⋯⋯」
エリザベスは一人玉座の間に戻っていた。




