アバドン&カナデの場合 1
やがて私服に着替えた奏が少し恥ずかしそうに現れた。スカートを履くかと密かに大佐は期待していたが、奏はオーバーサイズのトレーナーとシンプルなデニム姿で現れた。
「スポーツブラにしてみたわ。細いけど一応ね」
リモンは奏の肩に触れてニコニコしながらもアバドンを挑発していた。
(アバドン、狙ってるでしょ。あんたの顔見たらすぐに分かったわよ)
(うるさいなぁ。狙って何が悪い。旨そうな魂の色だ…)
心の中ではバチバチしながらも、リモンはここ数日アバドンが魔界に戻るかをわりと真剣に悩んでいたのを知っていたので、少し元気が出たことにホッとしていた。欲望すら枯渇してしまうのは悪魔としては危険な精神状態だからだ。
「ここに来たついでにみんな身体に合う魔力回復薬を選んで帰るんだけど、カナデもどうかな?街中に設置した魔力回復スペースの少し上の性能の機械があって、それで測定できるよ」
奏はアバドンの言葉に興味がある様子で頷いた。アバドンは奏を連れてそちらに向かう。後ろ姿を見送った大佐は自販機で炭酸飲料を購入した。しばらくするとストラスが大佐の血中に含まれた薬のデータを持って現れた。タブレットを覗き込んで大佐は言った。
「アバドンの見立て通りだな…あいつ舐めて当てたんだよ…」
「あぁ、薬の効果がどの程度影響するのか、ちょいちょい自分の身体で実験してたから、止めとけって言ったんですよ。セイルのことが相当堪えていたんだと思います」
ストラスの言葉に大佐はため息をつく。
「…マジだったのかよ。あいつも大概…」
言いかけたとき、別の看護師と共に少女が現れたので大佐は口をつぐんだ。
(サタナキア?いつの間に来たんだ?)
魔界の定例会議で顔を合わせていた悪魔が今は女性の格好をして妊娠中の少女と共にいる。彼女は最初は子どもを堕ろすつもりでここに来たのだったが、サタナキアの働きかけで考えが変わったところだった。サタナキアの方は魔界にいる姿と大差ないベルフェゴールの姿を見て認識しない訳もなかったが、見事なまでに無視して他人のフリをしていた。
(ふーん、女になるとあんな感じにもなれるのか…意外だな)
(大佐!心の声がうるさいですから、静かにして下さい!それにさっきから一体どこを見てるんですか!)
頭の中にサタナキアの声が聞こえたので、大佐は見るともなしに見ていたサタナキアの尻のあたりから目をそらした。
(ところで、カナデは記憶のない無希望転生者のようですが、あ、無希望ってのは要するにリリスのように何らかの事件や自然現象に巻き込まれて魂が飛ばされてきてしまった転生者の通称です。だから前世の記憶はほぼないに等しい…だから、魔力回復薬については単なる体調不良扱いで見落とされているケースも少なくないんですよ。不調の原因が病ではないのに病と見なされるケースが多いようですね。主に心療内科で薬が処方されて何となく本人までそれで納得してしまう…)
(なるほどねぇ…カナデも魔力不足だとは思ってもいない風だよな。でも手を握って魔力が流れるってことは、足りないんだよな…身体は必要としている。おまけに少食だ。生理が来たことの方がある意味奇跡…)
言いかけた大佐はストラスが大佐の顔をしげしげと見つめたので頭の中の会話をストップした。
(奇跡だと思いますか?恐らく…大佐の魔力が影響を及ぼした可能性は否定できませんよ。多少なりとも気にかけていたでしょう?)
(あ…そりゃまぁ…俺はあんまりいじめが過激になるのも嫌だなと思ってただけだよ…だから様子を窺ってた)
(…大佐くらいの魔力の多い悪魔になると…様子を窺うだけでも微量ながら魔力は流れるんですよ…)
(は?じゃあカナデに生理が来たのは俺の責任なのかよ!?)
大佐は久々に動揺して、ストラスに少し笑われた。
(ま、そういうことです。十二歳の姿でもそれだけ色気を振り撒いていれば少女を女性の身体に変えることもあるでしょう…)
「はーマジかよ…やっちまったなぁ…」
大佐は炭酸飲料を飲みながらストラスの涼し気な顔を見て下唇を突き出した。
(もう一つ…これは真面目な話ですが、ムツキを本気で抱くつもりなら、きちんと悪魔に変わった後でムツキの魔力が十分に上がってからにしないと、ムツキが命を落とす可能性がありますからね…相性が良すぎると一気に魔力が跳ね上がって、そういうことが起こる…俺はルイを殺すところでしたから…あんな思いはもう二度としたくない…)
(あーそんなこともあったな…あのときのエストリエはマジで見てられなかったよ…だから言ったんだ。元気づけるためにさ。ストラスに万が一のことがあったら、俺が面倒みてやるから心配するなって…そうしたらさ)
(そうしたら…?)
「ん?一緒に見舞いに来てたアグラットに頭を引っ叩かれた」
「あぁ…そうでしたか。本当にあのときはご迷惑をおかけしました…体感的には寝て起きて…って経ってても何日かって感覚だったんですけどね…」
(うん、まぁ、言いたいことは分かったよ。念には念を入れろってことだよな。少しずつ慣らしていかないとダメってことだよなぁ…)
(大佐が言うと何やら別の意味合いにも聞こえますが…妊娠後にもルイは毎日子宮を拡張し続けないといけなくなったので…少し辛い思いをさせてしまっているのが申し訳ないというか…ルイの望みを叶えたのに…俺は常に罪悪感と共に腹の子の父親としての責任を背負ってますよ…)
ストラスが言う。
(俺もムツキで精一杯だよ。だから、カナデはアバドンあたりと落ち着いてくれないかなっていうのが、正直な気持ちだな。だってキャラメルって具体的な匂いを言ったのはアバドンだけだろ。相当…アバドンの魔力に反応したってことなんだろうな…間違いなくカナデの本能が嗅ぎ分けたんだよ)
ストラスは魔力回復スペースの方にちらりと意識を向けた。
「まぁ…わりと、いい雰囲気になってるんじゃないかな?アバドンは若いし…」
(実年齢で言うなら補佐官と大差ないだろ!あっちも名前を継いだ悪魔だし似た者どうしだ!何を年配者みたいな発言してるんだ!)
ストラスは大佐に突っ込まれた。
***
その頃アバドンは奏を魔回復スペースに入れて魔力量の数値を測定して必要な魔力の種類を分析しているところだった。時折装置の中に声をかける。
「大丈夫かい?」
「…はい」
少しくぐもった声が聞こえる。機械はしばらく動いてやがて終了を告げる音が響いた。ドアを開けて両手首と足首、頭に装着していた装着を外すと、奏は少しホッとしたような顔をした。
「ゆっくり立ち上がって」
言葉通りに奏はゆっくりと立ち上がったが少しふらついてしまい慌ててアバドンが抱き留めた。思いがけず触れ合ったことで、奏はアバドンの魔力が流れ込むのを感じた。ベルの少し重みのある魔力よりもそれは軽く一気に流れ込んで体中を駆け巡り、奏はまるで雷に打たれたようにその場に立ち尽くした。
「あ…」
それはまたアバドンも同じだった。自分の魔力が奏の中を駆け巡り奏の方からも同量の魔力が流れ込んできた。久々に感じた異なる魔力にアバドンは思わず奏を抱きしめたまま動きを止めた。
「もう少しだけ…お願い」
「あ…の……はい…」
奏は緊張しながら背の高いアバドンに抱きしめられていた。ひょろひょろと身長の高い奏はベルが来る前はクラスで一番背が高かった。
「あの…バドさんは…誰とも契約してないから…魔力…足りないの?」
「あ…あぁ…うん。恥ずかしい話だけど…魔力回復薬では補いきれなくて…」
「バドさんは…甘くて…キャラメルみたいに美味しそうな匂いがするの…どうして?」
「えっ…それは……多分…カナデさんと俺の魔力が合うからだよ…首の後ろに…キスしちゃ…ダメ…かな…ここ…」
アバドンは奏の首に指先で触れた。触れられただけでそこからするすると心地良い魔力が流れ込む。
「ここ……多分…唇からだと…もっと上がる」
「…いい…です…」
奏は頷いてしまった。こんなことは良くないのかもしれないと思う自分ともっと魔力が欲しいと思う自分がいて、そちらの欲深い自分が勝ってしまった。アバドンはそっと首の後ろに唇を近付けた。唇を感じた途端に、奏の脳裏に見たこともない光景が広がった。一面の草原と遠くに連なる山々。そしてよく晴れた青空。とても美しくもどこか懐かしい光景だった。一瞬でその景色は見えなくなり、奏の手は勝手に動いてアバドンを抱きしめていた。
「カナデさん…?大丈夫?」
「うん…もっと……」
「続ける?」
奏はこくりと頷く。アバドンは先ほどよりも奏を抱く腕に力を込めて首の後ろから魔力を注いだ。密着した身体のあちこちからお互いの魔力が流れて上昇した。けれども、アバドンはやんわりとそれを誰かの腕に中断された。
「少し一気に上げすぎだよ…お互いにこれ以上は良くない…身体が魔力に耐えられなくて熱出すぞ…」
ストラスだった。ストラスはぼんやりとした奏を軽々と抱き上げた。
「少しベッドで横になった方がいい」
「ほら、お前もだ」
アバドンは大佐に肩を貸してもらって立ち上がる。アバドンは体内を駆け巡る魔力に内臓が燃えそうな勢いを感じた。確かに上がり過ぎだ。身体の中が熱い。
「相性が良すぎるってのも考えものだなぁ…ルイともこんな感じだったのか?」
「…俺の話はいいでしょう…ルイは…炎の精霊の転生者だったんですよ…最初は小さな炎だと思っていたんだ。そうしたら覚醒したら火山くらいあったんです…」
「火山!?ルイが?」
そこまで言って大佐はしまったという顔をした。奏は不思議そうな顔をして、それからハッとした顔をしてストラスの顔を見た。
「あ…ルイって…ムツキくんのお兄ちゃんのこと…?」
「あーうん。そうだよ。俺はルイと魔界では結婚してるから」
ストラスはもうどうにでもなれと思いながら言って、それでもつけ加えた。
「悪魔は性別も自由自在に変えられるんだ。だからルイは一夫多妻制の魔界では…俺の第二夫人って位置にいる…」
「一夫多妻制…?ええっ!?」
「そんなに驚くことか?」
「う、うん…」
「あー俺は予約を含めたら嫁…六人か。ピークは十人以上いたからなぁ…」
大佐の言葉に奏はもっと目を丸くした。
「ろ…六人?」
「あ、こいつはまだいないよ。一人の悪魔のケツを追いかけてて結局振られて今に至る…だから、優しくしてやってよ。めちゃくちゃ魔力の上がる相手は貴重なんだ。離れたくなくなるからな…」
大佐はアバドンを指差して言う。ストラスはアバドンの額に手を当てた。
「あー熱出てるな…ま、この程度ならしばらく隣で寝てりゃ落ち着くだろ」
「…すいません…俺…」
アバドンは少しかすれた声を出した。呼吸も少し乱れている。
「無駄に…エロい声出すなよ。大人しく寝てろ」
大佐はアバドンの鼻をつまむと、奏に向かってニヤリと笑った。
「…魔力…どうだった?」
「えっ…」
「お互いの魔力に慣れてきたら流し合う量も安定するよ。今は腹も痛くないだろ。また痛くなったら魔力を流してもらいな。そうしたら楽になるから」
「……」
照れ臭いのか奏は沈黙した。
「カナデさん…俺…こんなだけど…役に立つよ…?」
アバドンが囁く。奏はこんな状況で眠れる訳がないと思ったのに、なぜか急に眠気を感じた。
「魔力が流れた後だから、眠くもなるよ、おやすみ」
ストラスの声が聞こえた。奏は目を閉じて、穏やかで心地良い夢の中に落ちていった。




