アバドン&カナデの場合 2
奏が目覚めると、アバドンはすでに起きていたらしくベッドのテーブルで何か難しそうな分厚い専門書を読んでいた。
「あ、起きた?お腹、痛くないか?」
「うん…大丈夫」
奏はモゾモゾと起き上がり、そこで身体から流れ出る血の不快感に顔をしかめた。奏はベッドから降りてそろりと立ち上がった。下腹部に力を入れてもそれは止められず、とても気持ちが悪かった。げんなりする。この先毎月こんな感覚に悩まされることになるのかと思うと気が遠くなった。
「トイレ…行ってくる」
しばらくして奏がトイレから出て手を洗っていると、アバドンが洗面所にやってきた。奏は少し顔色が悪かった。
「大丈夫か?俺さ、一応女にもなったことあるから…その方が良ければ女に変わろうか?見た目で話しやすいかもしれないし…」
「えっ?」
「魔界ではさ、だいたいカナデさんくらいの年齢までには…よほどのことがない限りは女になったり男になったり、みんな色んな性別を試すんだよ。中には元々両方持ってる奴もいたりするし…それでまぁ…両方の身体のことを知った上でキスしてみたり、身体を触ってみたりして、お互いの気持ちいいところを理解するんだ。魔力を流してどこが一番流れやすいかなんかも、この時期にだんだん分かってくる…こっちじゃちょっと違うのかな。恋愛感情抜きにして仲のいい奴どうしでも試したりはするよ?」
「そ、そうなの?でも…私…そもそも友だち…少ないし…今は…ベルくらいしか…話してくれる人…いないから…」
奏は恥ずかしそうに言った。アバドンはしまったと思った。
「えっ?じゃあ話し相手が必要なら、やっぱ同性から始めた方がいいのかなぁ?」
彼はそう言って突然少女の姿に変わる。奏は目の前に現れた同年代くらいの、胸が大きくてこちらまでがドキドキしてしまうような美少女に見惚れた。奏は相手が同性になったにも関わらず顔が火照った。
「うわっ…バドさん…美少女過ぎて困る…」
「何言ってんの。カナデの方が魅力的だよ」
美少女はそう言って微笑むとベッドに奏を連れ戻す。美少女姿のままベッドに奏と横になったアバドンは奏の頭を撫でた。
「女の子どうしでもキスしたりするよ?それともキスは男の方がいいの?カナデはどのくらいの年齢の相手が好み?」
「え?そんな…考えたこと…ない…」
「じゃあ、今考えてよ」
「なっ、何を?」
「例えば…悩みを相談する相手…あとは…キスしてほしい相手。あとは…なんだろうね。キスの先のこともする相手…」
「そんなこと…いきなり聞かれても…悩みを相談するなら…同年代の女の子がいいし…キ…キスは…少し…歳上の…男の子とか…?」
「その先は?」
「分かんない!分かんないよ!!キスしたこともないから!」
「……あーそうか。え?したことないの?ベル…とも?」
奏は目を見開いてこの悪魔は何を言い出すのかと慌てた。
「すすす…する訳ないよ!!ベルはそんなことしない!!」
「あーなるほど…魔界じゃ…大佐は空気を吸うように口説いてるけど…こっちじゃ違うのかぁ。ごめんごめん、もっとキスは大事にするんだっけ、こっちだと…」
「大佐?」
「あ…うん、彼は大佐だから上司。軍人だからね。僕もだけど」
美少女はそう言うとベルとは種類の違う少し歳上の美少年に変わった。ベルには色気があるが、こちらの少年は癒やし系のふんわりとした雰囲気を醸し出している。
「バドさん…そんな姿するの…ズルいです…」
「どうして?僕は気持ちよくカナデとキスしたいだけだよ?魔力の調整の仕方もさっきの失敗から覚えたからね。ダメ?」
美少年におねだりされると、奏は断るのが難しくなってしまった。いつの間にか彼は口調までが変わっている。
「一回だけ…なら…」
勝手に口がそう言ってしまい、奏は雰囲気に流された自分自身に心底呆れ果てた。けれどもその言葉を聞いたアバドンはとても嬉しそうに微笑んだ。そんなに嬉しそうな顔をされると奏はどうしていいか分からなくなった。
「…初めてのキス…もらうね?カナデって呼んでいい?」
奏は頷いた。目を閉じる間もなくアバドンの唇が重なるのを感じた。先ほどまで不快で仕方のなかった下腹部が違う感じでギュッとなって奏は慌てた。そっと重なった唇が離れても奏はドキドキしたまま、ぼんやりとアバドンの美しい顔を見ていた。
「カナデの魔力…美味しいよ…すごく甘い…僕のことを少しは好きになってるからなのかな?ドキドキしてる?生きてるって感じがするでしょ?これから僕たちが付き合って…恋人どうしになるって考えてみて?どう?僕と一緒に生きようよ。カナデのこと一生大事にするよ?」
奏はもうすでに一生分の愛を囁かれたような気分になっていた。ドキドキからバクバクに変わった心臓を抱えて奏はどうしてこうなったのか訳も分からず、やっとのことで息をしていた。ただ生きている。確かにそう感じた。
「あ…悪魔って…みんな…そうなの?」
「…何が?だってカナデの魂は僕を魅了するんだ。だから…ずっと守りたいって思ったんだよ…本当はもっと色々したいけど…カナデはまだ十二歳だから…キスだけにしておかなくちゃね…大丈夫。僕たちは相性がとてもいいからキスだけでもかなり上がるって分かったから…」
一回と言ったのにアバドンは再び唇を重ねる。魔力を流しすぎないように注意しながらそっと重ねてアバドンは奏を抱きしめた。
「あ…ごめん。またしちゃった…」
奏は顔が熱くなる。多分赤くなっているだろうと思った。
「あー甘い…めちゃくちゃ…甘い…」
アバドンは奏を胸に抱きしめて頭を撫でながら嬉しそうに言う。自分とキスしただけでこんなに嬉しそうにしている相手に奏は戸惑いつつも、ここまで喜ぶならキスしてみて良かったのかもしれないと思い始めた。
「カナデ…僕はこうしてるだけで…幸せだよ…」
「私と…一緒にいるだけなのに?」
「カナデは…幸せじゃない?」
「そんなことは…でも…お母さんは…私のこと…男の子だったら良かったのにって思ってるし…お父さんは犯罪者だから…学校では無視されてるの…バドさんは…そんな私なのに…必要って思ってくれていて…嬉しい…」
「…僕は女の子のカナデが好きだよ?もちろんカナデが男の子になりたいならそのカナデも愛するし…どんなカナデでも僕は受け止めるから不安にならなくていいんだよ?」
奏はそう言われてホッとした。けれどもそのとき甘い空気を打ち砕くかのように奏のスマホが振動して奏はビクッとした。奏はスマホを手に取る。アバドンはちらりと見て病院からだと気付いた。
「はい…はい…えっ……?」
奏はボトリとスマホを手から落として震え出す。アバドンは姿を戻して代わりにスマホを手に取った。
「カナデさんが話せなくなってしまったので、代理で承ります。はい、はい……えぇ、分かりました…今すぐ向かいます…」
奏は真っ青になってガタガタ震えていた。それは奏の母親が急逝したことを告げる病院からの電話だった。
***
アバドンはどうすべきか迷ったがストラスはすぐにジーンに連絡をして、やがてスーツ姿のジーンが奏を迎えに来た。
「二人とも乗るんだ。私がいるから問題はない。アバドンは奏についてやっていればいい」
ジーンの車の中で奏は青い顔をして震えていた。
「大丈夫だよ。俺がついてるから…」
「うん…なんで?お母さん…急に…」
奏は言ってきつく目を閉じる。やがて病院に着いたようだったが、奏はどこを歩いているのかもよく分からなかった。ただ病院の人との難しい話はアバドンの上司であるジーンが全て引き受けてくれて、そのときになってようやく、そういえば学校にも同じ名前の少年がいたことを奏は思い出した。心の中にアバドンの声が響いた。
(あぁ…ジーンって名乗ってる人物は同じ方だよ。彼は魔界の国王陛下なんだ。だから本当に俺の上司なんだよ)
(国王陛下…?)
とても偉い人だ。それなら任せて大丈夫だろうと奏は思った。奏は霊安室で母親の顔をぼんやり見ていた。結局母は自分が男の子だと思ったまま死んだのだと思ったら急に胸にポッカリと穴が空いたような気分になった。精神が不安定になって入院したのに死因は急性心不全と言われても訳が分からなかった。それなのに奏の中でもう一人の自分が嬉しそうにこう囁いた。
(やっと解放されたでしょ…)
(そんなこと、言わないで!)
(お母さん死んで良かったね!もうこれで女の子に戻れるでしょ。悪魔に愛してもらえる…)
(言わないで!!)
奏が頭を抱えて押し黙ってしまったので、アバドンは彼女の身体に触れた。奏はビクッとして顔を上げた。
「ごめん、びっくりしたか?」
奏は首を横に振って絶望的な顔をした。
「私……悲しまなきゃいけないのに…あまり悲しめないの…どうしよう…やっとこれで解放されるって…思ってる自分がいる…怖い……怖いよ…!こんなの…ダメだ…私…最低…」
アバドンは奏の頭を撫でた。
「そう思うのも仕方ないよ。実際カナデは長い間我慢してただろう?最低なんかじゃない。悪いのはカナデをこの状況でも泣けない状態にしたお母さんの方だよ…」
アバドンには死んでもなお恨めしげな顔をこちらに向ける母親の霊が見えていた。
(カナデに取り憑こうったってそうはさせないよ。こいつは俺がまっとうな女にする。ただの霊が悪魔に楯突こうとするな。三百年早いんだよ!)
アバドンは奏を抱く腕に力を込める。アバドンの魔力で母親の霊はまったく奏には近付けなかった。
(カナデは私の息子だ!女だなんて言うな!!)
(あぁ…死んでも分かんないのか。昨日の夜カナデの身体はちゃんと女の子になったんだよ。初めて生理が来た…一人でなんとかして…それでも不安で助けを求めたんだ…可哀想だと思わないのかよ。奏はあまり食べないようにして体重減らして、体型が女らしくならないようにしてたんだ…)
「カナデ、出ようか。少し外の空気を吸おう」
アバドンは奏の肩を抱いて立ち上がる。奏は頷いた。アバドンはわざとらしくその手を奏の腰に手を回す。
「お腹…痛い…」
「そっか、ここは寒いからな。冷えたんだよ。なんか温かい物でも飲むか?今、魔力、少し流すから…」
アバドンが奏の腰をさすって魔力を流すと、奏は小さな息を吐いた。
「痛いの…楽になる…」
「大丈夫だよ。カナデは一人じゃないから。みんなで守るから…怖がらなくていい。ずっと一緒にいるから」
「うん…」
アバドンはちらりと振り返る。怒りと絶望のないまぜになった顔付きの霊を残して二人は静かに霊安室から出ると扉を閉めた。




