少年ベルの場合
ベルは休み時間も大勢の男女に囲まれていたが、奏はポツンと一人、窓際の端の席で本を読んでいた。奏は痩せてひょろひょろな女子で少し長い前髪がうつむきがちなその表情を更に隠していた。
「ベル、今日の放課後から葉光祭の準備が始まるからフラフラどっかに行ったらダメだからね」
「えーだってあっちこっち呼ばれるんだもん。それに俺、工作下手だからね?いてもあんまり役に立てないかも…」
(…痛い…)
不意に奏の方から心の声が漏れ聞こえたが、すぐに教室のざわめきに掻き消されてしまう。
「そろそろ教室移動しよっか。理科実験だよね」
皆が立ち上がってぞろぞろと教室から移動し始めた。
「あれー教科書どこ行ったかな、ちょっと先行っててよ」
ベルは手を振ってランドセルの中を確認する。すぐに教科書は見つかったが奏の様子が気になったので、フラフラと立ち上がった奏が教室から出るのを見計らって、少し離れてベルは後を追いかけた。しばらく奏は歩いていたが、やがて廊下にうずくまってしまう。ベルは駆け寄って声をかけた。
「具合悪いの?保健室行こうか」
「え…?ベルくん?」
奏は顔を上げたが明らかに顔色が白かった。慌てて立ち上がろうとしたが、貧血なのかグラッと身体が揺れた。
「ほら、無理しない」
「ベルくん…私に…構わないで…聞いてるでしょ?お父さんのこと…」
「…そんなこと関係ないよ」
奏を支えてベルはエレベーターのボタンを押す。少しするとエレベーターが到着して二人は中に乗り込んだ。一階に到着して保健室のドアをノックしたが返事がないので、ベルはドアを開けた。養護教諭の姿が見えないので、空いているベッドに奏を寝かせてベルはお腹に手を当てた。
「お腹…痛い?」
奏は気まずそうに目を逸らす。
「…別に隠す必要ないよ。顔色悪いし貧血でしょ?あ、触られるの嫌だった?」
ベルは慌てて手を離す。奏は小さく首を横に振る。
「でも…バレたら…ベルくんに…媚びたって言われちゃう…」
「言わなきゃバレないよ。毎月酷いの?女の子って大変だよね…」
ベルは言いながらお腹に魔力を流す。奏は目を逸らしたまま頷いた。
「…一時的なものだけど…少しは楽になるかな…」
ベルが微調整をしながら言うと奏は驚いた様子でベルの顔を見上げた。
「痛くない…どうして?」
「うん?秘密…」
ベルが笑ったところで、養護教諭の戻ってくる気配がした。ベルはベッドから離れると入ってきた養護教諭に言った。
「先生、日野さんの具合が悪いみたいだから連れてきてベッドに横になってもらってます」
「あら、ありがとう!少し外してたものだから」
「じゃ、授業に行くんで…」
「あ、ちょっと待って!担任の先生に渡しておいて」
養護教諭はササッと連絡票にチェックをつけて自分のハンコを押した。日野の休みを受理した用紙だった。受け取ったベルはやや急ぎ足で移動する。走らないという規則は一応守る。そのとき廊下の向こう側から本日のターゲットの芦沢が歩いてくるのが見えた。一瞬手に持った用紙を渡さなければと思ったが、この機会を失うと試すのはいつになるか分からないと思ったベルはポケットのシールを剥がすと腰の辺りに二枚貼り付けた。途端に身体の魔力が低下してベルは急激なめまいを感じた。慌てて窓枠に掴まる。想像したよりも強力だ。
「君!大丈夫!?」
そういえばどうして芦沢はこの時間に付属小の方にいるのだろう、とベルは思った。
「…これ…渡さなきゃ…」
手に持った用紙を見た芦沢は一瞬怒ったような表情をした。
「今は自分の心配をした方がいいよ!魔力が低下してる…薬のアレルギーとかはある…?あ、日本語分かるかな?」
「うん…大丈夫…」
ベルはリストウォッチを押して一覧を表示した。別にアレルギーはないがそれらしく、幾つかの製薬会社の薬のうち神聖力の含有量が少し多いものは体質に合わない方に入れておいた。ちらりと見た芦沢は頷くと辺りを見回した。芦沢はベルを支えると、どういう訳か近くの小会議室のドアを開けて中に入った。
(…これ、大丈夫かな…?もしかして…マジでヤバいやつ?)
ベルは小会議室の大きな机の上に横たえられて少し怯えた表情を浮かべて見せた。
「怖がらなくても大丈夫だよ…僕は、こういう者だから」
彼はポケットから身分証を取り出した。そこにはあろうことかセラヴィ株式会社の名前と異世界転生対策本部の名前が記されていた。ベルは吹き出しそうになるのを必死に堪える。顔が歪んだのを彼は体調が悪いのと勘違いしたのか、ベルのネクタイを緩めて額に手を当てた。
「怖いことはしないから大丈夫だよ。不足した魔力を補うだけだから…」
彼はポケットから小さな注射器を取り出すとベルの腕に注射する。いったい何の薬だろうとベルは考えたが、芦沢の顔が近付いてきて唇が重なった。手を動かそうとしたが、急に億劫になり何もかもがどうでもいい、そんな気分になった。流し込まれた魔力はどことなく不快な味がした。人間だから彼は気付かないのだろうが、魔力の味が分かる悪魔にとっては嫌な味だった。
(こいつ…まさか…天使?いや…天使にしては…)
「…別に君は何も悪いことはしていないから大丈夫だよ。こういう方法で助けるのは違法だって言う人もいるけれど…でも、世の中の本音と建前は少し違うんだ…君も大人になったら分かるよ」
芦沢はベルの髪を撫でる。ベルは瞳を覗き込まれた。
「目が覚めたら君はこのことを忘れてる…いいね?」
(催眠術!?こいつ記憶まで操作するのかよ!!)
ベルはとっさに意識の一部をガードした。ベルは急激な眠気を感じる。落とされた、と思ってハッと目を開けると、目の前に養護教諭の心配そうな顔があった。
「フェルメくん!!良かった…!廊下に倒れていたのを、たまたま食券を買いに来た中等部の先生が見つけて運んできてくれたの。大丈夫?急激な魔力不足みたいね…眠っている間に少しは良くなったかな?保護者の方に連絡したのだけど…忙しいみたいね…」
そういえば、ベル・フェルメと適当な名前で差し込みをしたことをようやく彼は思い出した。ベルと呼ばれたら反応できるが、フェルメくんと言われると変な感じがする。
「…いや、もう大丈夫です…」
ベルは起き上がると密かに自分の魔力を一度吸い取ったシールを身体に貼って魔力を元の状態に戻した。
「油断しない方がいいわ。それに四時間目の授業はあと十五分くらいだからもう少し休んでいなさい。担任の先生には伝えたから大丈夫」
「はい…あの…芦沢先生が…」
「うん?どうしたの?そう、芦沢先生が連れてきてくれたの」
「いや…なんでも…ないです」
「四時間目って空腹になるでしょう?だから、時々こういう症状が出る子もいるの。だからと言って軽食タイムを設けるのも難しくて、なかなかうまくいかないわ…」
養護教諭はベルの額に手を当てる。彼女は小声で言った。
「さっきよりも顔色良くなったね。日野さんも落ち着いて眠ってるわ。フェルメくん、日野さんのこと連れてきてくれてありがとう。あの子も色々と大変な時期だから…」
「親のことまで責任取らされる方が迷惑だと思うし…何か家の事情でマスコミが騒ぐようなことが起こっても、今までと変わらずに接してくれるのが本当の友だちだって、中等部の先輩が言ってたよ」
「そうだね、そっか。フェルメくん先輩にいいこと教えてもらったね」
それはアサヒが光輝のことをそう言っていたのだった。確かにアサヒの家もごたついているが、事件を起こしたのは後から来た養子で、奏のように実の父親という訳ではない。その点では奏はアサヒ以上に不利だった。ベルが再びベッドに横になると、養護教諭は離れて奏の眠るベッドの方のカーテンからそっと中をのぞいた。奏はまだ眠っているようだった。
(あのときとっさにガードしたから…記憶は消えなかったけど…なんであいつがセラヴィの名刺を持ってるんだ?とりあえずランチタイムに陛下に報告だな…ルシフェルの奴だって、まさかセラヴィを騙ってこんなことしてる奴がいるとは思ってないだろうし…)
ベルはチャイムが鳴るまでずっとベッドの中で考え込んでいた。




