芦沢の場合 1
芦沢は地下鉄で移動して三十一区まで帰ってきた。治安は決して良いとは言えないが、同居人が多少夜中に物音を立てたり奇声を発してもうるさく言われないマンションの方が良かった。マンションとは言ってもかなり年季の入った古い物件だ。芦沢は鍵を開ける。家に入るとモニターを見て変わったことがないのを確認しながら、すぐさま洗濯機に脱いだ服を放り込みシャワーを浴びて身体を洗った。シャワーから出た彼は着替えてからモニターで確認していた部屋に向かう。とにかく清潔にしてから入るのが習慣だった。
「ただいま…」
返事をしない相手は今日も虚ろな目をして虚空を見つめている。今は芦沢の契約パートナーである女性が付きっきりで世話をしてくれていた。
「おかえりなさい」
契約パートナーの氷深が芦沢に向かって微笑む。
「今日も…特に変わりはありませんでした…」
「いつも…ありがとう」
芦沢は氷深と交替して椅子に座った。相変わらず虚ろな目は決して芦沢を見ない。身体はここにあるのに心はないような気がした。差し出したものは食べるし排泄もする。だが、それだけだ。芦沢は手を握る。
「…どうしてこんな…幸せになるんじゃなかったのか…」
芦沢はつぶやく。そのときインターホンが鳴ってデリバリーで頼んでいた夕飯が届いた。
「どうもー喫茶楽園の特製カレー三人前です」
デリバリーの青年と氷深の話し声が聞こえる。前に注文したら美味しくてまた頼んでしまった。氷深は介護に関する知識はあるが料理はできない。芦沢も料理は苦手だから、自然とデリバリーが定着した。昼は学食を利用するから問題ない。朝もパンと牛乳の軽食で済ます。
「今日はお客さんでも来てるんですか?その割には静かだな…」
芦沢は立ち上がって玄関に向かった。
「君には関係ないだろう。人のプライベートに口を出さないでくれないか?」
相手は薄い色のついたふざけた眼鏡の奥で軽薄な笑みを浮かべた。
「いや、最近物騒な事件もありますから、念のための確認ですよ。誰か監禁してないかっていう…何か病的な気配がするんで…言っただけです。気にしないで下さい。お身内の方でしたか。勘繰ってすみませんでした」
何も喋っていないのにそんなことを言われたので芦沢は急に気味が悪くなった。たまに魔力の強い相手はそういった気配を読むのも可能だと聞いたことがあったせいだ。勘が鋭い。
彼は、またのご利用をお待ちしてますと言って一割引のクーポンを置いて去ってゆく。ドアを閉めた芦沢は氷深の肩を抱いた。
「…あの人…怖い気配がした…」
芦沢は氷深を抱きしめて魔力を流す。しばらくすると氷深は落ち着きを取り戻した。
「料理は文句なしに美味しいけど…あまり連続では頼まない方がいいかもしれないね…部屋の様子を探られた…」
「大丈夫…?また…あの人に報告されたりしない?」
「来ないよ。仮に来ても…絶対にドアを開けなければいい。ドアさえ開けなければ大丈夫だよ」
「そう…そうだね…」
そのとき鍵を回す音がしてもう一人の住人が帰宅した。
「ただいまーあれ?どうしたの?二人とも怖い顔して」
まだ若い青年は玄関の近くで厳しい顔付きをした二人を見て苦笑する。同居人の聖七だった。
「おかえり」
聖七は賄いありの飲食店で働いているので夕飯は基本的には食べない。たまに聖七にテイクアウトを頼むこともあった。聖七は教え子だ。養父母と折り合いが悪くなり、住む場所を転々としていたのを偶然拾った。最後に再会したときには警察の取り締まりの目を盗んで売春まがいのことまでしていた。今は真面目にアルバイトを続けていて、要らないと言っているのに生活費もきちんと払っている。その代わりに芦沢は聖七が魔力不足になると、彼をほぼ身一つで追い出した契約パートナーの代理をこなしていた。ただ、聖七のことは契約パートナーとしては登録していない。だから世間的には彼は単なる同居人だった。
「とりあえず…冷めないうちに食べようか」
気を取り直して芦沢は明るい声を出した。
***
その頃ジーンはストラスと手分けして清葉学園のOBかつ在校生の親になっている人物を探していた。こういうとき元が男子校だと多少は探しやすい。時折養子縁組や離婚などの事情で別の姓になる者もいない訳ではないが、女性よりはよほど手間が少なく済むからだった。ストラスがキーボードを叩きながら口を開いた。
「該当者は…付属小に八名、中等部と高等部にそれぞれ五名か…思ったほど多くはないですねぇ…そのうち…芦沢の在学中と時期が被っているのは…付属小には双子の親と…付属中は…二名…?は?二十八で…十三歳の子の父親!?」
「…今のルイが出産したら、ちょうどそのくらいだろう…ま、こちらではそう多くはないことだとは思うが…」
ジーンに冷静に言い返されてストラスは沈黙した。確かにそうだと思いながら家庭内調査票のデータを抜き取る。デジタル化が進んでいると、情報が得やすくて助かる。
「ふーん、相手の女性の方が五歳上なんですね。ってことは契約パートナーと結婚したのかな?その可能性が高い…クラスは…違ったみたいですね。もう一人は…えっ!?これ、ミヤビの父親ですか!?しかもミヤビの情報…更新されてないな。古いままだ…芦沢が一年のときの三年だから…三歳上…今、三十一か。は?あれが三十一?老け過ぎだろ!四十を超えてるかと思ってましたよ!!」
「生き様が容姿に反映されることは多々あるよ。ちなみに付属小の双子の父親は…一年生の子の親で、生徒会長も務めていたような人物…芦沢との接点…クラスが同じ…後は分からないな。アルバムの現物があれば一番分かりやすいが…」
「ちょっくら…カメラに自宅でも探らせてきますかねぇ…」
ストラスはそう言ってタバコを片手にベランダに消えた。しばらくするとストラスは戻ってきたが、疲れたようにため息をついた。
「卒業アルバムを理解させるのに無駄に時間がかかりましたよ…そんなものを作って何のメリットがあるんだ、とか…住所が載ってるなんて正気の沙汰じゃないとか…ま、そりゃそうか。お陰でこっちは辿りやすいですけどね」
自分の居場所を特定されるようなものを悪魔は残したがらない。だから、カメラの感覚も分かる、とカメラが元々は悪魔だったことを知ったストラスはそう思った。近くのソファーで仲良く寄り添っていた、ルイとリツが立ち上がってそれぞれのパートナーの元にやってくる。
「調べ物は終わった?」
ルイがストラスを見上げる。ストラスは笑って頷いた。
「だいたい終わったよ。なんだ?魔力…足りないか?」
「ううん…そんなことはないけど…」
「ルイは…さすがに清葉の中二のことは知らないよなぁ…」
「んー?ちなみに誰?」
「白石海夏斗」
「うーん…?あ!ミナトね!それ、めちゃくちゃバスケ上手い子だよ!体育祭のときに目立っててさーコーキ並にデカいの!で?その子の親が…例の先生の同級生?」
「そうそう…」
「ふーん…そういえば僕…芦沢先生にちょっと声掛けられて…でも、そのとき担任の風間先生が来て僕のこと呼んだから…さりげなく庇われたのかな?って…今思えばそんなことあったかも…」
「…なんて声掛けられたんだよ?」
ストラスの表情が険しくなる。
「…魔力足りないでしょ?って…欲しかったら言ってって…」
「…彼は…魔力不足の学生が…直感的に分かるのかもしれないな…単なる親切か、はたまたお節介か…別の目的があるのか…」
ジーンはリツを膝の上に乗せたまま、そう言ってパソコンの画面を閉じた。




