セイル&リヒトの場合 3
セイルは食後には看護師の姿に戻って再び働き始めた。田崎はセイルに出会って仮契約を済ませる以前の何もかもが終わってしまったという虚無感は何だったのだろうと思うほどに今は気分が前向きになっていた。しかも、たかが一人の悪魔の存在が、彼を生きる方へと導いたのだと思うと実に妙なことが起こったように思った。
「気分はどうですか?」
先ほどリモンと共に通り過ぎた看護師の女性が部屋に入ってくる。セイルとは違うが、可愛らしい顔立ちでやはり若く見えたが、すでに悪魔が見た目通りではないと知っている彼は、少し警戒して相手の顔を見上げた。胸のネームプレートには、落合希と書かれている。
「お陰さまで…気分はいいですよ」
「ふーん、ほんと、セイルったらズルいわ。さっさと仮契約しちゃうんだもの。それにこんなに牽制されたら味見したくても、ちょっと時間がかかるじゃない…」
「牽制…?」
田崎が何のことか分からずにいると、彼女は胸元から鏡を取り出して見せた。鏡に映り込んだ田崎は首筋にいくつも残されたうっ血した痕跡に気付く。よく見れば腕にもあった。もしかして身体中に?と田崎は急に心拍数が上がるのを感じた。恐る恐るパジャマの中を覗き込む。見なければ良かったと思った。
「それ、ただのキスマークじゃないのよ?分かりやすく言うならマーキングかしら。魔力を込めて跡を残して自分のものだって宣言するのよ…あーぁ、私も早くいい男を捕まえたいのに、今日来るのは妊婦だし…タイミングが悪かったかしら…」
「…そんなに気軽に…その…魔界とこっちを行ったり来たりしているのか?」
田崎の言葉に落合はフフッと笑った。
「私の名前はマレフォル。悪魔は質問の対価に何かを要求することもあるから気をつけて?気軽には行ったり来たりできないわよ。向こうとこちらを繋ぐには莫大な魔力が必要だもの。通路にしている魔法陣に一定の魔力を溜めて、それなりに魔力を有する悪魔がいないと開けないの。だからこちらに来れるのは雑魚じゃないのよ?それなりに名のある悪魔とその使い魔だけ…」
「どうして、こちらに来るんだ?」
「あら、また質問?」
マレフォルは田崎の頬に片手で触れた。たったそれだけのことなのに田崎はゾクリとした。
「どうして…?そうね、陛下や国王補佐官がこちらの世界の元人間と結婚したから、興味を持った悪魔が多いってとこかしら。ある種のステータスね…人を味わって自らの手で悪魔に変えてみたくなったのよ。でも誰でもいい訳じゃない。これだって魂じゃないと…それに、こちらの人口が減りすぎると周りの世界にも都合が悪いことが起こるのよね。だからこちらで子どもを産んで少し世界の滅亡を食い止めるのはどうかしらって話…あ、ちょっと話し過ぎちゃったわね。まだ試験的なものよ。私は人に紛れてくらすのも面白いって思ってるの」
マレフォルは田崎の頬に口付けをすると去ろうとして、ドアの横に青年姿のセイルが立っているのに気付いた。
「…質問に対する対価を貰っただけよ?そんなに怖い顔しないで」
「…どうかな?自ら悪魔の名前を明かすなんて、その気があると思われてもおかしくないじゃないか」
「悪かったわよ。あなたは彼の魔力でお腹いっぱいかもしれないけど、私はお腹ペコペコなのよ?ねぇ、少し分けて?」
「なるほどね…ったく、しょうがないな」
セイルはマレフォルに口付けをする。目を閉じたマレフォルはセイルに抱きついて魔力を受け取ると蠱惑的な瞳で彼を見上げた。一見するとお似合いの二人に見えて、田崎は落ち着かない気持ちにさせられた。
「あなたが女性になって誰かを誘惑するなんて、珍しいこともあるものね…天使で懲りたからもうしないのかと思ってたわ」
「余計なおしゃべりをし過ぎだよ。ホラ、新しく来る妊婦の担当なんだろ?貧しい転生者を飼っては次々に孕ませる腐った男に囲われていた可哀想な子だよ。得意の美青年になって慰めてやればいいさ…」
「…妊婦なんて当分の間手も出せないじゃない!私も人間の男の方がいいわ…」
マレフォルはそう言い残すと去ってゆく。セイルはため息をついて、そしてそこでまじまじと田崎が見ていることに気付いて気まずくなった。
「ごめん…魔力を漏らさずに与えるには、あぁするしかなくて。人が交わすような恋愛的な意味はないよ。食事と大差ない。でも…嫌だった?それよりも何か変なことされなかった?大丈夫?」
「あ、あぁ…頬に…キスされただけで…セイルが言うように恋愛的な意味はないんだと思う…」
田崎が言うとセイルは小さく笑って彼を抱きしめた。
「少し悪魔のことが分かってきたのかな?知りたいことがあったら僕に聞いて。他の悪魔にはあまり質問はしない方がいいよ。あ、ストラス先生は、そんな対価を求めたりはしないから、僕が言うのはあくまで看護師の悪魔にはって意味で言ってる。ここにいる看護師はみんな悪魔だからね」
セイルの指が明らかに首筋に残した痕跡を辿っていることに気付いて田崎は急に恥ずかしくなった。
「こ、こんな見える場所に跡を残されたら困る…」
するとセイルは田崎の耳元で囁いた。
「こうでもしとかないと、他の悪魔に味見をされてしまうからだよ。言ったでしょ?魅力的だって。悪魔からしたら、リヒトの魔力は美味しそうに見えるんだよ…実際…美味しいし。それは相性のいい僕はもちろんだけど、マレフォルにだってそう見えるってこと…だから僕から欲しがったんだよ。確かに少し分けてあげないといけない程度には減ってたし…あ、ルイくんが来たみたいだ…ん?カイム…じゃなかったカイくんもか…もう一人は…人間の女の子?」
その言葉が終わらないうちに、病室に近づいてくる足音があった。
「先生、お見舞いに来ましたよ」
そこにはルイとカイ、それにハルが立っていた。セイルはさりげなく田崎の首筋に手を当てて跡を薄くするとベッドから立ち上がった。
「こんにちは…」
中学生姿のカイムがやや警戒した面持ちでセイルに向かって挨拶をする。
「お久しぶりだね、カイム。ベルフェゴール大佐の卵を産んだって本当?おめでとう」
「ちょっと、田崎先生の前でその話題は止めて下さい」
「別に大丈夫だよ。だいたい分かってるし。え?どうしたの?変な顔して」
「いや…卵と聞こえたから…」
田崎は聞き間違えたのかと思った。
「あぁ、そっか。カイムは鳥の姿にもなれるから産卵できるんだよね…って、そんなに驚くもの?」
「セイルさん…大概の人間は驚きますよ。それに…この格好の私は中学生男子なんですから…」
カイムは淡々と言ったが、セイルはやや非難されているのを感じた。
「あぁ、そうか、ごめん、ごめん。こっちの設定もあるもんね。で…卵と聞いても驚かないこの子は誰?」
「あぁ、ハルは僕の妹ってことになってるよ。色々あって養子になってるから。今は正真正銘の人間。まだ悪魔に変える儀式をするのは早いから待機中みたいなものかな。でも一緒に住んでてこっちの事情は知ってるからね」
ルイはそう言ってハルの頭を撫でた。
「ん…?あれ?先生…もしかしてなんですけど…仮契約したんですか??」
ルイが田崎の顔を見て、それからセイルの方をみる。
「あ、うん。したよ。全力で誘惑したからね」
セイルが平然と答えたので、田崎は自分がその誘惑に完全に負けたことを認めるしかなかった。ルイに知られるのがやけに気恥ずかしい。
「あーなるほど…それで…先生も安定してるんですね。どうですか?悪魔のパートナーを得た感想は」
ルイがニコニコしながら、悪魔のような質問をしてくる。
「実に…得難い…経験だったよ…」
田崎は困ってそうまとめると、ルイは声を上げて笑った。
「先生、身体中にセイルの痕跡が見えるから…相当激しかったんだなってことは分かりますよ。あ、これは差し入れです。先生が甘い物好きなんだなって分かったので…使い方はセイルが分かってます…悪魔のチョコレートです。かなり軽いやつですけど…この様子だと必要なかったですか?」
「ありがとう、ルイくん」
セイルが箱を受け取って微笑む。
「ハル、魔力量を測定するから、そろそろ行こうか」
カイムが言った。最近ハルはたまに魔力が不安定になる日があって成長に伴い魔力回復薬が必要になりそうだった。今はさりげないカイムの触れ合いによってカバーできているが、念のために測定して備えておこうという話になったのだった。
「僕はここで待ってるね」
ルイはそう言って、二人に手を振った。




