セイル&リヒトの場合 1
想像よりもかなり広い浴室にある大きな浴槽にゆったりと浸かり、田崎はこんな風にのんびりと過ごすのは久々だと思った。天井を見上げると病院内とは思えない洒落た作りだが、あちこちにさりげなく設置された手すりや転倒防止のマットなど、よく見れば病院らしい配慮もされている。田崎は今年学年主任になってから急に抱える問題が増えた。生徒に目を配り同僚にも気を配る。そんな日々の中で得た唯一の癒やしが西山だったのだが、そもそもそれが間違いだったのだろうか。
「リヒト…本当に女性はもう…懲り懲り?」
不意に隣で同じようにくつろいでいた賢木が口を開く。断ったのに先ほどまで頭や身体を洗ってくれて、マッサージまでされた。質問の意味を図りかねて、田崎は思わず賢木の顔を見た。
「僕は悪魔だから、リヒトの理想の女性にもなれるんだよ?リヒトは本当は家族が欲しかった…そんな風に見えたけど…違う?」
隣でお風呂に入っていた賢木の胸が膨らんで、気付けばそこには極上の美女がいた。今までこんな魅力的な女性には出会ったこともない。賢木は田崎の動揺を見透かすかのように、腕に胸を押し当てて少し上目遣いに見上げてくる。
「いいよ?リヒトが自分の子どもが欲しいなら…僕は何人でも産めるよ?今すぐには…まだそんな気分になれないだろうから、無理にそうしようとは言わないけど、何も諦めなくても大丈夫ってことを今は知ってほしかっただけだから」
柔らかい声で賢木は言って田崎の頬に口付けをした。田崎は先ほどよりも柔らかな唇の感触に緊張しながら、腕に密着した豊満な胸を触ってみたいという邪な衝動と戦う羽目になる。こんなことは良くないと思う自分と、悪魔に誘惑されているのだから仕方ないと思う自分が葛藤していた。
「大きさも自由自在…小さいのが良ければもう少し小さくもできるし…少し幼い方がいいなら、それでも…」
美女は美少女になる。田崎はもう直視できなかった。
「あ、あまり小さくされると…犯罪に手を染めた気分になる…」
やっとのことで言うと賢木は笑った。
「真面目だね。何をしても、どんな姿でもそんなに真剣に悩まなくていいよ。魔界ではね、十三歳から結婚できるの。つまりそういうこと。十三歳から夫婦になれる…お互いが望めば…今のこの姿でも問題ないんだよ?」
田崎の膝の上に、せいぜい高校生に見えるかどうかも怪しい年齢の少女が乗ってくる。田崎は顔を背けて固まった。
「か、からかうな…」
「からかってなんかいないよ?リヒトがどの姿で背徳感を覚えながらも興奮するのかを確認してるだけだから」
「だから…それをからかってるって…いう…」
言いかけた言葉は賢木の唇に封じられた。田崎は賢木から漂う芳香を感じながら、相手を振り払えずに結局その唇を受け入れてしまう。抗えるはずもなかった。賢木は唇を重ねたまま思いを伝えてきた。
(この世界の空気は悪魔を疲れさせるんだ…少しこうして触れ合わないと、僕はリヒトにもっと色々してあげたいのに、魔力不足でそれができなくなる…少し悪魔を助けると思って…触れさせて…本当はね…抱き合うのが一番上がるんだけど…リヒトはまだ心のどこかで迷ってるから…)
柔らかな腕に抱きしめられて、こうしていると田崎は西山と賢木の違いが何なのか次第に分からなくなってきた。西山とは心が通じ合ったと思ったから田崎なりに誠実に向き合ってきたつもりだった。愛していると何度も言われたし、自分も思いを伝えた。子どもができたと言われたときは、きちんと避妊をしていたはずなのになぜ?と一瞬思ったが、それでもすぐに結婚を決めた。なのに。通じ合っていると思ったのは田崎の独りよがりの幻想でしかなかったのだ。
「リヒト…愛なんかなくても…人は愛してるって言えるんだよ?言葉ならなんだって心が伴わなくても口にできる…でも、悪魔は本当に心の底から相手が自分に魂を捧げてもいいと思わないと、それを受け取れないんだ。分かる?リヒトはさっき投げやりにそう言ったけど、一瞬どうでも良くなって本気で捨てようとしてたよね…だからそれを僕は拾い上げて自分のものにした。怖いね。リヒトが思う以上に口に出した言葉とリヒトの心は深く結びついていたんだ…悪魔の前で不用意な発言はしない方がいいってこと。殺してほしいと言ったら簡単に殺せるんだからね。いつでもリヒトは死と隣り合わせなんだよ?僕は殺さないけど。この世界で人間を殺したら罰則が割に合わないくらい重いんだ。向こう百年は拷問するって言われたら、誰も怖くてやんないよね?」
少し前に本気で首を絞められた気がする、そう思ったら相手が少し笑った。
「死ぬのはやっぱり怖いってことを分かってもらわないとね。だから少しだけ意地悪してみたんだよ。女性の姿でやると力加減が分からないから使い慣れてる姿を選んだだけ…」
身体のあちこちを優しく撫でながら賢木はそう言って若い女の声で笑う。少女よりまた少し年齢が上がっていた。
「リヒト…僕が愛を教えてあげるよ。そして虜にしてあげる。欲しくて欲しくてたまらないって…リヒトが自分から思うくらいに」
目の前の美しい女は田崎の瞳を覗き込む。熟成されたワインのような瞳で田崎を捉えると愛おしくてたまらないといった顔付きで唇を重ねてきた。これが愛なのだろうか。仮に違っていたとしても田崎には愛と愛でないものの区別すら判然としなくなっていた。
「あ…!」
そのとき浴室に誰かが入ってきたことに気付いて田崎は慌てて離れようとした。だが賢木の腕は優しいのにしっかりと絡みついて離れない。
「えっ?使用中ならちゃんと施錠して下さいよ、セイル!」
マルバスの後ろに素早く隠れたのは二階堂だったが、田崎はすでにちらりと見えてしまっていた。
(男だと思ったら違ったのか!!)
田崎はベーカリーでの不可解なストーカー事件の全貌がようやくハッキリと掴めた気がした。青年に付きまとう中年もいない訳ではないと思うが、相手が女性だったと分かって一気に納得がいった。
「ごめん、うっかり!リヒトがのぼせそうだから、もう上がるよ。二人ともごゆっくり!」
少し慌てた口調で賢木が言うと、相手はじっと二人を見てからどこか怒ったような表情に変わる。
「…セイル、会ったばかりで、もう仮契約までしたの?ちょっと軽率過ぎない?」
「マルバスこそ…まだ仮契約すらしてないの?どうかしてるよ。もう心の方はくっついてるのに、なんで?そんな余裕…どこにあるの?」
「アオくんは血が苦手なんだ。だからまだしてないだけだよ。それに魔力回復薬の治験にも協力してもらってるから簡単にホイホイ悪魔に変えてたら、研究所として機能しなくなる。だいたい会ってすぐの相手を前にコロコロ姿を変えて見せるのは早いよ。ここにはこちらの素性を知らずにやってくる転生者だっているんだから、昼間の姿以外になるときは絶対に誰も入ってこない部屋で確実に二人きりのときのみにしないと後々面倒なことになる」
「あーマルバスは細かいなぁ。分かったってば。次からは気を付ける。でも軽率っていうのは心外だな。仮契約で縛らないと、リヒトは死ぬかもしれなかった。せっかく見つけた魅力的な魂なのにみすみす死なせるなんてもったいないから、少し強引に縛っただけだよ。何も考えなしにやった訳じゃない。ただ君とは順番が少し違うだけだよ。行き着く先は同じだ」
賢木は美女の姿のまま浴槽から出ると田崎に向かって片手を差し出した。
「まずは一度座って。急に立つと立ちくらみがするかもしれないから」
言われた通りに田崎はそうする。
「分かっているならいいけど、田崎さんの学校にはレリエルの半分がいるからね。田崎さんが復帰するつもりがあるなら、あまりセイルの痕跡を残しすぎない方がいいよ。向こうも記憶が戻り始めてるから」
「げっ、例の二人以外にも天使がいるの!?そんなの聞いてないよ!!」
「二人どころじゃないよ。ガブリエルも…ラファエルの転生者だって…レリエルは半分ずつで二人になってるし。だからあまり好き勝手に振る舞うと陛下に迷惑がかかる。魔界に強制送還されたくなかったら、もう少し慎重に行動した方がいい」
「はぁぁ、分かったよ。忠告ありがとう」
二階堂はここからは見えない位置でシャワーを浴びているようだった。水音が聞こえる。
「田崎さん、仮契約を済ませた感覚はいかがですか?人によっては…自分のものではないような欲望が込み上げるかもしれませんが、それは契約のせいです。ですから、そうなっても自分がおかしくなった訳ではないので、セイルに任せてしまって下さい…」
見上げるとマルバスは引き締まった身体つきをしていた。田崎は最近ジム通いをサボってしまった自分の身体を見下ろして、鍛え直さなければと思って、そんな自分の思考回路に驚いた。何もかもがどうでもよくなり、それでもあのベーカリーのイートインに座ったのは、あの席で西山に告白されたからだった。メロンパンを選んだら、子どもみたいでかわいいところもあるんですねと笑った西山、惣菜パンの方が好きな西山、田崎は西山の笑顔が好きだった。愛していると思っていた。なのに。
「なんで…生徒と付き合ったりしたんだ…何人も…そんなに…俺じゃ…満足できなかったのか…?」
田崎は喉の奥から声を絞り出した。賢木が肩に触れて首を横に振る。
「…違うよ。そんな理由じゃない…でもリヒトには理解できないかもしれない…ある意味、西山さんは悪魔的な欲望の持ち主だったんだよ。彼女は真面目に勉強ばかりして受験に対するストレスを抱えていた生徒を中心に誘惑していったんだよ。少し気晴らししようって。実際…小宮山くんはそれで成績も上がった。それで、西山さんはもっと他の生徒でもこの方法を試してみようと思ったんだ…そのうち…警察も気付くと思うけど…だからリヒトに満足していなかったって訳じゃないんだ。西山さんの中ではそれは別次元の…要するに成績を上げるための実験だったから…そして特別指導が背徳的であればあるほど、彼女は燃えた…」
「な…なんだよ、そんなこと…俺には理解できない…実験?生徒を相手に…?」
「うん、そうだね。理解できなくていいよ。する必要もない。ただ、そうなった理由はリヒトじゃないってこと。満足させらなかったとかそういうことじゃないってさえ分かればいいよ。そんなに不安なら本当にそうなのかどうかは、この先僕が詳しく確認するから大丈夫」
賢木は田崎の頭を撫でるとゆっくりと立ち上がらせた。
「部屋に戻ろっか。マルバスは二階堂くんとごゆっくり」
賢木は田崎と共に去ってゆく。マルバスはその背中を見送って嘆息した。それからようやく離れたところでボディソープの泡だらけになっている二階堂のところへと向かった。




