フィランジェル&イチカの場合
イチカは猛烈に腹を立てて暴れた後、悲しくなって幼い子どものように号泣した。いつもそうだ。ルシフェルは勝手だと思った。でも勝手なのは自分も同じだからルシフェルを責められないとも思った。結局は似た者どうしなのかもしれない。
「あームカつく!!なんで!?どうして!?」
イチカは足をバタバタさせる。分裂したルシフェルは呼ばれて出掛けたきり二度と戻らなかった。残った方のルシフェルはイチカの隣で余裕で軽口を叩いていたのに、それは急に起こったのだった。イチカには一瞬の出来事ではっきり言って何がどうなったのか、そのときには理解出来なかった。ルシフェルは突然身体中から血を噴き出して倒れ、そのまま呼吸が停止した。イチカの悲鳴を聞きつけてやってきたブエルが慌ててルシフェルを運び出すのをイチカは血溜まりの中から呆然と見送ることしかできなかった。ライラ姿のアルシエルや、マルバス、リモンなど医療技術に長けた悪魔たちが次々とルシフェルの治療に駆けつけるのを、イチカはそれがまるで現実のこととは思えずに、ただぼんやりと見ていた。肩を叩かれて顔を覗き込まれ、ようやく自分が呼ばれているのに気づく。フィランジェルだった。
「なんで…?何があったの?」
イチカはフィランジェルに抱きしめられて、身体や服に大量に染み込んだ血の痕跡を消された。癒すようにフィランジェルからは静かな魔力が流れてくる。こんなときでもイチカの身体のお腹の子は魔力を欲しており、イチカはあまりのショックに魔力も低下し倒れる寸前だった。
「私にも分からない。ただ…不測の事態が起こった…としか…」
「ルシフェル…息…してなかった…」
イチカはつぶやいてフィランジェルにしがみついた。死んでしまうかもしれない。あんなにたくさん身体から血が流れ出るのをイチカは見たことがなかった。何だかんだで辛いことがあっても自分は守られた世界にいたことをイチカは痛感する。血塗れのイチカを見てもフィランジェルは冷静だった。
「あの傷は…ミカエルの剣だ…悪魔が斬られると…あぁなるから…そうしなければ避けられない何かが起こったんだろう」
「そ…んな…」
「ごめん、今はそれくらいしか…分からない…ミカエルは何の理由もなく…ルシフェルを斬ったりはしない…だから…」
イチカは再びフィランジェルに抱きしめられる。イチカは震えながらやっとのことで口を開く。
「どうしよう…ルシフェルが…死んじゃったら…」
「そんなに簡単に諦めないで。悪い言葉は口にしない方がいい…」
フィランジェルはそう言うと、悪魔たちが集まっているルシフェルの運ばれた部屋の方に厳しい視線を向けた。
***
その後、屋上の方でバタバタと足音が聞こえて、今度は黒木がストラスを運んで来るのが見えた。ストラスの運び込まれたルシフェルの向かいの部屋に分裂したブエルとライラが入ってゆくのが見えた。皆慌ただしくて声をかける余裕もない。そこに突然樋口巡査部長までがやってきて、ルシフェルの入った部屋から出てきたアルシエルに招き入れられるのが見えた。ラファエルの癒しの力を借りるのだろうかとフィランジェルは考える。そのときミカエルが静かに姿を現した。イチカは思わず立ち上がってミカエルに詰め寄った。
「どうしてルシフェルを斬ったんだ!!答えろよ!!あいつ息してないんだぞ!!」
「えっ…何も…聞いてないの?ルシフェルから…」
「は?知らねーよ!何?」
イチカは途端に嫌な予感に襲われた。ルシフェルは何かを隠していたのだとその瞬間に察して、イチカは胃の辺りに一気に言いようのない重苦しさを感じた。隠した?いったい何を?
「はぁぁぁ…これだから困るよね。嘘つきな悪魔だな」
開口一番にミカエルはそう言った。
「私にはイチカも納得したと言ったのに。伝えてもいないのか。空間を切り裂けるのは、ルシフェルの母君の力なんだよ。ルシフェルは再び空間を切り裂いてラマシュトゥが逃亡することだけは避けたいと言った…だから、自分が母の足留めをすると。瞬間に脳内に流された会話だから、私なりに解釈して伝えてるけど…これでも私はルシフェル諸共ラマシュトゥを斬る前に、他の悪魔や君の妻はそれで納得したのかと確認したんだよ?していると彼は答えた。魔王のツケは自分が払うのが適任だと名乗り出た、そう言ったんだ」
「クソっ…!!何も聞いちゃいねーよ!!そんなん…納得しないし!!なんでいつもいつも勝手に一人で決めて勝手に斬られてんだよ!大バカ野郎!!」
イチカはその場に泣き崩れる。ミカエルは困り果てた顔のまま膝を折って、一瞬ためらった後にイチカの頭をぎこちなく撫でた。
「すまない…これでも手加減はしたんだけどね…息が止まったのは…想定外だったな…分裂していて少ない方でも…ここまで影響が出るのか…変だな。いや、私の剣と…ラマシュトゥの攻撃の両方があったからなのかも…しれない…」
「ラマシュトゥの攻撃…?なにそれ…」
「…いきなり…ルシフェルのお腹を手で刺したんだよ。それでルシフェルの背中からラマシュトゥの手が突き出て…」
イチカの顔色が更に悪くなる。フィランジェルが眉をひそめて口を開いた。
「ミカエル上官、聞かれたからと言って状況を事細かに話す必要はないんですよ?イチカはリリスだった頃にも我々のように戦場にいた訳じゃない…今日だって、こんなに大量の血を見たのは初めてなんですから、少しは配慮して下さい…」
フィランジェルに配慮しろと言われてしまったミカエルは口をつぐんで、悪魔たちによって必死に蘇生されているルシフェルの気配を読んだが、ルシフェルの意識は全く感じられなかった。いよいよまずいことになったかもしれない、とミカエルはルシフェルを斬った手応えを思い返して、柄にもなくゾッとした。それに、中にはラファエルもいる。悪魔の力では対応しきれない傷を残したのだろうかと、ミカエルは自身の片手を見てきつく握りしめた。なぜ破壊する力しか持てなかったのかと、自分自身が嫌になる。
「ラファエルまで呼ばれたのか…私の力は癒しには使えないからね…本当にこういう時は無力を痛感するよ…ごめんね、私は…こんな時に君に何を伝えて何を伝えなくていいかも分からない…」
ミカエルはイチカの肩を抱いてどこか落ち込んだように小声でつぶやいた。
***
一方で、ストラスはすっかりルシフェルが死んでしまったものと思い込んでいた。だから三日間ベッドで過ごして目覚めてから、どうも見舞いに来る相手との会話が噛み合わないことに気付いて、様子を見に来たフィランジェルの肘をつついて聞いてみることにした。なぜフィランジェルにしたのかはストラス自身にも分からなかったが、本能的に的外れな質問をしてもフィランジェルなら、笑わずに答えてくれる、そんなことを期待したのかもしれなかった。
「あのさ、ルシフェルって…どうなったんだ?」
「ん?ルシフェル?あれ…?そういえば…ストラスはずっとベッドにいたから、経緯をよく分かってないのか?」
「死んだんじゃ…?」
その言葉にフィランジェルは勢い良く首を横に振った。
「は!?滅多なこと言わないでよ!生きてる!でも、意識がまだ戻らないんだ。だから…この先どうなるかは、はっきりと口に出せないってだけで…だからみんな口をつぐんでる…って、ストラス?」
ストラスは一気に脱力してフィランジェルの手に額をつけて深いため息をついてしまった。あまりにそのまま動かないのでフィランジェルがその頭を撫でると、ストラスはしばらくされるがままになっていた。ストラスは弱っているときに凛とした天使の姿の悪魔が傍らにいるだけで、不安な心が少し軽くなるのを感じた。
「俺はてっきり…いや、でも意識が戻っていないのか…それでも、まだ見込みはある…そういうことですよね?」
するとフィランジェルは物言いたげな顔付きでストラスをじっと見つめた。言おうかどうしようか一瞬迷ったのだろう。けれどもフィランジェルは少し意地の悪そうな顔付きでストラスを見下ろして笑った。
「ストラスもさ、魔界であのとき…自分がどれだけ目覚めなかったと思ってるの?」
女神の領域に引き込まれた時のことを言われて、ストラスは返答に詰まる。そのせいで新婚旅行の予定が途中から丸潰れになった。誰も文句は言わなかったが、ストラス自身がそのことを一番良く分かっていた。むしろ文句を言われた方が良かったかもしれないと思った。
「あぁぁ…耳に痛い話をしないで下さいよ!」
「あのときもエストリエなんか、見てられなかったよ。ほんと…だから…今のイチカも同じで見ているのが辛い…」
フィランジェルは小声でそう言って、ストラスの頭を再び撫でて癒すかのようにゆっくりと魔力を送った。




