ジーン&リツの場合 54
「ジーン、入るよ?」
イチカが魔法陣を描かれている頃、リツは寝室のドアをノックしていた。くぐもった小さな声が聞こえる。リツは静かにドアを開けた。カーテンを閉めた部屋は薄暗く、ジーンはベッドに入って小さく丸まっていた。
「ジーン…」
布団がモソモソと動いて顔を出したのは十歳のジーンだった。今はリツの方が大人だ。黒髪ロングになったリツを見て、ジーンは一瞬、無防備な表情になる。
「きれいだな…リツ…」
リツはベッドに入るとジーンを抱きしめた。魔力の気配を最小限に留めた今はまるでほんの子どものようだ。けれども子どもではない証拠にジーンはリツの首筋にキスをすると、熱心に乞うように顔を見つめてきた。
「唇にもしたい…」
「いいよ?私も小さくなる?」
「いや…このままでいい…」
小さな気配のジーンの唇が静かに重なる。リツはジーンが落ち込んでいるのを感じた。気配を小さくする必要はあったが、明らかに彼は自分を恥じていた。
「私は…アルシエルの過去に何があっても…軽蔑したり嫌いになったりしないよ?」
「……リツならそう言ってくれると思ったよ。でもこれは私の問題なんだ…」
「大佐が社長に対して怒ってたことと…関係ある?ごめんね、聞こえちゃったんだ…」
「あぁ…」
彼は深いため息をついた。あれだけ怒鳴れば嫌でも聞こえる。
「拷問のことか…そうだな…私は…まだ説明していない過去がある…」
ジーンは告げた。
「聞こえたならもう知っているだろうが…十一歳以上の大人の女性の姿に…私はなれなくなってしまったんだよ…主に出産可能な年代の女性の姿に無理矢理変えられて…拷問官や…ルシフェルの父である魔王に嬲られたんだ…そのうち…私は……魔王の子を孕んで…その間もずっと拷問は続いた…挙句の果てに産まれた子は…私の目の前で殺されてしまったんだよ…あんなに痛くて苦しかったのに…産声を上げた次の瞬間にその子は床に何度も叩きつけられて…無残な姿で息絶えていたんだ…私は絶望のあまり自分で子宮を掻き出して…握り潰した…そのときは死ぬつもりだったんだ…」
リツは想像の範疇を超える地獄に背筋が冷えて、姿を知らぬルシフェルの父に対する怒りが込み上げた。
「怒るな…胎教に悪い…それで…本当に死にかけた私を治療しに来たのが中立派のストラスの父親だった…彼は腕が良くて…私を死なせてくれなかったが…私の身体の機能をこっそり変えてくれたんだ…犯したところで違いには気付かないが…私を女に変えても妊娠しない身体にした…卵巣を摘出したんだよ…いつか必ず救い出すので死ぬなと…様々な治療を繰り返すうちに…彼は私に同情したのだろうな。そう言って去って行った…」
「ジーン…」
リツは自分よりも小さなジーンを抱きしめる。静かに語る彼はいつの間にかライラの姿になっていた。
「私が何をされたかを知っているのは…それを見せられたベルフェゴール大佐のみだ…大佐も女に変えられていたから…私と大佐は…同じ年代の女性にはなれないんだよ。屈辱は忘れられないもので…何百年経っても時折夢に見るんだ…ラウムのように女性と男性をスムーズに行ったり来たりはできない…だから、私はフィランジェルの子を産んでやることは…恐らく出来ないんだよ…すまない…」
ライラは悲しそうに告げた。
「いいよ、私が産むから。その分私が産むからいいよ!ジーンは気にしなくていい…ジーンがフィランジェルの子どもをどうしても産みたかったのなら…それは…手段を考えなくちゃいけない事柄だと思うけど…どっちが産んでも二人の子どもでしょ?違う?」
「…違わない…でも、リツばかりが…苦しい思いをする…」
「ジーンの経験に比べたら、この程度…なんでもないよ。私は今のところ悪阻もそんなに酷くないし…」
そこまで言ってリツはライラの身体の虐待の跡を思い出す。腕の中にいるライラの腕を思わず手に取って見た。腕の内側に青あざが見えた。ギクリとする。もしかして。
「あの時の怪我は…本物の怪我だったの!?」
「あぁ…これか。そうだな。十歳が限度だが…たまに幼い少女の姿を好む拷問官もいたから…身体はアザだらけになったんだよ。顔にだけは傷をつけない悪魔だったから、顔は無事だったが。気を抜くと…こうして戻ってしまうな。だからこれ以上歳上の少女になると…すぐに姿を保てなくて正視できない姿になってしまうんだ」
リツはライラを抱きしめてそっと身体を撫でた。
「痛いんでしょ?この身体を治す方法は…ないの?」
リツはライラを撫でながら小声でつぶやく。
「今…すでに、リツがやってくれているよ…私が医学を究めたのはこの自分の身体のこともあったからなんだ…心から愛する者に抱きしめてもらって…安堵することで…この身体は少しずつ治る…だが傷の数も癒す姿も膨大だ…十歳でもこれだから…途方もない年月がかかるな…」
「いいよ。全然構わない。何のために悪魔は長生きだと思ってるの?こういうときに大切な相手を癒せないなら長生きしてたって意味がない…どんな姿でも私は抱きしめる…」
リツはそう言って小さなライラを抱きしめる。やがてライラの手がおずおずとリツの身体に触れて抱きついてきた。二人はきつく抱きしめ合ったまま無言になり動かなかった。
***
王子は無事に妊婦たちに魔法陣を刻み終わると、また連絡すると言って通信を終えた。ストラスは主の気配を探って、小さいが安定していることにホッとする。リビングに戻ると念の為に卵にも描いた魔法陣を、ソファーに座ったベルフェゴール大佐がぼんやりと眺めていた。大佐も今日は心なしか元気がない。不意に大佐の姿が揺らいで魔界で言うところの中等部の少年になる。だがその身体はあざだらけで血塗れだった。
「…っと!油断した。あ…見たな?見なかったことにしてくれないか?」
「…ばっちり見ましたよ…でも陛下も、中等部の少年になったとき…そうなりましたから…事情は一応存じ上げていますよ」
「ふーん、どこまで癒したんだ?」
大佐は探るような目つきでストラスを見上げた。
「拒否されました。ですが、少々強引に…女の姿で添い寝したら、ものすごい嫌な顔をされましたよ。効率が悪いって」
「ハハッ。アルシエルは…リツには弱い自分も晒せるのかな?俺は…俺もそろそろ…なんとかしないといけないなとは思ってるんだけどさ…」
そこに無言のままカイムが現れて、静かに大佐の隣に座った。なんとなく怒っているように感じて大佐はカイムの横顔を盗み見た。
「私のことばかり助けて…大佐だって未だに怪我だらけの子どもを引きずってるじゃないですか。私は大佐のみっともないところなら見慣れてます。第一夫人にぶん殴られているところも見ました…血塗れだろうが汚物塗れだろうが、受け止めますよ。どうせ第一夫人には格好つけて見せてないんでしょう?」
カイムは大佐を抱きしめる。大佐はうっかりカイムの言葉に感動してしまった。あまり褒められた気はしないのに、カイムの言葉から彼はなぜか不器用な愛情を感じた。カイムの腕の中で力を抜いた大佐は血塗れであざだらけの少年に変わる。カイムはじっと何かを堪えるような顔付きで大佐を抱きしめながら、傷跡に手を当てた。
「古い拷問はこうだったのですか?それとも大佐と陛下だけが…殊更酷い扱いだったのですか?」
「あー知らないよ。身体よりもケツが痛いんだよ。下品な悪魔のやることなんか想像つくだろ?早く寝室に連れてってくれよ…ストラス補佐官の前で見られるのはさすがに俺でも恥ずかしい…」
「まったく…だからあのとき私を助けたんですか?あれも古い拷問を模していたと…後で聞きましたけど…」
「あーそうだよ。腸引き出すのとセットだよ。胸糞悪いよな。いたいけな少年を嬲るのは楽しいんだろうさ。ホラ、俺ってば何気に色気漂う美少年だからさ」
「自分で言わないで下さいよ。大佐の臀部をここで覗く訳にはいきませんから、失礼します」
カイムは大佐を抱き上げると去ってゆく。ストラスは呆気に取られて二人を見送った。孵卵器に目をやると卵が震えていた。
「暴れるなって…大昔は色々あったんだよ…」
ストラスは孵卵器の中から卵を慎重に取り出すとそっと撫でる。フェルムの声がした。
(しょうもないお父さんだけどさ…たくさん痛い思いをして…今があるんだね…)
「そうだなぁ。カイムもだよ。二人は似たような経験をしたから…お互いの痛みが分かるっていうところはあるのかもしれないな。フェルムも他人の痛みを分かってやれる優しい大人になるんだぞ?」
(ストラス補佐官って…優しいよね)
「そうかな?だとしたら…それは亡くなった両親と…その後、俺の面倒を見てくれた陛下のお陰じゃないかな」
卵を撫でているストラスのところにルイが現れる。ルイは隣に座ると手を伸ばしてそっと卵を撫でた。
「魔法陣が描かれて何だか芸術作品みたいになってるねぇ。飾っておきたいくらい」
「あぁ…機能性のみならず美しさも兼ね備えた緻密な魔法陣だよ…俺の儀式の略式魔法陣が恥ずかしくなってくるな」
「あの地下室にみっしり書いたら、消すのが面倒でしょ?だからストラスのはあれでいいんだよ。掃除も楽だし」
ルイはストラスに身体を預けて少し甘えた。
「…痛くなくても…大丈夫なのかな…でも、まだ少し不安なんだ…」
「出産するときはどうせ痛いんだ…母親があまりに苦しそうで早く出なきゃって俺は焦ったからな。ルイには…感謝してるよ。その決断を」
「ん…だって、本当の家族になりたかったから。今までの偽物の繋がりじゃなくて…ストラスと僕の間に…本物の繋がりを残したかった…目に見える分かりやすい形で…」
「そうか」
(ねぇ、僕、きっとリツのお腹の子と結婚するよ?)
突然フェルムが話す。ストラスは卵を二度見した。
「は?どうしたんだ?急に」
(うん?繋がりの話を聞いてて…大事なことだから言っとかなくちゃって。だって僕、お父さんがお母さんだったときにお腹の中で死んじゃって生まれられなかったんだ。リツのお腹にいるのは…アルシエルがお母さんだったときに…目の前で殺されちゃった子だし。僕たち…頑張って生き延びて結婚しようって…約束してたのに、二人とも死んじゃって…だから、ずっと待ってたんだよ。もう一度今度は平和な時代に生まれようって。でも実際にそうしてみたらお母さんが二人とも今度はお父さんになってて…想像とは何だか違ってたけど…)
「な…なんだって!?」
ストラスは絶句する。父はこのことを知っていたのだろうかと思った。だがストラスは一度もその話は聞いたことがない。アルシエルもベルフェゴールも一度も決して語らなかった。
「えっ…二人とも…妊娠した経験があるってことなの?お腹の中で死んだ?目の前で殺された…?父親は誰なの?」
ルイはゾッとしながら口を開く。フェルムは言った。
「僕のお父さんは…拷問官の一人だったし…あの子のお父さんは…魔王だったよ…お母さんだった頃のお父さんは細くて小さくて…二人ともすごく弱々しい女の子の身体だった…今のルイよりも小さかったんじゃないかな…」
ストラスはフェルムの話を聞きながら片手で口元を覆った。寒気がする。全身に鳥肌が立っていた。
「それでなのか…?長い間…中立派だった親父が急に変わったのは…」
王宮に呼び出されて戻って来る度にストラスの父は沈鬱な様子になり普段は飲まない酒を浴びるように飲んでいた。泥酔して眠る父を不安そうに母親が見ていたことを思い出す。
「そりゃ言えないか…そんな話は…誰にも…」
自分には酒を飲んで眠る父が弱く見えていた。実際に翌朝になると父親はいつものように穏やかで少し気弱ないつも通りの人物に戻っていた。だからその裏で中立派の者を説得してアルシエルを解放する計画を立てていたことに誰も気づかなかった。
「たとえ小さな石ころでも…少しずつ積み上げれば山になるんだよ…いいかい…もしもここが再び戦場になれば天使の軍勢が押し寄せてくる…今の王様は全面戦争も厭わないと言うが…結局犠牲になるのは力の弱いお前のような子どもや女悪魔なんだ。私は無益な血をこれ以上流したくはない。だから和平交渉に繋ぎたい…天使と悪魔の戦いを終わらせようとしていたあの方に賭けたいんだ…」
庭で遊ぶ幼いストラスに彼はたった一度だけそんなことを言った。悪魔の命を救うために医者になった父親が手に武器を取り蜂起したのはその翌日のことだった。




