ガブリエル&ラグエルの場合
そのときガブリエルは厨房で翌日の仕込みをしていたが、急に何やら嫌な予感に襲われた。見るとスマホが光っている。開くとアルシエルからメッセージが入っていた。
ラグエルをバラバラにしたのは君か?
その問いにガブリエルは深いため息をついた。とうとうそこまで記憶が蘇ってしまったのだと思った。彼は手を拭くと昼の売り上げを計算している弥生に声をかけた。
「ちょっとセラヴィの常務に呼ばれたから行ってくるよ」
手早く冷蔵庫に下準備の終わったものを詰める。少しリツに似た瞳が不安そうにガブリエルを見上げた。ガブリエルは彼女を抱きしめて、こめかみに口付けをした。
「大丈夫。すぐに帰ってくるから」
彼は微笑むと弥生の頭を撫でて店から出た。
***
しばらくしてからガブリエルも合流して、まだ若干の記憶しか取り戻していない今野とリツ、ジーンの四人は微妙な顔付きのまま医務室の今野のベッドを囲んでいた。とりあえず怪我も大したことのなかった向井は後日また会うことにして、一度帰宅させた。ちらりと話を聞いたところ、向井と椎名は貯金を切り崩しながら格安の古いボロアパートに住んでいて、学費はお互いの養父が支払い済だったが、同性で契約パートナーとなったことで勘当されたようだった。なのに椎名は昔の浪費癖が直らずおまけに拷問官としての記憶が時折蘇り暴力的になるとのことだった。武衛は帰る前に向井の身体の傷も治していた。
「んで…どこまで思い出した?リツ…」
ガブリエルが気まずそうに頭を掻きながら言う。それもそのはず、フィランジェルが見たラグエル殺害の記憶を消したのはガブリエルだったためだった。
「ガブリエルが剣を抜いて…ラグエルを追いかけて行った…それから…ガブリエルは…ラグエルの…首を…持って…私のところに…戻ってきた…」
「うん、ま、当たってるね。ラグエルも剣を向けてきたから戦った結果そうなったんだよ。まぁ僕も腹を立ててたし。僕より先に君を抱きしめる天使がいたことが許せなかったんだ…それに君はあのときとても嫌がってた。君を殴ったラグエルは、本当はもっと卑劣なことをしようと考えていたし。それは僕も似たようなものだけど…僕は君に興味があったから。でも僕の興味はラグエルとは少し違うよ。悪魔に心を奪われた天使としての君の変化に純粋に興味があったんだ。同時に…堕天しないか不安だった」
ガブリエルはそう言うと長い足を組み替えた。今野はちらりとガブリエルを見て眉をひそめた。
「そ、そんなことのために…僕をバラバラにしたの?」
今野の言葉にガブリエルはじろりと彼を睨む。相変わらず胡散臭い薄紫のサングラスにグレーのスーツを着たガブリエルは変に威圧感があって怖い。
「僕が駆け付けなかったら君はフィランジェルにそれ以上のことをしようとしていたじゃないか。自分の立場を利用して脅して関係を持つつもりだっただろう。君の思考を読んだからこそ、僕は君が許せなかったったんだ。僕は君のようにフィランジェルを徹底的に穢してやろうなどとは思っていなかったからね。それに君を放置していたら、この先も監視官の立場を利用して他の天使にも手を出すだろうとも思った。フィランジェルの先に堕天したベリアルだって…君が証拠隠滅のために堕天させたんだろう?」
「えっ?ベリアルが?」
リツは驚く。ベリアルは記憶にある。
「あぁ…今は魔界のデジタル庁にいるが…先ほど証言が得られたよ。ラグエルと関係を持った後に悪魔と交わったとの罪を捏造されて堕天したと。ちなみにラグエルは魔界に落ちてきた後に悪魔に拾われて出産している…てっきりその悪魔の子だと思っていたが、お前の子じゃないのか?今魔界と天界とは協力して天界のデジタル化を図る計画を進めているのだが、ラグエルに打診したら天使の顔は見たくないと言って断固拒否されたから問い詰めたら重い口を開いてそう言っていたよ」
ジーンはため息をついた。ベリアルが証言したことで今まで黙っていた堕天使たちの数人が天使と会うのを頑なに拒絶していることが判明した。しかも皆が皆口を揃えてラグエルが、と言ったので、この度ラグエル探しに力を入れることにしたのだが、ガブリエルがどこかその捜索に乗り気ではないことも感じていた。ようやく点と点が線で繋がったとジーンは思った。
「そ、そんな…!堕天使の言うことを信じるんですか?ベリアルなんて僕は知らない!本当に知らないんだ!」
「…今野泉…君はガブリエルに切り裂かれたショックで記憶を失ったのかと思っていたが、どうもそうではないようだな?ラグエルは君のずっと奥に押し込められている。君はラグエルの記憶を取り戻すのが怖いのか?いや、そもそも記憶すら共有できないほど隔たりがある…というべきなのか…」
ジーンの冷たい声に今野はビクリとした。今野は顔を覆うと無言になって肩を震わせた。泣いているのかと思ったら今野は低い声で笑っていた。リツはその様子にゾッとした。声色が変わる。
「あぁ…そうだよ。まさか悪魔に見破られるとはね。フィランジェル…君は僕には何一つ許さなかったのに…その悪魔には身も心も差し出したのか…憎らしいね。憎らしくてそれでも愛しい…ズタズタに引き裂いてその腹の中のものを掻き出して…滅茶苦茶にして殺してやりたいよ」
その瞬間今野の手があり得ない形に変形する。鋭い刃物の形になった手がリツ目掛けて突き出された。リツはあまりの衝撃に凍りついたまま咄嗟にお腹を守らなければと思った。半ば無意識に天使の姿になったフィランジェルは盾でお腹を守っていた。だが悲鳴を上げたのは今野の方だった。ガブリエルの剣がその変形した手を切り落としていた。ガブリエルの姿が天使の頃のそれになる。そこに立っているのは輝く銀の髪の堂々たる体躯の美丈夫だった。ガブリエルは冷たい目でベリアルを見下ろした。冷酷な司令官の横顔は当時のままだ。
「…お前…やっぱり堕天してたか…そりゃそうか…あれだけ罪を捏造して、気に入らない天使を穢して堕天させてたら…天使のままじゃいられないよな…アルシエル、堕天使はそっちの管轄だけど、どうする?ラグエルの魂の一部を抜いたところで…ごく一部だからほんの少し寿命が縮む程度だよ。身体は人だから今ここで殺す訳にもいかないし…記憶を消すか?」
ジーンは変形した腕を止血しながら元に戻す。ラグエルはギリギリと歯を鳴らして、およそ天使とは思えない凶悪な顔付きをした。
「フィランジェルを盗んだ悪魔め…」
「今野泉のその身体にラグエルの一部がこびりついている以上、切り離しは…まぁ、出来ないこともないのか。思ったほど混ざってもいないから。堕天使の魂の一部のみを回収して…魔界の拷問官にでも引き渡すとするか…今野の身体とラグエルの魂は思いのほか相性が悪かったようだ…」
ジーンの気配がアルシエルのそれに変わる。さすがのガブリエルも眉をひそめて何かに耐えるような表情をした。ジーンは今野の額に手を当てる。その額の中にずぶずぶと指がめり込んだように見えた。今野は絶叫した。
「嫌だヤメロ!僕は天使だ!堕天使などではない!!」
ジーンは頭の上から何かをズルリと引っ張り出した。絶叫していた今野は白目を向いてバタリと倒れる。引っ張り出した陰のような靄を、ジーンはくるりと丸めると、以前ストラスが持っていたような金属製の箱を取り出してその中に閉じ込めてしまった。
「まぁ…こんなものかな。ガブリエル…適当に記憶の辻褄を合わせておいてくれないか」
一方でリツは天使の姿のままぼう然としていた。
「私…ラグエルと…接点なんか…何も…なかったのに…どうして?」
リツの言葉にガブリエルは元の姿に戻ると肩をすくめる。
「そんなの、理由なんかないんだよ。だいたい誰かを好きになるのなんてそれほど明確な理由なんかない場合もある。その好意が憎しみに反転するのもまた一瞬だ。ラグエルが可哀想だと思うか?それならあの場でラグエルに押し倒されて犯されても良かったのか?そうじゃないだろ?キスしても君は泣いたじゃないか。あのとき確信したんだよ。フィランジェルの心にはもう別の誰かがいて、自分ではどうすることもできないんだってな」
ガブリエルはアルシエルの顔をちらりと見る。
「それに…悪魔のくせに…なんだって君は…神に近い気配を放ってるんだ?だから…フィランジェルが身籠った子も天使になったのかもしれないけどさ…弥生の子は…ごく一般的な人の子のようだよ。良かったのか悪かったのか…仮にも天使のガブリエルが抱いたのに…腹の子は悪魔だと言われた方がまだ納得できたかもしれないよ。この事実に僕はまだ動揺してるくらいなんだ…」
ガブリエルは息を吸い込むと、気を取り直したように気絶した今野の額に手を当てた。今野が共有した天使の記憶は自分の妄想が生み出した産物だと思い込ませる。特別な何かになりたかった自分の妄想だ。君は魔力が少し足りない人の子だ。少し愛情不足の人の子なのだ。これからも君は自分が天使だったと言い張るだろうし周囲もそれに合わせてくれるが、具体的な記憶は一つも思い出さないままこの先も生きる。今野の記憶に少し心配そうな少年の顔が過る。彼は多分この先も今野に関わる予感がした。加納翔吾か、と彼は記憶から読み取る。枕元のスマホを勝手に解除すると、翔吾からメッセージが入っていた。
(大丈夫か?返信くらいよこせよ)
何度か着信履歴が残っている。ガブリエルが通話を押すとすぐに相手が出た。
「あぁ、ごめんね。今野くんのスマホからかけてるんだ。ちょっと職場見学に来た上級生についてきたんだけど、体調が悪くなって休ませてるんだよ。うん?あぁ…君も来るかい?別に構わないよ?彼も多分嬉しいんじゃないかな。場所は今から送るよ。そこまで遠くないと思うから…」
ガブリエルが通話を終えるとジーンの姿に戻った彼は不審そうな顔をしていた。
「この子のことを気にかけて何度も電話してきてたからさ。加納翔吾くん」
「えっ…ショウゴ!?会うとまずいよ。どうしようとりあえず小学生になっておこうかな」
リツが慌てた。
「何?知り合い?」
「うん、少し話したことあるから…」
「ふーん。この子も面白いよね。別に異世界の転生者でもないのに元々、魔力量が多いんだ。鍛えればもっと上がるんだけど…あんまり余計なことはしない方がいいね。今野くんと幼馴染みたいだし」
ガブリエルはそう言って伸びをした。
「肝心なことを聞いてないんだが…ラグエルの残りの部分はどうなった?」
「あーそこ、見逃してくれないんだ。回収不可能なくらいに残りは細かくバラバラにして、天界から放り投げたから…恐らく悪魔が食べたんだと思うよ?首だけがね…逃げたんだよ。彼にくっついてたのはその首の一部。だから…まだ残りがどこかにあるかもしれないけど…その首を追いかけてるうちに気付いたら天界から離れてこんな遠くまで来てしまっていたんだ」
「なるほど。では依然としてその残りは行方不明という訳か。フィランジェルに対する執着がおぞましくて気分が悪いな。まぁ私も天使のことは言えないが…」
ジーンの言葉を聞いたガブリエルはフッと思わず笑う。
「君の執念には勝てないよ。フィランジェルが君を受け入れたから良かったけど、そうじゃないなら僕は君を相手にフィランジェルを連れて逃げ回らなくちゃならなかった訳で…さすがにそうなると…勝てる自信がないよ。なにしろ、この世界に来た天使は子作り一つ取っても悪魔に助けてもらわないとうまくできないお子さまだからね…」
「果たしてそれはどうかな?ミカエルはその方面における知識には乏しいが…一度武器を手に取らせたら百戦錬磨の猛者と化すだろう。私だって本気のミカエルと剣を交えるのは遠慮したいね。それにイオフィエルは無事に懐妊したからね」
「…そっか。そうだったのか。あのミカエルがねぇ…」
ガブリエルはどこか感慨深そうな顔をした。
「いずれにしても、ラグエルの残りはもし現れてもフィランジェルにとっては厄介な感情しか持っていないから…引き続き警戒はしておくよ」
ガブリエルはそう言うと立ち上がって肩をぐるぐると回す。
「さて、妻を待たせてるからこの辺で失礼するよ」
「あの…ガブリエル…!その…ありがとう…」
リツが言うとガブリエルは笑って手を振った。
「いや、記憶を消していて悪かったよ。フィランジェルは誰かにマイナスの感情を向けられることに慣れてないからさ。今日は旦那に優しくしてもらいな」
ガブリエルは医務室から出てゆく。ジーンがリツを振り返ると、どこか心もとない表情を浮かべたリツが立ち尽くしていた。ジーンは歩み寄るとリツを抱きしめた。
「大丈夫だよ。私がそばにいる」
ジーンはリツをしっかりと抱きしめるとそう囁いた。




