社長&イチカの場合 2
翌朝になって、社長はいつものベッドの中で目を覚ました。隣にはイチカがくっついて丸まっている。イチカは銀の枝の狭いスペースで寝ていたときの癖なのか、こうして広いベッドになっても丸く小さくなっていることが多々あった。社長はイチカの頭を撫でる。昨日の夜、ストラスの腕の中で緊張していたイチカのその緊張が少し解けそうになった途端に彼は言いようのない不安に苛まれたのだった。
(完全にバレてしまったな…あぁ…面倒だ…)
彼は自身が悪魔として健全であるとアピールするかのように、口では複数人で楽しむのが当然なことのように言ったり、豹の姿の宮森に猫の姿のイチカの毛づくろいをさせてみたりして自身の感情を試していた。だから大丈夫だと思ったのだ。宮森の毛づくろいを見ていてもあんな風にはならなかったのに、なぜだ?と思う。
(ストラスはアルシエルの配下だけど、使い魔ではない…)
当たり前のことなのに、こうも違うものなのかとその歴然たる差に笑い出しそうになった。自らの血を与えた者は自身の一部として認識される。宮森もそうなのだ。自分の一部がイチカを舐めていたところで平気なのは当たり前なのだった。
(ルイはリツの使い魔で…そのルイの夫はストラス…ストラスの主はアルシエル…アルシエルの妻はリツ…)
ルイがリツの一部として認識されるなら、アルシエルとルイの間にもまたそれほど壁はない。彼らの間に違和感がないのはそういうことかと社長はため息をつく。一方でストラスとイチカにはこれといった繋がりがない。自分も含めてだ。
(あぁ…やはり、魔界には帰りたくないな…)
そう思って彼はギクリとした。今はまだ帰らないつもりが、いつの間にか懐かしいはずの故郷はあまり帰りたくない場所になりつつある。ベルフェゴールに王子教育を施されリリスからも学んだのに自分がやったことと言えば、リリスを妻にしてベルフェゴールに弟子に女悪魔を奪われた滑稽な師匠としての恥ずべき名を与えたのみだ。しかも中途半端に玉座を放り出してアルシエルに多大なる迷惑をかけた。今更どの面を下げて魔界に戻るというのか。そこまで考えて、不意にそれはリリスも同じではないのかと不安になった。魔界に戻すつもりで、本人も強くは望まなかったから学校にも通わせず家に置いて危険から遠ざけて過ごしてきた。リリスにルシフェルの妻という肩書きがある以上、リリスにも国政を顧みずに出奔した大罪人である自分の影が常につきまとうことになる。
(八方塞がりとはまさにこのことかな…イチカの身体のことを考えると…魔界で出産した方がいいに決まってるのだけど…)
そこで社長は考えるのを止めた。嫌なことを考えて悩まないのが社長の長所であり短所でもあったが、解決に至るまでに時間を有しても問題のない悩みはともかく、今回は悠長に構えているとイチカが出産時期を迎えてしまうことに関しても彼はそのことに向き合うことからいつものクセで目を逸らしてしまった。
「おはよ…ソーシ。難しい顔をしてどうしたの?」
イチカが目覚めて伸びをしたので彼は頭を撫でて微笑んだ。
「おはようイチカ。なんでもないよ。そろそろ…イチカの友だちにも協力してもらって、インキュバスとサキュバス用の魔力回復薬の治験を開始しようかと思って」
「あぁ、ケイ姉?最近マゴトさんが契約パートナーになってから調子がいいって言ってたから大丈夫だと思うよ」
イチカが目をこすりながら言う。起き上がったイチカを抱きしめて社長は魔力を流した。
「イチカ、調子はどう?大丈夫?」
「うん」
まだそこまで目立たないイチカのお腹に触れて社長は安堵する。大丈夫だ。その日を迎えるとしてもまだ先だ。近くなったら告げればいい。社長はイチカのお腹を撫でながら目を閉じた。
***
今日も登校する者と出社する者は慌ただしく準備をしていた。ゲストルームを借りた光輝と遠野圭一朗は名残り惜しそうに抱きしめ合っていた。マスコミが嗅ぎ回っていることもあり、きさらぎきりとのマンションを使う話も今は保留になっている。とりあえずこちらの家に集まる分には複数人が出入りしていることもあって、誰が誰とどんな関係であろうが悟られないであろうと判断した上で、部屋から出る前にお互いの魔力を与え合っていた。
「ケイくん…」
「そんな…一生会えないみたいな顔…しないでよ。大丈夫。仕事が終わったらここに来るからさ」
「うん…あの…夢の…中の話なんだけど…覚えてる?」
「どうしたの?もちろん覚えてるよ。同じ夢を見たんだ。前世のコーキの身体も隅々まで見た…」
「それっ…!恥ずかしいから誰にも言うなよ?」
「誰に話すって言うのさ。コーキが去勢されてたなんて話。ムダ毛もなくてツルツルだったね…」
「だからっ!その…きさらぎさん…とか…」
光輝は赤くなって少し上目遣いに彼を睨んだ。
「そんな話する訳ないから安心していいよ」
光輝はそれでもどこか不安そうに遠野に抱きついたまま言った。
「俺…きさらぎさんみたいな包容力はないから…ケイくんにとっては…頼り甲斐ないかもしれないけど…これから体調のこととかサポートするからね?薬はちゃんと飲んだ?昼と夜の分もちゃんと荷物に入れた?あとは、マスクとハンカチ…」
急に光輝が荷物のチェックを始めたので遠野は少し笑ってしまった。
「信用ないなぁ…大丈夫だよ。荷物はちゃんと準備してるから」
二人は荷物チェックを終えて部屋を出る。遠野のスマホにマネージャーから連絡が入ったので彼は玄関に向かった。光輝は車でこの後に登校予定だ。
「いってらっしゃい」
光輝は遠野に手を振った。
***
やがて車庫に向かった光輝はそこで運転席のラウムが助手席のアサヒと濃厚なキスを交わしているのをうっかり見てしまうという状況に直面していた。少し遅れてやってきた少女のリツに少年姿のジーンまでもが遠慮なくキスをし始める。光輝は目を逸らした。どこを見ていいのか分からない。
「……あのさ、毎朝…こんなことやってんの?」
顔を逸らせたまま光輝が言うと、ジーンは平然と頷いた。
「このタイミングで補充しておかないと、リツはたまに調子が悪くなるんだ。今日は魔力回復シールも何枚か持ったから…それで補えるっていう安心感はあるけど、これは日常のルーティンだな」
やがて、三夜美が現れて少年姿の大佐と運転手のカイムが姿を現した。
「あの…僕…公共交通機関…使いますよ?」
三夜美が高級車を見て気後れしたように口を開く。
「一人乗せるのも二人乗せるのも変わりませんから、遠慮しないで下さい」
ラウムは言って三夜美を後部座席に押し込んだ。
「コーキもそっちに乗ったら?大佐と二人じゃ気まずいかもしれないし」
リツの言葉に、確かにそうかもしれないと思った光輝はラウムの運転する予定の車に乗り込んだ。大佐は当然のように助手席に座る。じゃ、と言ってリツはいつも通りラウムの車に乗り込むと、アサヒが小さく笑った。
「…僕らがキスしてるの…車庫の中だけじゃないもんね…カイムさんの車から見られないようにしなきゃ」
「アサヒも悪魔らしくなってきたな。リツもしれっと誘導するし」
ジーンが後部座席でニヤリと笑う。
「え?私、そんなつもりで言った訳じゃないよ!大佐とミヤビを二人で乗せて何かあっても困るし…!」
「あぁ…ま、それは確かにそうだな。ミヤビ一人なら大佐は後部座席に乗って、いたずらくらいはするだろう」
シャッターが開くのを見ながらジーンが小さく笑った。
***
教室に着くと荻原ジェシカが登校していて、鈴本たちと話している声が聞こえた。
「お姉ちゃん、家出しちゃってさー」
「え?それまずくない?」
「大丈夫みたい。なんとかって会社のシェルター?に入ってるみたいで…どうせお父さんとまた揉めたんだよ。自分が注目されたいからって…どうせすぐに帰ってくるよ」
二人が教室に入ると少し所在なげにしていたヒトミが駆け寄ってきた。
「おはよう!」
「おはよ、ヒトミ」
リツとジーンが声をかけると、昨日から登校し始めた高村姫乃が遠慮がちに小声でおはようと言った。けれどもすぐに滝野に呼ばれて慌ててそちらへ行く。
「転校生だからってすぐに話しかけに行かないで」
ピシャリとジェシカが言う。相変わらず威圧的だ。
「ごめん…仲良くないの?」
「うん」
「どうして?」
「どうしてって…どうしても!」
ジェシカは苛ついたようにため息をついて、質問には答えなかった。やがて担任が教室に現れて朝の会が始まる。一時間目の授業が始まってしばらくしたところで、廊下に別の教師が現れてジェシカが呼ばれた。
「荻原さん…弟さんがお亡くなりになったそうです」
「……!!」
ジーンには廊下の会話が聞こえていた。ひゅっとジェシカの息を飲む音が響く。
「そ…そんな…ウソ…」
(サリエルがバラキエルの魂を回収した…ヒジリの肉体の死だ…)
リツの心にジーンの声が響く。ジェシカはカバンにタブレットを入れると慌ただしく教室を出て行った。心配そうに鈴本がその背中を見送る。その日からしばらくジェシカは休んだ。そしてそのままひっそりと転校した。担任は両親の仕事の都合と説明したが、ヒジリの死をきっかけに養父母は離婚し、あの豪邸は母親の持ち物だったため、養父を選んだジェシカは共に追い出されて福音の鳥の会に身を寄せたと、情報通のガブリエルが六季を通じて教えてくれた。ランチの時間に六季とそんな話をしていると少し遅れて現れた太輝がヒトミの隣に座った。太輝は最近ヒトミと親密になっていた。トレーを持った鈴本が刺すような視線を浴びせたが、太輝は構わずにヒトミに話しかけていた。
「ね、週末空いてる?遊ぼうよ。うちに来る?」
太輝は積極的にヒトミを誘って、ヒトミは慌てていた。嬉しいけれどこんな人前で堂々と誘われるとは思っていなかったからだ。リツとジーンは相変わらず女子を引き連れたベルからプレミアムスイーツを貢がれていた。通り過ぎざまに二人のトレーにスイーツを置いてゆく。太輝は驚いた顔をしてベルを見ていた。
「あのわがままなジェシカが福音の鳥の会でやっていけるのか?」
「下心ありで福音の鳥の会に入会したのに、肝心の家庭教師の先生は退会してるしで踏んだり蹴ったりみたいだよ…」
「もう退会してたんだ…てっきり続けてるのかと思ったけど…」
「心の拠り所が必要なくなったからじゃないか。別の守るべきものを見つけたから…」
リツは宮本の見つけたものが三夜美のことだと分かっていたが口には出さなかった。三夜美も離婚が決まった段階で学校を辞めると言っていたが、社長がそれを阻止した。社長は言った。
「君が学校に通う代わりに…うちの会社の魔力回復シールのデザインに君の絵を使いたいんだ。クリエイターとして君を採用したい。君は絵に魔力を込めることができる特異体質のようだから、それも含めて君の魔力を研究したいんだ。もちろん、体調管理に関しては全面的にサポートするから、君は今まで通り学校に通いながら放課後に時々会社に顔を出してくれると助かるよ」
そんな訳で三夜美は才能を買われてそのまま清葉学園に通うことになった。学校が終わる頃に宮本かラウムが三夜美を迎えに行くことで話がついた。三夜美が絵を描く際の魔力量の変化を測定し、消耗が激しい場合は中断して契約パートナーの宮本が魔力を補い様子を見る。三夜美はちょっとしたアトリエのような空間を用意されてとても喜んでいた。皆が少しずつ前向きに歩き出した頃に、再び問題が浮上した。




