社長&イチカの場合 1
「ベルフェゴール、そんな言い方しないで。ソーシにもきっと考えがあるんだと…思うから…」
大佐の腕の中でイチカが声を上げて、社長を見たがすぐに目を逸らした。大佐は口をへの字にしたが反論はしなかった。
「…今…ちょうどイチカに魔力を流すのに連れて来れば良かったのにと話していたんだよ。おいでイチカ。リツさん、すみません…」
ストラスが申し訳なさそうな声を上げたので、リツは笑ってストラスの膝の上から降りた。お腹の子たちは満足している。大佐はストラスの元にイチカを抱いたまま連れてきてひょいと軽々渡す。ストラスはイチカを受け取ると膝の上に乗せた。社長の表情は読めなかった。なぜかストラスの隣に大佐もどかりと座るとジーンに尋ねた。
「王妃に流してもいいでしょうか?」
「あぁ…お願いするよ。その代わりあまりかっかしないでくれ。魔力の流れに影響する」
「分かっていますよ。どうぞ、こちらへ。王妃」
両手を広げられたので、リツは恐る恐るベルフェゴール大佐の上に座る。横抱きにした大佐はそっとお腹に触れてきた。
「そんなに緊張しないで下さいよ…補佐官のときはリラックスしてたじゃないですか。天使のときだって容赦なかったのに…」
大佐に抱きしめられてリツは何と答えて良いのか分からず、ただ大佐の魔力を感じていた。ストラスよりも重い。でも嫌な感じではない。見ればイチカもストラスの腕の中で先ほどよりも緊張した表情を浮かべていた。イチカと目が合う。イチカが手を伸ばしてきたのでリツはその手を思わず握り返した。
「…こんなに緊張されると…何か悪いことをしようとしている気分になりますね…」
社長に対して言ったときとは全く違う口調で大佐は言う。
「イチカ、どうした?調子悪いのか?」
ストラスが尋ねるとイチカは慌てて首を横に振った。
「ち、違う…むしろ…逆だから…変な感じ…」
イチカはリツの手を握る指先に力を込めた。
「あぁ…大丈夫だよ。そのまま気持ち良くなってな」
ストラスがイチカの頭を撫でる。社長は無表情でそれを眺めていたが握った拳に力が入っているのが見て取れた。
「ストラス…その辺にしておけ。それ以上魔力を流されて乱れるイチカをおそらく社長は見ていられない。使い魔の宮森がするのとは訳が違う…」
ジーンが静かな口調で告げる。
「……平気だよ。この程度のことは。別に」
社長は言ったが、リツが見ても分かるほどに顔色までが白くなり始めていた。ルイを膝から下ろしたジーンが社長の方に素早く移動して抱きしめる。社長は嫌がるようにジーンから離れようとしたが、ジーンはなだめるように言った。
「無理しないで下さい。段階を踏めば克服できますから」
社長はその言葉で諦めたのか身体から力を抜いてジーンの肩に顔を埋めた。呼吸が荒い。ジーンは背中を撫でる。大佐はその様子を見ていたが、リツの耳元で囁いた。
「ルシフェルは重症ですよ…これは時間がかかりそうです…陛下は…だいぶ…克服できているようですが…」
ジーンは社長のパジャマの襟元を緩めて、ソファーの背もたれをリクライニングさせた。額に手を当ててしばらく魔力を流すと社長はいつの間にか眠っていた。大佐が肩をすくめる。
「いっちょまえに子作りしたくせに中身はまだまだお子さまだなぁ…」
ストラスの腕の中でイチカが眉を寄せた。大佐は隣のイチカの方をちらりと見る。イチカはどこか不本意そうな小さな声を上げた。言い訳がましいと思いながらもイチカはボソボソと小声で言った。
「なんだよ。俺は…避妊しろって…言ったよ?まだ…そのときは…覚悟が決まってた訳じゃなかったから…なんなら、今だって…けど…こうなった…仕方ないじゃないか」
大佐はイチカの頭を少し乱暴にくしゃりと撫でた。リツは大佐がリリスの元彼だということを今更ながら意識した。昔から知っている者どうしにしかきっと分からない独特な空気感が二人の間には漂っている。言葉を多く交わさなくても通じるのかもしれない。
「あーなんとなく、経緯は分かったよ。怖いよな。産むのはリリスであってルシフェルじゃないからな。そもそも…それで俺たちは別れたんだ。産んでほしい俺と、産みたくないリリスと。今なら分かるよ。リリスにはあの時やりたいことがたくさんあったからな。ルシフェルを導いてくれて感謝してるんだ。そのために、犠牲にしたことがあったことも含めて」
「今更…調子狂うようなこと…言うなよ…」
イチカが小声でつぶやく。ニヤリと笑った大佐は不意にジーンを見ると声をかけた。
「陛下…王妃に口付けしてはいけませんか?」
「えっ!?」
大佐の魔力で少しぼんやりしていたリツはハッと我に返り身体を起こす。ジーンは眉をピクリと上げてリツの顔を見る。リツは慌てて首を横に振った。
「……私は…」
だが、そこでジーンはなぜか迷う素振りを見せた。大佐自身は即答で断られると思っていた。
「リツが嫌でないなら…唇から魔力を注いでも…構わない」
隣のストラスがジーンの顔を二度見する。
「いや…あの…そこまで無理はしなくても…」
ストラスはジーンまでルシフェルのように具合が悪くなっては困ると思った。自分が許可されたのは緊急時のことも含めての延長線だ。わざわざしなくてもいいことを試さなくても良いとストラスは思った。
「無理はしていない…少々…試すだけだ…私がどの程度慣れたのか」
「王妃?いいですか?」
「えっ…?私…は…」
リツは困ってジーンとストラスの顔を見る。それからベルフェゴール大佐の顔を見上げた。
「アルシエルのためにも…協力してやってもらえませんか?王妃…」
彼は陛下とは呼ばずに名前を呼んだ。そういう気安い間柄には見えなかった。けれどもその声色からリツは彼が本当は昔からアルシエルのことを知っているという気がした。
「そう言われたら…私が断れないの…知ってて…その言い方は…ズルいです」
リツが言うと大佐はいつになく優しい目をしてリツを見つめた。その瞬間リツはフィランジェルに入れ替わっていた。大佐は明らかにギョッとした顔をした。
「大佐、リツにはまだ少し荷が重い。だから私にしておいて」
フィランジェルは大佐の首に両腕を回すと呆気なく唇を重ねた。大佐は天使の力を感じた。悪魔なのになぜだろうと思う。二人にしてみればそれほど長い間でもなかったのに、それをじっと見ていたアルシエルにとっては、少し長く感じられる時間が経過してようやくフィランジェルは大佐から唇を離した。
「…ごちそうさま。やっぱり古い魔力は芳醇で美味しいね」
フィランジェルはそう言って青い瞳で大佐の目を覗き込む。大佐は目の前の天使に一瞬呆けたようになり、慌てて間の抜けた顔を元に戻した。この天使は危険だと大佐の中で警鐘が鳴り響く。唇を重ねて魔力を与えただけなのに、その瞬間に命を取られるのではないかという危うい感じがした。まるで喉元に剣を突き立てられているような。フィランジェルは目を細めて猫のように笑う。彼は完全に相手に優位に立たれたことを悟った。アルシエルはこんな恐ろしい存在を平気で抱いているのかと思って大佐は自分と彼との間に途方もない隔たりを感じた。いつになっても追いつけない。今も昔もそれは変わらなかった。少しだけ神聖力を吸い込んだ大佐はめまいがした。
「…フィランジェル…なんとなく…出てくる気がしていたよ」
ジーンが言うと、フィランジェルは大佐の上からするりと立ち上がってジーンに抱きついた。ジーンも抱きしめ返す。
「本当に無理してないか?私は元は天使だから悪魔の子育ての方法はよく分からないけど…アルシエルが複雑な気分になるのは、こう…胸の辺りがモヤッとするから、あまり積極的にはしようとは思わないよ?でも…子どもたちは喜んでる気配がする。新しい魔力に…」
フィランジェルはお腹を撫でながら微笑んだ。
「大佐の魔力も相性は悪くないからな…取り込んでおいて損はない」
アルシエルは社長のように目立って取り乱したりはしなかったが、抱きついたフィランジェルはいつもよりその鼓動が早いことに気付いていた。ストラスやルイ以外の悪魔との口付けはまだ少しだけ早かったのだろうと思う。それでもアルシエルは自分のような苦労はさせたくないと思って、子どもたちにより楽に生きられる道を切り拓こうと努力しているのが伝わってきた。
「…ルシフェルは…精一杯背伸びしてイチカの前では大人のフリをしてるけど、中身はそこまで変わってないんだなぁ。口ばっかり達者になって可愛げがなくなっただけじゃないか」
大佐の言いようにストラスはイチカに魔力を流しながら苦笑してしまったが、師匠から見た弟子はそうなのかもしれない。
「陛下…少し強引に進めないと…リリスの腹が大きくなる方が早いかもしれません…ルシフェルの母君のときだって…そうでしたよね」
「あぁ…」
アルシエルは遠い目をした。恐らくルシフェルは自分が母親の胎内にいたときに母親の恐怖と混乱を読み取ったのだろうと思った。悪魔の子は親の胎内にいる時から、意識がはっきりしている。皆が皆そうではないが、ルシフェルほど魔力の強い悪魔なら自分同様にそうであっただろうと推測できた。
「陛下は克服する努力をなさっているのに、ルシフェルはどちらかというと消極的です…ルシフェルの見ていないところで我々がリリスに魔力を注ぐのは容易ですが…そういう訳にもいかないでしょうし。お腹の子が父親不在の場所で魔力を注がれたと知るのはあまり…心証が良くない…」
「魔力を与えるとき…私やルイを経由するのは…どうかな?」
不意に黙って考え込んでいたリツが声を上げた。たがアルシエルと大佐のみならず、ストラスにまでが不思議そうな顔をしたので、リツは慌てて両手を身体の前で振った。
「あの、今のは聞かなかったことにして!私、悪魔の常識がないから…!!」
けれどもアルシエルはあごに手を当てて考えた。
「…いや、なるほど。考えたこともなかったが…試す価値はあるかもしれない。我々がリツやルイに注いだ魔力を二人からイチカに流す…ルシフェルは複数の男の悪魔たちに対する母親の恐怖を覚えているから拒絶反応が出ているんだ。今は女性の二人からイチカに流せば…我々の魔力でも二人の魔力と混ざって拒絶反応が緩和される可能性は十分にあるよ」
「…さっき…リツと手を繋いだら…緊張が少し解けたんだ…この緊張って自分のってより…ルシフェルの強い感情に引っ張られてる感じもするから…リツやルイからなら…もう少しリラックスして受け取れる気はするな」
イチカが先ほどまでリツ繋いでいた手の指先を見つめる。
「今日はもう遅いし、ルシフェルも寝てるからこの方法を試すのは明日の夜ですね…」
大佐が眠るルシフェルの顔を見ながらつぶやいた。まったくこちらの気も知らずに無防備な表情で眠っている、大佐は子どものようなその寝顔を見て少しだけ苛立ちを覚えた。




