新婚旅行の場合 56
翌朝、朝食を食べた後に再び出発する者は魔界に残る者たちと別れの挨拶を交わしていた。
「ルイ、元気でな」
言った端からなぜかケビンは涙目になり周囲の者を驚かせた。
「ちょっと、ケビン、今生の別れでもないのにどうしちゃったの?」
本当に泣き出してしまった美女に抱きしめられたまま、ルイは困惑した様子で同行する三分の二のストラスを見上げる。
「いや、なんで俺を見るんだよ…多分…これが世に言うマタニティブルーってやつなんじゃないのか?ケビンやルイは特に身体を変えたことで尚更女性ホルモンに振り回されやすいんだろうっていうのが産婦人科医としての見解なんだけど…合ってます?」
最後に少し不安げに付け加えたストラスはアルシエルに確認した。アルシエルは頷いてケビンの頭を撫でた。
「ケビンは繊細だなぁ。案外僕より真面目なとこがあるせいじゃない?夢の領域でいつでも会えるよ。もちろん、ダンタリオンさんとの時間が優先だからね?その合間にちょこっと顔を覗きに行くからさ」
ルイが言うとケビンは小さく頷いた。ケビンの隣にエストリエがやって来る。エストリエはルイの頭を撫でた。
「三分の二の夫をよろしくね、ルイ」
「エストリエも三分の一のストラスをよろしく」
そう言い合ってお互いに吹き出す。変な会話だと思った。三分の一のストラスはすでに朝から仕事中だ。天界のデジタル計画案に関わる事項で慌ただしかった。噂をすればなのか、そのとき扉が開いて三分の一のストラスが慌てたように入ってきた。
「出発時間を三十分ほど遅らせることはできませんか!?」
「何があった?」
アルシエルの言葉にストラスはタブレットを見せる。アルシエルは内容を確認すると、なぜかニヤリと笑って頷いた。
「ま、一人二人増えようが問題はないだろう。天使の到着を少し待つとするか。ケビン泣いているところ悪いが、出発が三十分延びた。その間にルイと思う存分別れを惜しんでおくといい」
ケビンはアルシエルの言葉に困ったように涙を拭った。
「三十分って蛇の生殺しみたいでもっと中途半端!!うわぁ…ルイっ!!」
「はいはい…せっかく魔力は閉じられるようになったのに、妊婦になったら涙腺の方はガバガバなんだね…」
ルイは苦笑して再び溢れ出したケビンの涙を拭った。
***
魔界からの出発を遅らせた天使は悪びれもせずにきっかり三十分後に姿を現した。
「やぁ、来ちゃったよ」
リツは天使と聞いたときに、なんとなく予感はしていた。そこにいるのはミカエルだった。だが全く天使らしく見えない。ある意味ガブリエルより酷いかもしれない、とリツはティーシャツにハーフパンツのあまりに気楽な格好の男を見上げる。
「イオフィエル、仕事なんだから諦めなさい」
その後ろから屈辱だと言わんばかりの顔付きで現れたのは、やはりイオフィエルだった。イオフィエルもパンツが見えそうなほど短いミニスカートに可愛らしいキャミソールを着ている。程よく膨らんだ胸元にはこれ見よがしにキスマークがついていた。
「ミカエルさま、本当にこれ、お守りなんですか!?ここに来るまでに通り過ぎる悪魔にいやらしい目付きで見られたんですけど、本当にこれ効いてるんですか!?」
「イオフィエル…君は自意識過剰だよ…」
イオフィエルは納得いかない顔付きでミカエルを見上げる。ミカエルはわざとらしく目を逸らした。ミカエルがつけたのはなんの拘束力もない単なるキスマークだ。むしろそんなものをつけて一人で歩いていたら、その辺の悪魔に味見をされてしまう。だが実際に行動に移せないのは隣にミカエルがいたからだった。ミカエルは自分の存在による牽制がどの程度の階級の悪魔にまで効果があるのか試して楽しんでいたのだった。そうして、アルシエルやストラスには全く効果がないのであろうことを理解して、それでもイオフィエルには食指が動かないことに半ばホッとしていた。ここまで露出の高い服を着せたのに何の反応もない。
「…天使を同行させるなんて正気ですか?あぁ、自己紹介がまだでしたね、俺はベルフェゴール。こっちはカイム」
ソファーにだらしなく寝転んだ男と、その彼に実に不本意そうな顔つきのまま膝枕をさせられている青年に気付いたイオフィエルはどこかで聞き覚えのある名前に首を傾げた。だらしない男の方ではない。怠惰の悪魔はある意味有名だ。目が合うと彼はニヤリと笑ってイオフィエルを見返した後に何を思ったのかカイムの顔を見上げて片手でもっと近寄るように合図をした。
「なんですか?」
怒ったような表情のままカイムは大佐の方に顔を近付ける。
「少し食わせろ…」
「は?嫌ですよ!こんなところで…!」
けれども大佐は無理矢理カイムの頭を引き寄せると強引に唇を重ねた。抗おうとしたカイムは途中で急に身体の力が抜けたように抵抗するのを止める。カイムの首の後ろに大佐が魔力を注いだせいだった。昨夜余すところなくカイムの身体を検分して、すでに大佐はどこに魔力を注ぐとカイムが動けなくなるか把握してしまっていた。
「大佐…止めて下さい…」
カイムの声が震えたので彼は少し力を弱めてカイムの腰に腕を回した。小柄な天使を見ると真っ赤な顔になっていた。なるほど、大した経験もない小娘なのかと大佐は判断を下す。胸元のキスマークからも何も感じなかった。ところが天使の少女は突然声を上げた。
「あ!あなたがミュリエルを惑わした悪魔ね!どこかで名前を聞いたと思ったら!!なのに、あなた…この悪魔の愛人なの!?」
カイムはようやくそこでイオフィエルから向けられた敵意に気付いて重い大佐の魔力の中から浮上した。ミュリエル…誰だ?とカイムは首を傾げた。
「その名前は存じ上げませんが…愛人かという問いに対しては違いますと言っておきます。部下です。が、不本意ながら、第一夫人から夫の世話を頼むと託されてしまいましたので、このようにあなたにとっては不快な行為をお見せすることも今後は度々起こるかと思います…異世界の空気は淀んでいて魔力が安定しないそうなので…天使のあなたも例外ではないかと思いますが…」
イオフィエルは真面目そうな顔に見返されて一瞬気圧された。だが相手は悪魔だ。嘘を言っている可能性もある。
「お嬢さん…そのカイムとやらにはどこで会った?」
大佐が起き上がって、いててと腰をさすった。カイムはやや呆れた顔をして何を思い出したのか唇を歪めた。笑いたいのを堪えているのかと、イオフィエルは相手を睨む。
「アグラットが激し過ぎて身体がもたないよ…まったく好き放題しやがって。で、カイムに会ったって、お嬢さんみたいなお仲間のおぼこいのが魔界近辺をフラフラしてたら、あっという間にその辺の悪魔にヤラれて腹が膨らんでそうなんだけどなぁ…」
失礼かつ下品なセリフが飛び交うのでイオフィエルは腹が立った。これだから悪魔は嫌なのだ。なのに隣のミカエルは笑っている。この上官もどうかしている。
「魔界近辺じゃありません。天界の領域に近いところで…でも浮島にぶつかって少し落下したから…もしかしたらミュリエルの記憶違いかも…しれませんけど…」
次第に言っているイオフィエルも自信がなくなってきた。
「お嬢さん、それはカイムじゃないな。誰か別の悪魔がカイムのフリをしたんだ。なぜかは分からないが、カイムはそもそもそんな高いところを飛ばない。カイム以外の悪魔もだ。天界の領域を脅かすなっていう法律があって、不測の事態以外でわざわざ天界を単独で訪ねるような物好きな悪魔はいないんだよ。だからもしかしたら、かなり落ちて魔界の領空に入っていた可能性はあるが、記憶する限り報告も上がってきていない…陛下、ちょっと嫌な感じがしますね。どいつの仕業なのか特定しないと…気持ちが悪い。この情報は残り半分の自分にも共有しておきます」
ベルフェゴール大佐はアルシエルに向かって真面目な口調で告げた。アルシエルは確かにフィランジェルと共に同じ話を聞いたのを記憶していた。あのときの情報をリツは共有したのだろうか。アルシエルがふと思ったとき、リツが首をひねった。
「ミュリエルって…一瞬リュミエルのことかと思っちゃった。良く似た名前だから…」
リツはどこか遠い目をした。かつて自分の監視者で同僚のフリをして騙していた彼女のことを思い出してしまったのだとアルシエルは気付いていた。
「そりゃ似てる名前なのも当然かもね。だって双子だもの。リュミエルは塔に収監されてるからまだまだ出てこれないけどね」
ミカエルの言葉にリツは明らかに衝撃を受けたような顔をした。そしてアルシエルはそのときフィランジェルがあえて事細かにリツには情報を共有しなかったことも理解した。フィランジェルの優しさだったのかもしれないが、リツにとっては天使の一人が話しかけてきた程度の事実として認識していたことが、かつて自分と関わったせいで罪人になった双子の片方が話しかけてきて、自分がその名を聞いてもなんの反応もしなかったこととでは意味が全く違うと思ってしまったようだった。確かに意味は違う。ミュリエル自身はカイムに拘っていたが他にも意図があったのではないか、そうしてアルシエルもその点については言及しなかったことに、リツは困惑しているようだった。
「リツ…天使の感情を人間の双子に考えて当てはめてはいけない…考え方そのものが違うんだ」
アルシエルが言うと、ミカエルはようやく自分が余計な情報を与えたことでリツが困っているのに気付いたようだった。
「天使の双子っていうのは、人間に例えるなら…何だろうなぁ。赤の他人とまではいかないけど、顔見知り程度の認識でしかないよ。強いて言うなら…顔見知りのくせにちょっと自分と姿形が似ててウザいな、って感じ?」
「ミカエルさま…言い方がよくありませんよ。でも言いたいことはおおむね合ってます。単なる自分と少し似た姿の顔見知り、その程度のことです。何事にも淡泊だと言われるのはそのせいですね」
イオフィエルが真面目な口調で捕捉して、どこか不思議そうにリツの顔を見つめた。
「あら…?その姿でも…青い目だった…?」
イオフィエルの言葉にリツはなぜか赤くなった。つられてイオフィエルまでが顔を赤らめる。目の色に言及するとまずかったのだろうか。イオフィエルには人間や悪魔の心の機微は分からない。するとアルシエルが面白そうな顔付きでイオフィエルに言った。
「昨夜、私が愛でるあまり魔力を注ぎ過ぎて変わってしまったんだよ…放っておけば戻るはずだから、気にする必要はないんだ」
イオフィエルは更に真っ赤になってしまう。ベルフェゴール大佐が面白そうにその顔を見てフッと低く笑った。




