第十三話「牢獄」
ぽちゃ、と。
冷ややかな水滴が額を打ち、その微かな衝撃で微睡の泥から意識が引き上げられる。
重い瞼を押し上げると、視界に飛び込んできたのは粘ついた闇と、どこからか滴り落ちる水の音だけだった。
「ん、あ……?」
かすれた声が、湿った空気に溶けて消える。
激痛。頭蓋を内側から殴りつけられているかのような頭痛に顔を歪めた。
ここは……どこだ?
そうだ、村が——魔物の群れに襲われて。ギルドが燃えていて。
……リリィは? あいつは無事なのか? 村の皆は……お袋や親父は……
焦燥に駆られ、弾かれたように体を起こそうとした。
——チャラ、と。
金属が擦れ合う、冷酷な音が狭い空間に響き渡る。
腕を動かそうとして、初めて自分の両手首が背後で重厚な鉄鎖に繋がれていることに気がついた。自由が効かない。魔力を練り出そうにも、体に力が入らない。完全に拘束されている。
「こ……ここは……?」
「『深淵大陸』さ」
暗闇の奥から、乾いた老人の声が響いた。
声のした方に視線を向けると、そこには格子越しに、疲れ切った眼光を浮かべる六十代ほどの男が座り込んでいた。痩せこけた頬に、歪んだ丸眼鏡。その佇まいには、生に対する執着が微塵も感じられない。
「深淵、大陸……?」
聞き覚えのない言葉を反復する俺に、メガネの男は弱々しく首を横に振った。
「ああ、そうだ。人理の及ばぬ魔物どもの領土……。人間など住めやしないし、生き息づくことすら許されない死の大地だよ」
「……っ」
思考が急速に冷えていく。
俺は……あの炎上する村から、ここまで連れてこられたのか。あの混乱の中、気を失った隙を突かれて。
それと同時に、半ば麻痺していた意識が一気に覚醒した。自分の状況などどうでもいい。一番確かめなければならないことがある。
「リリィは……!? リリィは無事か!?」
必死で身を乗り出し、ジャラジャラと鎖を鳴らしながら、うす暗い牢の隅々まで視線を走らせる。だが、どこを探してもあの銀髪の少女の姿はない。
「リリィ……? お前の大切な人かい?」
「そうだ……」
そう問い返され、ハッと息を飲んだ。これ以上、取り乱して叫んだところで何の意味もない。冷や汗を拭いながら、俺は深く息を吐き出し、胸の動悸を抑え込む。まずは状況を整理しなければ。情報を引き出すのが先決だ。
「……あんたは、誰なんだ」
「誰、かね……」
「どうしてこんな場所に捕まっている。何があった」
質問を投げかけた瞬間、男の瞳から完全に光が消えた。
死に魅入られた人間の目だ。今すぐにでも自分の喉を掻き切って絶命しそうな、底なしの絶望がそこにはあった。
「どうして、か……。私は妻と二人、静かに暮らしていたんだよ。あの日もいつもと同じ、穏やかな一日になるはずだった。私が二階で手帳をつけていた時、下から凄惨な悲鳴が聞こえてね……慌てて駆け下りると、そこには妻の——」
男の言葉が詰まる。その胸の内に渦巻く惨劇の光景が、痛いほど伝わってきた。
「妻は、抵抗したんだろうね。その場で殺されていたよ。私は……愚かにも恐怖で竦み上がり、大人しく縛についたからこうして連れてこられた。ああ、どうしてあの時、私も抵抗して妻のあとを追わなかったんだろうな……」
想像以上に重く、救いのない過去を突きつけられ、言葉に詰まる。
かけるべき言葉が見つからず、居心地の悪い沈黙が流れた。失敗した。踏み込むべき質問ではなかった。
「あー……えっと。……じゃあ、なんで『今』はそうしないんだ?」
口を出てから、完全に問う順番を間違えたと後悔した。だが、メガネの男は自嘲気味に口元を歪めただけだった。
「これが邪魔でね」
ジャラ、と。
彼は背後で固く結ばれたチェーンを軽く揺らしてみせた。自由を奪われ、死ぬことすら許されないというわけか。
「なるほどな……。……辛かったな」
「ふふ、同情なんていらないよ。……それで、君はどうしてここへ?」
男に促され、俺は短く自分の経緯を話した。
冒険者としての初仕事で薬草を探しに出たこと。村が襲撃されたこと。幼馴染のリリィを逃がすために戦い、そのあと愛かけただリリィの姿はなくそこで意識を失ったこと。
「そうか……それは心配だね」
「ああ」
「そのリリィというお友達は……せめて、無事でいるといいんだが」
「……『せめて』、だと?」
その言葉に、俺は眉をひそめる。
「私たちはもう助からない。もっとも、私自身は助かろうなんて毛頭思っていないがね」
あきらめきった男の言葉に、苦いツバを飲み込む。
——その時だった。
「……くだらねぇ」
牢の最奥、光の届かない影の中から、吐き捨てるような低音の男声が響いた。
「あんたの不快な身の上話も、そいつの生きているかも分からねぇ女の話も……ヘドが出るぜ」
三人目。暗がりと同化していて、全く気がつかなかった。
影の中からぬっと現れたのは、逞しい肉体を持った男だった。黒髪を雑に伸ばし、頭頂部には妙に主張の激しいアホ毛が一本跳ねている。顔立ちはまあまあ整っているが、眉間に深いシワを寄せ、隠そうともしない敵意をこちらに向けていた。
「そういうあんたは、どういう経緯でここに来たんだ?」
俺が尋ねると、黒髪の男は忌々しそうにチッと舌を鳴らした。
「外で気持ちよく昼寝してたら、気がついたらこのザマだ……クソが」
(バカなのか、こいつは……?)
思わず心の中でツッコミを入れた。
体つきを見るに相応の修羅場を潜ってきた猛者に見えるが、頭のネジが何本か飛んでいるらしい。
「とりあえず、お互いの名前くらいは知っておこう。俺はアレスだ」
「……私はジブラと申します」
メガネの男——ジブラが力なく名乗る。
「……レオンだ」
黒髪の男——レオンは、高圧的な視線を崩さないまま吐き捨てた。
死にたがりのネガティブメガネ・ジブラと、無駄に威圧的で話の通じなさそうな頭筋・レオン。
絶望的な組み合わせだが、嘆いていても始まらない。
「そうか。よろしくな、二人とも。——よし、ここから出るぞ」
「……と、言いますと?」
ジブラが眉をひそめる。
「脱獄に決まってんだろ。手を貸してくれ」
「はは……脱獄したところで、この死の大地に放り出されて終わりですよ。……まあ、そうして野垂れ死ぬのも悪くはないかもしれませんが」
相変わらずの思考回路だ。
そして、もう一人の男へ視線を向けると——
「俺は絶対にお断りだね」
レオンは即座に吐き捨てた。
「なんでだ?」
「お前が『脱獄しよう』と言って、俺がそれに従う。……それじゃまるで、俺がお前の下についてるみたいで気に入らねぇ」
「……お前、友達いないだろ」
「あぁん!? 友達がいねぇことがそんなに不幸せか、コラ!?」
頭を抱えたくなった。
……なんだこれは。
ただでさえ脱出困難な絶望の牢獄で、協調性ゼロのバカと、生きる気力を失ったネガティブ男。
前途多難なんてレベルじゃない。俺たちの脱獄への道のりは、あまりにも遠そうだった——。




