第五話 突然の嬉しい誤算
その日の夕方。
アリシアは執務室で最後の書類に目を通していた。
窓の外は、茜色に染まっている。
「……これで今日の分は終わりですね」
ペンを置いた瞬間、扉が軽く叩かれた。
「アリシア。少しいいか?」
「陛下?」
顔を上げると、レオナルトが立っていた。
いつもの穏やかな笑顔。
けれど、今日はどこか緊張しているように見える。
「どうぞ」
レオナルトが部屋に入ってくる。
そして、アリシアの前まで来ると、しばらく何も言わずに彼女を見つめた。
「……?」
「アリシア」
「はい」
「少し、私の話を聞いてほしい」
いつもとは違う声だった。
アリシアは背筋を伸ばす。
レオナルトは一度深く息を吸った。
「私は、君に何度も伝えてきたな。君が大切だと」
「……はい」
「だが、今日はもう一度、はっきり伝えたい」
レオナルトはアリシアの前に立ったまま、まっすぐ彼女を見つめた。
「私は君を、私の妃にしたい」
アリシアの目が大きくなる。
「……え?」
「君と、この国の未来を一緒に作りたい」
レオナルトは少しだけ笑った。
「君が優秀だからではない」
その言葉に、アリシアの胸が小さく跳ねる。
「君が私の国を救ってくれたからでもない」
一歩、近づく。
「ただ、アリシアという一人の女性が好きだからだ」
「……」
「だから」
レオナルトは、ゆっくりと手を差し出した。
「私と婚約してくれないか?」
静かな部屋に、その言葉だけが響いた。
アリシアは差し出された手を見つめる。
かつて、自分は婚約というものを義務だと思っていた。
家同士の都合。
国同士の利益。
自分の能力を利用するための契約。
だから、婚約が決まったときも、それを受け入れるしかないと思っていた。
けれど、今目の前にいる人は違う。
彼は自分の能力ではなく、自分自身を見てくれる。
仕事をしていない時間も。
何もできない時間も。
ただ隣にいるだけの自分も。
「……レオナルト様」
「うん」
「私で……いいのですか?」
「君がいい」
即答だった。
アリシアは思わず笑ってしまう。
「……ずるいですね」
「何が?」
「そんなふうに言われたら、断れるわけがありません」
レオナルトの表情が、一瞬で明るくなる。
「では……」
「はい」
アリシアは差し出された手に、自分の手を重ねた。
「婚約させてください」
「……本当に?」
「はい」
「後悔しない?」
「しません」
アリシアは微笑む。
「私も、レオナルト様と一緒にいたいです」
その言葉を聞いた瞬間。
レオナルトはアリシアの手を両手で包み込んだ。
「ありがとう」
その声が、少し震えていた。
「……陛下?」
「すまない。嬉しくて」
いつも堂々としている国王が、今は少年のような顔で笑っている。
それを見ていると、アリシアまで嬉しくなった。
「では、婚約の手続きを――」
「待って」
「?」
「仕事の話は明日でいい」
レオナルトはそう言うと、アリシアの手を引いた。
「今日は、婚約が決まった日だ」
「ですが、まだ書類が――」
「明日でいい」
「予算案が――」
「明日」
「農業改革案が――」
「それも明日」
「……」
アリシアが困った顔をすると、レオナルトは楽しそうに笑った。
「君は本当に仕事が好きだな」
「好きというより……放っておけないだけです」
「なら、これからは私にも半分持たせてくれ」
「……はい」
アリシアは小さく笑った。
そして、少しだけ勇気を出して、握られていた手を、自分から握り返した。
「レオナルト様」
「なんだ?」
「これからも……こうして手を繋いでいてもいいですか?」
レオナルトは目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑う。
「もちろんだ」
二人はそのまま、夕暮れの庭へ向かった。
翌朝、王宮中にある知らせが駆け巡ることになる。
――国王レオナルトと、最高顧問アリシア・フォン・ヴァルクレアの婚約が決まった。
そして、その知らせを聞いた隣国の元婚約者が。
「アリシアを返せ!」
と王宮へ乗り込んでくるまで、そう時間はかからなかった。
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