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第三話 気づけば、あなたを探していた

「……少し、疲れました」


アリシアがそう言ったのは、アストリア王国へ戻ってきて三週間が経った頃だった。


「珍しいですね、お嬢様が弱音を吐くなんて」


侍女のマリアが驚いた顔をする。


「弱音ではありません」


「では?」


「事実です」


アリシアは机に突っ伏した。


「一日八時間まで、と言ったのに……」


「毎日十時間働いていますね」


「……」


「昨日は十二時間です」


「昨日は急ぎの案件が三つあったから仕方ないでしょう」


「一昨日も四つありました」


「……」


そのとき。


コンコン。


扉が叩かれた。


「アリシア」


その声を聞いた瞬間。


アリシアの顔が、ほんの少しだけ明るくなった。


「どうぞ」


扉が開く。


レオナルトだった。


「……また増えているな」


机の上の書類を見て、彼は眉を寄せる。


「少しだけです」


「少し?」


「はい」


「昨日、私が『今日はもう休め』と言った後に処理したものだろう?」


「……はい」


「なぜ?」


「気になったので」


「気になったら寝ないのか?」


「そういう日もあります」


「ない」


即答だった。


アリシアは思わず笑ってしまった。


「……何がおかしい?」


「いえ」


「笑っただろう」


「少しだけです」


「なら今日は終わりだ」


「ですが――」


「私が確認する」


「でも、明日の会議資料が」


「私が確認する」


「陛下は国王ですよ?」


「だから何だ?」


レオナルトは書類をまとめると、アリシアの机から遠ざけた。


「君一人に働かせるために、国王になったわけではない」


「……」


その言葉を聞いて、アリシアの胸がほんの少しだけ温かくなった。


前の婚約者は違った。


『君ならできるだろう』


『アリシアなら分かるはずだ』


『君がやったほうが早い』


できるから。


優秀だから。


期待されているから。


だから、やるのが当然。


けれど、この人は違う。


できる私ではなく、疲れている私を見ている。


「……どうして」


「ん?」


「どうして、そこまで私を気遣うのですか?」


レオナルトは少し黙った。


「分からないか?」


「分かりません」


「……そうか」


彼は苦笑した。


「君は、本当に鈍いな」


「?」


その横顔を見ながら。


アリシアはふと思った。


――この人が笑うところを見るのが、好きかもしれない。


自分でも驚いた。


いつからだろう。


レオナルトが部屋に入ってくると、少し嬉しい。


声を聞くと安心する。


名前を呼ばれると、胸の奥が温かくなる。


そして今、笑っている彼を見ているだけで、妙に心が落ち着く。


「……?」


レオナルトが首を傾げる。


「どうした?」


「いえ」


アリシアは慌てて視線を逸らした。


「何でもありません」


「そうか?」


「はい」


けれど。


自分でも分かってしまった。


今、自分は彼の顔を見つめていた。


それを意識した途端。


頬が熱くなる。


「……七年前からだ」


「え?」


「君と初めて会った日から」


レオナルトの告白を聞きながらも。


アリシアの意識は、いつもより彼の表情に向いていた。


真剣な顔。


少し照れた顔。


自分を見つめる優しい瞳。


その一つ一つが、妙に気になる。


「私は、君が好きだった」


胸が跳ねる。


けれど、今までとは違う。


ただ驚いているのではない。嬉しい。


その事実に、アリシア自身が一番驚いた。


「君がアストリアを去った七年間、私はずっと待っていた」


「七年間……?」


「いつか君が戻ってくるかもしれないと思っていた」


「どうして?」


「君がこの国を好きだと言ってくれたから」


アリシアは目を伏せる。


胸の奥が、また温かくなる。


――待っていてくれた。


その言葉が、思った以上に嬉しかった。


「だから、君が帰ってきてくれて嬉しかった」


「……」


アリシアは小さく息を吐いた。


自分でも気づかないうちに、微笑んでいた。


「アリシア?」


「……私も」


「何?」


「いえ」


言えなかった。


『あなたに会えて嬉しい』なんて。


そんなことを言ったら。


自分の気持ちを認めてしまいそうだったから。


◇◇◇


翌朝。


アリシアはいつもより早く目を覚ました。


「……?」


理由は分からない。


けれど。


今日は少しだけ、王宮へ行くのが楽しみだった。


鏡の前で髪を整えながら、ふと思う。


――今日は、レオナルトに会えるだろうか。


その考えが浮かんだ瞬間。


アリシアは固まった。


「……何を考えているの、私」


自分で自分に呆れる。


最高顧問として王宮へ行く。ただそれだけ。


なのに、いつもより少しだけ身なりが気になる。


髪の乱れを直す。


襟元を整える。


そして。


「……別に、誰かに会うわけではないもの」


そう呟いてから。


「……会うけれど」


小さく付け足した。


その瞬間、自分の顔が赤くなっていることに気づいた。


◇◇◇


執務室へ入る。


「おはようございます」


「おはよう、アリシア」


その声を聞いた瞬間、胸がふわりと軽くなった。


「……おはようございます」


レオナルトがこちらを見る。


「どうした?」


「何がです?」


「今日は機嫌がいいな」


「そうでしょうか?」


「ああ」


「……陛下に会えたから、でしょうか」


「え?」


アリシアは言ってから気づいた。


二人の間に沈黙が落ちる。


「今、何と言った?」


「忘れてください」


「無理だ」


レオナルトが笑う。


「もう一度聞きたい」


「聞かなかったことにしてください」


「アリシア」


「仕事を始めましょう!」


アリシアは真っ赤になりながら書類を開いた。


けれど、向かいに座ったレオナルトが嬉しそうに笑っているのを見ると、また胸が温かくなった。


――困る。


本当に困る。


最近、自分の心が自分の思い通りにならない。


◇◇◇


数日後。


アストリア王国で小さな問題が起きた。


国境付近の村で、魔石運搬用の馬車が事故を起こしたのだ。


幸い死者はいなかった。


だが、報告書を読んだアリシアは眉を寄せた。


「この道は危険です」


「直ちに修繕を?」


「はい」


「予算は?」


「私の予算から出します」


「しかし最高顧問の裁量費は――」


「構いません」


そこへレオナルトが入ってきた。


「何の話だ?」


アリシアは顔を上げた。


「あ……」


まただ。


顔を見た瞬間、少しだけ嬉しくなる。


「国境付近の道路についてです」


事情を説明すると、レオナルトは考え込んだ。


「ならば王室予算から出そう」


「いえ」


「なぜ?」


「私が提案した政策です。私の責任で処理します」


「違う」


レオナルトは静かに言った。


「国の道路だ」


「……」


「君一人の責任ではない」


アリシアは彼を見る。そして、胸の奥が、じんわりと温かくなった。


この人はいつもこうだ。


自分が背負おうとすると、一緒に背負ってくれる。自分が前へ進もうとすると、隣に立ってくれる。


決して自分の代わりに歩こうとはしない。


「……レオナルト」


「何だ?」


「ありがとうございます」


「礼を言われるようなことではない」


「いいえ」


アリシアは微笑んだ。


「私は……そういうところが好きです」


「……」


レオナルトが固まった。


アリシアも固まった。


「……」


「……」


「今のは」


「忘れてください」


「無理だ」


「忘れてください!」


レオナルトが笑う。


「アリシア」


「何ですか」


「今の言葉は、忘れない」


「……ずるいです」


「君にだけは言われたくないな」


「どうして?」


「君は私を散々振り回している」


「そんなつもりは……」


「それが一番困るんだ」


アリシアは思わず笑った。


そして気づいた。


自分は今、この人と話している時間が、楽しい。


仕事の話も、くだらない話も、彼の笑顔も。自分をからかう声も。


全部──もっと知りたいと思っている。


──もっと、この人の隣にいたい。


その気持ちだけは、もう誤魔化せなかった。


◇◇◇


その夜、アリシアは一人で庭園を歩いていた。


昼間の言葉を思い出す。


『そういうところが好きです』


「……」


自分で言ってしまった。


けれど、後悔はなかった。


むしろ、少しだけ嬉しい。


「……私、本当にどうしたのかしら」


そのとき。


「アリシア」


後ろから声がした。


振り返る。


レオナルトだった。


「こんなところにいたのか」


「少し散歩を」


「そうか」


彼が隣に並ぶ。


二人で歩き始める。


少しして、アリシアは自分から口を開いた。


「レオナルト」


「ん?」


「明日も……一緒に昼食を食べませんか?」


レオナルトが驚いたように彼女を見る。


「君から誘うのか?」


「……嫌ですか?」


「まさか」


レオナルトは嬉しそうに笑った。


「喜んで」


その笑顔を見て、アリシアも笑った。


――ああ。


やっぱり、私はこの人が好きなのかもしれない。

そう思ったとき、今度は胸が苦しくならなかった。


ただ嬉しかった。


誰かに必要とされたからではなく。


誰かの役に立てるからでもなく。


ただ、この人と一緒にいたい。


その気持ちを、アリシアは初めて自分自身のものとして受け入れた。

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