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第三話 母の願い

春は、山里にもゆっくりと訪れる。



長い冬を越えた畑には若草が芽吹き、川の雪解け水がきらきらと光る。




丹治という田舎にある小さな家に、一人の母と幼い息子が暮らしていた。




父は数年前、流行り病で亡くなった




それ以来、母は畑を耕し、機を織り、人の洗濯まで引き受けながら、たった一人で息子を育てていた




暮らしは苦しかった



それでも母は、息子の前では決して弱音を吐かなかった。




「母ちゃん、おれも畑を手伝う」




まだ幼い息子が鍬を持ち上げようとすると、母は笑って首を振る




「今はたくさん遊びなさい、それが子どもの仕事やで、」



息子は少し不満そうな顔をしたが、やがて外へ駆け出していった




その背中を見つめながら、母は小さく微笑んだ



「大きくなってや……」




それが母の願いだった



吉野山は花供会式という



千年間続いている祭りで盛り上がっていた



母は握り飯を二つ包み、息子の手を引いて山へ向かった





満開の桜が吉野山一面を淡く染めていた




「きれいやな〜」



下千本の七曲り坂で、息子は目を輝かせる。



母も桜を見上げた。


「本当にきれい……。」



風が吹く



花びらが二人の間を舞った



息子は夢中で花びらを追いかける



母は、その姿をただ静かに見つめていた




その笑顔が、何より嬉しかった。




帰り道



息子が不思議そうに尋ねた



「母ちゃんは、蔵王堂でお願いごとしたの?」




母は少し考えてから笑った


「したよ」




「何を?」



母は息子の頭を優しく撫でる

「秘密」



息子は口を尖らせた。

「教えてよ」




「叶ってから教える」


息子は納得できないまま笑った




それから数年


息子は元気に成長した


背は母を追い越し、力も強くなった




しかし、その頃には母の身体は病に蝕まれていた




床に伏せる日が増え、咳が止まらなくなった





ある春の日




母は弱々しい声で言う


「下千本の桜……咲いたかなあ」




息子は涙をこらえながら頷く


「来年は、一緒に見に行こう」




母は静かに首を横へ振った


「あんたが見てきて 」




「嫌や」


「母ちゃんも一緒やないと」




母は細くなった手で息子の手を握る




息子は黙ったままだった



「あんたが元気で笑っていてくれたら、それが母ちゃんの願いや」



息子は声を出して泣いた



母は、その涙を優しく拭った


「泣かへんの」

「春は笑う季節やで」






それが母の最後の言葉だった




翌年


息子は、一人で吉野山の七曲り坂の山桜の下へ来ていた 




握り飯を二つ持って



一つは自分のため 



もう一つは母のため




風が吹く



花びらが静かに舞う




青年は空を見上げ、小さく笑った




「母ちゃん……今年も来たで」




その時だった


少し離れた場所で、一人の老人が桜を見上げていた。




息子は気付かない



老人は静かに頷く



「願いは……届いている」



そう呟くと、一枚の花びらをそっと掌に乗せ、風へ返した




花びらは青年の足元へ舞い降りる



息子はそれを拾い、大切そうに懐へしまった



老人は、もうそこにはいなかった



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