第二話 炭焼き小屋の春
山深い谷を流れる清らかな川。
そのほとりに、小さな炭焼き小屋があった。
春になれば山桜が谷を淡く染め、夏は蝉の声が山々に響き、秋には紅葉が炭窯の煙を彩り、冬には雪が屋根を白く覆う。
そんな山奥で、夫婦は静かに暮らしていた。
夜明け前。
夫は黙って山へ入り、薪となる雑木を切る。
妻は囲炉裏に火を起こし、冷えた味噌汁を温め直す。
決して豊かな暮らしではない。
炭を焼いて山を降りて売りに行っても、手に入るお金はわずかだった。
新しい着物など何年も買えない。
白い飯を腹いっぱい食べることもない。
それでも二人は、不思議と笑っていた。
「今日も無事やったな 」
夫がそう言えば、
妻は湯飲みを差し出して微笑む。
「それが一番ですよ 」
その言葉だけで十分だった。
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春になると、二人には毎年欠かさない約束があった。
炭焼きを半日休み、小さな弁当を持って奥千本まで山を登る。
大きな薄緑桜の木の下で昼ごはんを食べるのである。
握り飯が二つ。
沢庵が少し。
それだけの弁当だった。
夫は照れくさそうに笑う。
「こんなご馳走、殿様でも食べられへんで 」
妻は吹き出した。
「殿様が聞いたら怒りますよ 」
山には二人の笑い声だけが響いた。
桜は何も言わず、花びらを風に乗せていた。
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その年も、桜は見事だった。
夫は木にもたれ、大きく息をつく。
「今年も見られたな 」
妻も空を見上げる。
「ええ 」
少し沈黙が流れた。
やがて妻が静かに言う。
「来年も、一緒に来ましょうね 」
夫は当たり前のように頷く。
「おう、また来よう 」
その約束は、とても小さな約束だった。
けれど、その二人には何より大切な約束だった。
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少し離れた場所。
一人の老人が桜を見上げていた。
古びた笠をかぶり、杖を手にしている。
夫婦は、その存在に気付かない。
老人は二人を見つめ、小さく微笑んだ。
「……今年も、約束を果たしたか 」
誰に語るでもなく、そう呟く。
風が吹く。
一枚の花びらが老人の肩に落ちた。
老人はそっと花びらを掌に乗せると、空へ返すように風へ放った。
花びらは夫婦のもとへ舞い降りる。
妻は嬉しそうに受け止めた。
「あなた、見てください 」
夫は笑う。
「桜が、来年も来いと言うとるみたいや…」
老人は静かに目を閉じた。
そして、二人が帰る頃には、その姿はもうどこにもなかった。
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長い長い年月が流れた。
炭焼き小屋は朽ち、煙を上げることはなくなった。
囲炉裏には灰だけが残り、屋根は傾き、柱は苔に覆われている。
それでも春になると、あの桜だけは変わらず咲き続けた。
まるで、あの日交わされた小さな約束を忘れぬように




