第一話 世捨て人の青年
春。
桜の奥千本として知られる吉野山
その源流から流れ下る渓谷には、雪解け水を集めた澄んだ流れが静かに響いていた。
岸辺の岩に腰を下ろし、一人の青年が釣り糸を垂れている
風が桜の花びらを運び、水面に落ちては流されていく
魚が釣れなくても、青年は竿を上げようとはしなかった
焦る理由など、もう何もなかったからだ
彼は夢を失っていた。
将来も、生きる意味も見つけられず、ただ毎日のようにこの山へ来ては、川を眺めて過ごしていた
山にいる時間だけが、心を静かにしてくれる
だから今日もここにいる
――そして、この春が終われば死のう。
それだけを決めていた
青年は誰にも告げていない、その覚悟を胸に、流れる水をぼんやりと見つめていた
その時だった。
「おい、にいちゃん」
不意に背後から声がする
青年は驚いて振り返った
そこには、一人の老人が立っていた
年の頃は八十を過ぎているだろうか
白髪混じりの髪を後ろへ流し、古びた作務衣に草履姿。
山の風景に溶け込むような、不思議な老人だった。
「釣れるか?」
老人は穏やかに笑う
青年は肩をすくめた
「今日は駄目です」
「そうか」
老人は川を見つめ、小さく頷いた
しばらく二人は何も話さなかった
渓流のせせらぎと、風に揺れる桜の音だけが静かに流れている
やがて老人が口を開いた。
「にいちゃん」
「この先に、大きな桜がある」
青年は首をかしげる
「桜ですか?」
「ああ」
老人はゆっくりと歩き始めた
「見せたいものがある」
青年は少し迷ったが、釣り竿を畳み、老人の後を追った
山道をしばらく登る
人の気配はなく、鳥のさえずりだけが森に響いていた
やがて視界が開ける
そこには、一本の巨大な桜が立っていた
幹は何人もの大人が手をつないでも囲みきれないほど太く、枝は空いっぱいに広がり、無数の花を咲かせている
風が吹くたび、花びらが雪のように舞い落ちた
青年は思わず息をのむ
「……すごい。」
老人は桜を見上げ、静かに微笑んだ
「この桜は、多くの人の人生を見てきた」
そう言うと、老人は青年の方へ向き直る
「触れてみろ」
青年は半信半疑のまま、ゆっくりと桜の幹へ手を伸ばした
指先が樹皮に触れた、その瞬間――
世界が白い花びらに包まれた
風が止み、景色が揺らぐ
聞こえてくるのは、どこか遠い、人々の笑い声
青年の意識は、遠い過去へと吸い込まれていった
舞い散る花びらが視界を覆い尽くし、やがて風の音だけが耳に残る
次に目を開けた時、そこは見知らぬ春の日だった。
空はどこまでも青く、満開の桜が山を淡い桃色に染めている
青年は戸惑いながら辺りを見回した
すると、一組の若い男女が桜の木の下に立っていた
二人は寄り添い、楽しそうに笑い合っている
青年の姿には気付いていない
まるで、自分だけがこの光景を見ているかのようだった
若者が優しく恋人の手を握る
「来年も、ここで桜を見よう」
恋人は少し照れくさそうに微笑み、小さく頷いた
「うん。約束よ」
桜の花びらが二人の肩へ舞い降りる
穏やかな春のひととき
その幸せな時間は、長くは続かなかった
数日後
一通の知らせが家へ届く
若者は黙って封を開き、しばらく紙を見つめていた。
やがて静かに立ち上がる
恋人は何も聞かなかった
ただ、その表情だけで全てを悟っていた
若者は軍服に袖を通す
家族が黙って身支度を手伝い、母は震える手で襟を整えた
父は何も言わず、小さく頷く
恋人は笑顔を作ろうとしていた
けれど、その瞳には涙が滲んでいた
出発の日
再び、あの桜の木の下
若者は恋人に向かって微笑む
「帰ってきたら、またここで花を見よう」
恋人は涙をこらえながら、精一杯笑顔を作った
「待ってる」
若者は振り返ることなく歩き出した
舞い散る桜が、その背中を静かに見送っていた
そして春は巡る
翌年
同じ桜の木の下に立つのは、恋人ただ一人だった
約束の場所
約束の季節
彼女は何度も山道の先を見つめる。
しかし、待ち人が姿を現すことはなかった
風が吹く
桜は去年と変わらず、美しく咲いている
花びらは静かに舞い、恋人の肩へ降り積もった
それでも、若者は帰らなかった
(こ、これは…夢をみているのか!?)
青年は言葉を失った
胸が締めつけられるように苦しかった
その時、再び桜吹雪が視界を覆う
景色が揺れ、風の音だけが響く
気が付くと、青年は巨大な桜の前に立っていた
現代の春
老人は静かに桜を見上げている
青年は震える声で尋ねた
「あれは……本当にあったことなんですか」
老人はゆっくりと頷く
そして、優しく桜の幹へ手を添えた
「人は忘れてしまう」
しばらく沈黙が流れる
やがて老人は桜を見上げ、穏やかな声で言った
「桜は忘れぬ」




