第8話 嘘の代償【セシリア視点】
中庭から戻る道すがら、アイリスは、おかしいくらい静かだった。
いつもなら、堰を切ったように喋る。
今日あったこと、精霊が見せた悪戯、思いついた魔法。けれど今は、私の半歩うしろを、うつむいて歩いている。
ロザリンドと、何を話したのだろう。私は資料を抱えたまま、その背を見ていた。胸の奥に、嫌な予感が、ゆっくりと沈んでいく。
図書塔の机についても、アイリスは口を開かなかった。
窓の光が、傾いていく。羊皮紙の匂い。羽根ペンを置く、かちりという音だけが、やけに大きく響いた。
「ねえ、アイリス」
私は、耐えかねて呼んだ。
「ロザリンドに、何を言われたの?」
アイリスが、顔を上げた。
淡い琥珀の瞳が、まっすぐ私を見る。その目が、いつもと、違っていた。何かを、知ってしまった目だった。
「あの光が、なにをする光か、聞いた」
私の指が、こわばった。
「友愛を、欲情に変える光。深いきずなを持つひとほど、強く効く光。ロザリンドさん、そう言ってた」
アイリスは、ひとつ、ひとつ、確かめるように言葉を置いた。
「ねえセシル。解呪、ほんとは、できたんじゃないの?」
心臓が、跳ねた。
「あの日、陣は光った。わたし、ちゃんと願った。消えろって。なのに、出なかった。式が悪いんじゃない、ってセシルは言った。想定外の干渉が、って」
アイリスの声が、わずかに、震えた。
「でも、ちがうよね。わたしの魔法は、わたしが本気で願えば、ぜったいに生まれる。生まれなかったのは――わたしが、本気で、願ってなかったから。消えてほしくない、って、心のどこかで、思ってたから」
私は、答えられなかった。
この子は、理屈が苦手なはずだった。なのに、本能と感情で、事の核心にまっすぐ手を伸ばしてきた。
「セシルは、気づいてたんでしょう?」
アイリスの瞳が、潤んでいた。
「わたしが、本気で願ってないこと。だから解呪が起動しないこと。ぜんぶ、わかってて――わたしに、嘘、ついた」
沈黙が、部屋に満ちた。
窓の外で、精霊たちが、不安げに揺れている。
ここで、誤魔化すこともできた。
理論的な説明をでっち上げて、煙に巻くことも。
私は当代随一の理論家だ。言葉なら、いくらでも、組める。
けれど、アイリスのその、潤んだ瞳を見て。
私は、悟った。この子に、二度目の嘘は、つけない。
「……ついたわ」
私は、認めた。
「君に嘘をついた」
アイリスの顔が、くしゃりと歪んだ。
「なんで?」
「言えなかったの」
「なんで!?」
アイリスが、立ち上がった。椅子が、音を立てて倒れる。
「なんで、教えてくれなかったの? わたしの気持ちのこと、わたしより先に知ってたなら、なんで――」
言いかけて、アイリスは、言葉に詰まった。
その先を、言えないのだ。だって、その先を言えば。私の気持ちまで、暴くことになるから。
言いなさい。私は、自分に命じた。
今だ。今、言えばいい。私も同じだ、と。解呪が起動しないのは君だけのせいじゃない、私もこの恋を手放せずにいる、と。あの夜、自分に解呪式を当てても、この熱は消えなかった、と。
言葉なら、組める。あらゆる術式を、私は記号に還元してきた。
なのに。
この、たった一言だけが。
「私も、君が好き」という、世界で一番単純な式だけが。
どうしても、口から、出てこなかった。
あらゆる魔法を解析できる私が。生きた『コーデクス・マグナ』が。
いちばん肝心なこの場面で、何ひとつ、言えずにいる。
知性は、こんなにも、無力だった。
「……セシル」
アイリスが、ちいさく言った。倒れた椅子のそばで、肩を、震わせて。
「わたし、もう、わからない。これが呪いなのか、呪いのせいじゃないのか。セシルが、なにを考えてるのかも。ぜんぶ、わからない」
亜麻色の髪が、うつむいた顔に、影を落とした。
風の精霊が、彼女に寄り添おうとして、けれど、触れられずに、まわりをただ揺れている。
「ひとりに、して」
その言葉が、刃のように、私を刺した。
「すこし、ひとりに、させて。セシルの顔、いま、見られない」
アイリスは、私に背を向けた。
扉へ歩いていく、その背中を。私は、追えなかった。手を、伸ばせなかった。
追う資格が、私には、なかった。嘘をついたのは、私だ。本当のことを言わなかったのは、私だ。
扉が、閉まる。
かちり、という音が、塔の静寂に、落ちた。
ひとり残された机で、私は、立ち尽くしていた。
窓の外は、もう、暮れていた。茜が、書架の背を、赤く染めていく。インクの匂い。冷えていく空気。
呪いから始まったはずのこの物語が、今、呪いとは関係のないところで――私が、本当のことを言えなかった、ただそれだけのことで、壊れた。
私は、机に、両手をついた。
完璧な式なら、いくらでも書ける指が。
たった一言の、勇気の式だけは、最後まで、書けなかった。




