第10話 呪われたから、好きになったわけじゃない【セシリア視点 → アイリス視点】
夜の図書塔で、私は、ひとり、机についていた。
蝋燭は、もう短い。羊皮紙の匂いと、冷えた空気。手元には、解呪式の検算。けれど、もう何刻も、ペンは動いていなかった。動かす意味が、わからなくなっていた。
解呪は、起動しない。アイリスの本能が、拒んでいるから。そして私は、本当のことを、言えなかった。
知性は、こんなにも、無力だった。
そのときだ。
塔の階段を、駆け上がってくる足音が、聞こえた。
誰よりも知る、聞き違えようのない、あの足音。
扉が、勢いよく、開いた。
アイリスが、立っていた。
肩で、息をして。亜麻色の髪が、乱れて。けれど、その胸に――金色の光を、両手で、抱いていた。
「セシル」
彼女の瞳が、まっすぐ、私を射た。
「見て。これ、わたしの、ほんとうの気持ち」
彼女が、両手を、開く。
金色の光が、ふわりと、部屋に広がった。
あたたかい。私は、息を呑んだ。
これは――見たことのない術式だ。解呪でも、攻撃でもない。
「あたらしい魔法、生まれたの。消す魔法じゃない。証明する魔法。呪いを、ぜんぶ剥がして、それでも残る気持ちだけを、見せる魔法」
光のなかで、私は、見た。
ロザリンドの呪いの、赤い糸が、すでに、解けて消えていることを。そして、その下に――消えずに、灯りつづけている、彼女の想いを。
「呪い、剥がしたよ。ぜんぶ。でも、これは、消えなかった」
アイリスの声が、震えた。涙が、頬を伝った。
「わたし、ずっと前から、セシルが、好きだった。光に撃たれるより、ずっと前から。呪いのせいじゃ、なかったんだよ」
私の、喉が、詰まった。
彼女は、自分の力で、答えに辿りついた。私が、言えずに隠していた答えに。理屈ではなく、本能で、まっすぐに。
あらゆる魔法を解析できる私が、最後まで書けなかった式を。この子は、たった一晩で、生み出してしまった。
「ずるい」
気づけば、私は、そう言っていた。声が、掠れていた。
「君は、いつも、そうやって。私が、何刻もかけて式に起こすものを、ひと息で、生んでしまう」
私は、椅子から、立ち上がった。
結っていた髪に、手をかける。きつく留めていた紐を、ほどいた。黒髪が、肩に、こぼれ落ちる。
ずっと、乱れを許さなかった髪。ずっと、理性で、留めてきたもの。
「もう、証明は、いらない」
私は、彼女に、歩み寄った。
「呪いのせいか、そうでないか。そんなことは、もう、どうでもいいの。── そうだよ。私は、とっくに、答えを持っていた。あの夜、自分に解呪式を当てても、この熱は、消えなかった。私の気持ちも、呪いの、ずっと前から、そこにあったの」
アイリスの瞳が、大きく、見開かれた。淡い琥珀が、みるみる、金色に、染まっていく。本能が、動くときの色。
今は、もう、隠さなくていい色。
「アイ」
私は、その愛称を、呼んだ。声色が、自分でも、変わるのがわかった。
彼女が、ぴくりと、震えた。
「好きよ。ずっと前から。呪いに、撃たれるよりも、ずっと前から」
言えた。
あれほど書けなかった、世界で一番単純な式が。今、私の口から、こぼれ落ちた。
アイリスの顔が、くしゃくしゃに、ほどけた。
彼女が、私の胸に、飛びこんでくる。
その勢いを、今度は、私は、逃がさなかった。両腕で、しっかりと、抱きとめた。
あたたかい。
亜麻色の髪から、陽だまりの匂いがした。彼女の心臓の音が、私の胸に、じかに、伝わってくる。とくとくと、はやい。私の鼓動と、おなじくらい、はやい。
*
セシルの腕のなかは、世界で、いちばん、安心する場所だった。
でも、いまは、それだけじゃない。
安心するのに、胸が、はやく鳴る。あったかいのに、もっと、と、体の奥が、ねがう。
わたしは、もう、その気持ちに、ぞっとしない。だって、これは、呪いじゃない。わたしの、ほんものだから。
顔を、上げた。
セシルの顔が、すぐそこにあった。ほどけた黒髪。濃い青の瞳。いつも揺れないその目が、いまは、わたしだけを映して、やわらかく、揺れていた。
もう、目を、そらさない。
わたしから、背伸びをして、唇を、寄せた。
ふれた瞬間、精霊たちが、わたしたちのまわりで、いっせいに、光を散らした。風が、火が、水が、よろこぶみたいに。
今度は、距離を詰めるためじゃない。ただ、祝福するみたいに。
*
数日後。
ロザリンド・ヴァレンフェルトが、学院を去ったと聞いた。家の領地へ戻ったのだ、と。
ただ、去り際に、ひとことだけ、書き置きがあったという。「あの光の魔導具は、二度と、使わせない」と。彼女なりの、けじめだったのかもしれない。あの硝子細工の奥に、ほんの少しだけ、人間の温度が、残っていたのだと、わたしは思う。
その日の午後。
わたしたちは、図書塔の机に、並んでいた。
「これ、なんて名前にする?」
わたしは、自分の生んだ、証明の魔法のことを聞いた。呪いを剥がして、ほんものの気持ちだけを、光にする魔法。
セシルは、羽根ペンを取り、『コーデクス・マグナ』の、まっさらな最後の頁を、ひらいた。
「君が生んで、私が定式化する。いつもどおりよ」
インクのついた指で、セシルは、すらすらと、式を書いていく。わたしの、めちゃくちゃな「ほんものを見せて」が、誰が見てもわかる、すきとおった言葉に、変わっていく。
最後に、セシルは、その魔法の名を、記した。
Lumen Verum。真実の光。
わたしは、それを、のぞきこんだ。
窓から差す光が、ふたりの頬を、おなじ温度で、撫でていた。




