第7話 絶体絶命
「退却だ! 播磨まで引け! 殿は播磨の兵に任せろ!」
漆黒の闇を切り裂いたのは、将軍・粗鹿の、喉をかき毟るような絶叫だった。
五百の精鋭を率い、大王の威光を背負って播磨へ乗り込んできた傲慢な男の姿は、そこにはなかった。泥と牛の糞に塗れた直衣を翻し、部下を突き飛ばして馬を走らせるその背中は、ただ死の恐怖に追われる哀れな獣そのものであった。
「将軍様! 将軍様をお守りしろ!」
「置いていかれるな! 大和へ帰れ!」
指揮官が背を見せた瞬間、軍という名の巨大な生き物は、その頭脳を失い、ただの逃げる肉の塊へと成り下がった。
火矢に焼かれ、降り注ぐ岩に潰された仲間を見捨てることに、もはや躊躇いを持つ者はいなかった。彼らは武器を投げ捨て、身を守るはずの重い青銅の甲冑を逃げる邪魔だとばかりに脱ぎ捨てるものまで現れた。
宿営地の中央、燃え盛る天幕の残骸の影で、オケはその光景を冷徹な目で見つめていた。
「……これが、大和の誇る精鋭の末路か」
オケの呟きは、風音に消えた。
オケとヲケの祖父は五代前の大王だった。大王位は祖父の弟たちに引き継がれたが、いずれは父市辺皇子の下に戻ってくるはずだった。もし父が大王位を継承していたなら、息子のオケとヲケは一団を任される将軍になっていたかもしれない。
オケとヲケは、自らが率いたかもしれない大和兵達がなすすべなく壊滅する姿を複雑な思いで見つめた。
オケの腕の中では、根日女が泥にまみれながらも、じっとその光景を凝視していた。彼女が守ってきた播磨の平穏を保証していたはずの巨大な権威が、一晩の奇襲で、これほどまで無様に崩れ去る。その事実は、彼女の清廉な瞳に、どのような影を落としただろうか。
「兄上、あいつら本当に全員逃げてしまった…」
ヲケが、牛の影から叫んだ。
「吉備の兵が降りてきます。今や向こうの方が大軍。悔しいですが俺たちも逃げますか?」
「いや」
オケは即座に否定した。
「今、あの混乱の中に飛び込めば、味方に踏み殺される。それに……あってが全てなくなったわけでもない」
オケの視線は宿営地の西側に向いた。
そこは周辺から一段低い上に日陰になっている。その奥では湧き水が溢れており沼地を形成していた。
そこには、火矢を免れた野鳥たちが、不気味なほど静かに羽を休めていた。
その時だった。
本陣の火が、風に煽られて湿地帯の葦に燃え移った。
パチパチと爆ぜる音が響き、熱風が水面を撫でる。
ババババババババッ!!
凄まじい轟音が谷間に響き渡った。
数千羽の水鳥たちが、火の粉に驚き、一斉に飛び立ったのだ。狭隘なすり鉢状の地形が、その羽音を何万倍にも増幅させ、岩壁に反響させた。
「な、何だ!? 今の音は!」
逃げ惑っていた大和兵の一人が、足を止めて悲鳴を上げた。恐怖に支配された者には、ただの羽音も別のものに聞こえてしまう。
「馬の足音だ! 騎馬軍団だ!」
「吉備の数万の騎馬が、地を埋め尽くして突撃してくるぞ!」
恐怖に支配された彼らにとって、それはもはや鳥の羽音ではなかった。
暗闇と絶望、そして昨夜将軍から植え付けられた牛鬼の恐怖が、ただの羽音を吉備の騎馬突撃の鬨の声へと書き換えてしまった。
逃走の速度はさらに加速した。混乱した兵たちは、足元の見えぬまま崖下へと滑落し、あるいは互いの首を「吉備の伏兵だ」と勘違いして斬り合い始めた。
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「……愚かなり、大和の兵よ。己の心の中にある鬼に食われおったか」
闇の向こう、崖の上から低く冷酷な声が響いた。
吉備の指揮官の声だった。
彼は、手にした黒い鉄剣を抜き放ち、眼下の地獄絵図を見下ろしていた。彼らは一歩も動いていない。ただ火を放ち、石を投げた。
大和の兵はたったそれだけの攻撃と野鳥の羽音であっけなく壊滅した。
「全軍、この崖を降るぞ。掃除の時間だ。……生き残った大和のの雑兵どもを始末しろ。ただし指揮官か戦巫女がいれば生け取りにしろ」
黒い鉄甲を纏った三百の影が、蜘蛛のように崖を滑り降り始めた。
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「小柄様! 大和の連中は完全に消えました。これからやってくる吉備の兵を我らだけで防がなければなりません」
オケの声に、赤石小柄は我に返った。
彼の周囲には、震えながら武器を構える五十人の播磨兵たちがいた。彼らは戦士ではない。里を守る自警団の延長であり、大和の将軍の顔色を伺うことに明け暮れていた農民たちだ。
「オケ……我らだけでどうしろと言うのだ。相手はあの吉備だぞ。装備はおそらく鉄の剣だろう。大和の兵なら鉄の剣も防げようが、我らの青銅の剣ではとても太刀打ちができない」
小柄の弱気な言葉を、オケの鋭い瞳が射抜いた。
「小柄様、見てください。あそこにいる根日女様を」
火の光に照らされた牛の影で、根日女は震える侍女たちの手を握り、静かに祈りを捧げていた。泥に汚れ、髪は乱れているが、その背筋だけは凛と伸びている。
「賀茂の里のもので、根日女様を大切に思わないものはいません。根日女様は賀茂の里希望です。その希望が我らを信じ、この牛の泥の中に留まっておられる。……我らが逃げれば、あの方は吉備の慰みものになる。そうなれば、賀茂の里には二度と恵みの季節は巡ってこないでしょう」
オケの言葉は、小柄の迷いを断ち切った。そして声の届く範囲にいた、播磨兵たちの胸にも重く響いた。
彼らは、自分たちが何のためにここにいるのかを思い出した。大王への忠誠ではない。吉備の国への恐怖でもない。自分たちの里、自分たちの土、そして自分たちの象徴である「巫女」を守るために、ここにいるのだ。
「……分かった。いや、分かっていたのだ。俺も、あんな臆病な将軍の尻を追いかけるのは、もう御免だと思っていたところだ」
小柄は、自らの青銅の剣を鞘から引き抜いた。その剣先は微かに震えていたが、足は一歩も引いていなかった。
「播磨の男ども、聞け! 我らは捨てられたのではない! 我らが大和を捨てたのだ! ここからは播磨の戦いだ。根日女様を、この地の一握の土を、他国者に踏みにじらせるな!」
「おおおぉぉ……っ!」
地を這うような、低い咆哮が播磨兵たちの間から漏れた。
それは「軍」の喊声ではなかった。己の巣を守ろうとする野獣の唸りだった。
オケは播磨兵のその姿を見て満足気に頷いた。
だが数秒後にはまた鋭い目つきの冷静な顔に変わっていた。
「ヲケ、牛の配置を変えろ。これまでは盾だったが、これからは罠にする」
その言葉と共に飛ばされたオケの指示は、驚くほど具体的で、かつ非情だった。
オケは逃げ去った大和兵が残していった盾や、壊れた馬車の車輪、さらには空になった酒瓶までをも使い、北側の斜面に即席の防御陣地を構築した。
「兄上、これだけで三百を止められるでしょうか?」
ヲケが、重い丸太を運びながら尋ねた。
「三百の全員と戦う必要はない。すでに大和の兵の大半は逃げてしまったんだ、奴らにとってこれから行うのは掃討戦つまりは掃除だ。奴らの心の中ではこの戦にはすでに勝利したと思っているかもしれない。
その傲慢さを、この泥濘に沈めてやる」
オケは、傍らで見つめる根日女に歩み寄った。
彼女の清浄な白い衣は、今はもう、見る影もなく泥に染まっている。
「根日女様。不快な思いをさせて申し訳ありません。ですが、今しばらく、この泥の中に耐えていただけますか」
根日女は、ゆっくりと顔を上げた。
彼女の瞳には、もはや「巫女」としての虚飾はなかった。そこにあるのは、一人の女性としての、そして土地を愛する者としての、強固な意志だった。
「オケ。私は、この泥を汚いとは思いません。……私を救うために流された貴方の汗も、牛たちの吐息も、私を逃がした大和の方々の金ぴかの鎧より、ずっと尊いものに見えます」
彼女は、泥のついた手でオケの腕をしっかりと掴んだ。
「戦ってください。私には播磨の民の無事を祈ることしかできませんが」
その瞬間、オケの脳裏に、かつて父・市辺皇子が語った言葉が蘇った。
「王とは、玉座に座る者ではない。泥の中に座り、民と共にその重みに耐える者だ」
オケは、懐に隠した勾玉を握りしめた。
今まで、正体を隠し、ただ生き延びることだけを考えていた。大和への恨みと、皇子としての矜持を封じ込め、牛飼いの仮面を被り続けてきた。
だが、今この瞬間、彼は確信した。
この理不尽な世界を、この泥だらけの現実を、自分の「知恵」と「力」で変えなければならない。
その為には、まずはこの窮地から抜け出さなければならない。
「……来ます」
霧の向こう、西側の急斜面から、黒い影たちが音もなく降りてくる。
吉備の鉄の衆。
彼らはまだ知らない。
大和の将軍が逃げ出した後のこの「墓穴」に、本物の龍が潜んでいることを。
「小柄様、兵を伏せさせて。……吉備の衆が、この防御陣地の奥の底に足を踏み入れた瞬間に、合図を出します」
オケは、折れた青銅の矢を一本、手に取った。
その目は、もはや牛を追う者の目ではなかった。
日ノ本の歴史から抹消されようとしていた貴種の龍が、その長い眠りを終え、ついに咆哮を上げようとしていた。
宿営地を包む霧が、一層深くなる。
夜明け前の最も深い闇の中で、播磨の五十人の命運を賭けた、合戦が今始まろうとしていた。




