第8話 オケの策略
夜明け前の船坂峠は、乳白色の深い霧に包まれていた。
大和軍が逃げ去った後の宿営地には、焼け残った布の焦げる匂いと、逃げ遅れた兵たちの呻き声、そして静かに漂う死の気配が満ちている。
その静寂を、カシャン、カシャンという、硬質な金属音が規則正しく刻み始めた。
「……来たぞ。息を殺せ」
オケの低い、だがよく通る声が播磨兵たちを引き締める。
なんで牛飼いが指示を出しているんだ。
という声は、幸い上がってこない。昨夜の牛鬼の一件でオケの事を認めている者が多いのだ。また、オケの事を認めていないものも、この窮地を脱するにはこの牛飼いの知恵を使うのが一番だと感じ取っていた。
五十人の兵たちは、オケの指示通り、煙と霧が混じり合う影に身を潜めていた。彼らの手にあるのは、自分たちの青銅の剣や、大和兵が捨てていった盾、そして先ほどオケの指示で急造した長柄の槍だった。
槍と言っても竹槍や天幕の柱に青銅の短刀をくくりつけたものなど、即席のものばかりだった。播磨兵達はこの装備で鉄剣を携えた吉備兵にどう立ち向かえばいいのか皆目見当がついていない。
それでも、小柄や根日女がオケの事を信じているので兵達もそれに従っていた。
霧の向こうから、一団の影がゆっくりと、確実に近づいてきた。
彼らは黒い甲冑を纏っていた。
播磨兵が身につけているようなだ薄い青銅の板を重ねたものではなく、厚みがあり、鈍い光を放つそれは鉄の武具である。
鉄はそれは吉備の国が誇る最先端の技術であり、鉄の生産、鉄製武器の開発に関しては大国大和をも上回っていた。
鉄の一団はオケ達が築いた陣地を見てその動きを止めた。
「……ほう。ゴミの中に、まだ生きているネズミがいたか」
吉備の兵たちの中心から、一人の大男が歩み出た。指揮官のようだ。
指揮官の男は、背の高さほどもある巨大な鉄の長剣を肩に担いでいる。彼の目は、逃げ惑う大和兵をなぶり殺しにした直後だというのに、凪いだ湖のように冷え切っていた。
「大和の将は、部下を盾にして馬で逃げたぞ。残された貴様らは、守るべき主君も、帰るべき場所も失ったただの亡霊だ。……無駄な血を流す前に降伏しろ。さすれば命までは取らない事を約束しよう」
男の言葉に、播磨兵たちがざわめく。
圧倒的な体躯、そして見たこともない重厚な鉄の装備。農民の集まりである彼らにとって、それは神話に登場する鬼の軍勢にさえ見えた。
派手な装飾で着飾った大和の兵よりも、本能に訴えかける恐怖は勝っていた。
播磨兵に動揺が広がる。
それを見てオケは小柄の側に移動した。
「小柄殿、怯んではいけません」
オケは小柄の肩を叩きながら言った。
「敵は我らを侮っている。その傲慢さこそが、唯一の勝ちへの道です。
今播磨の兵は動揺しています。それを鎮めることができるのはあなただけです」
オケの言葉に小柄は深く息を吐き、自らの青銅の剣を正眼に構えた。
「吉備の将とお見受けする。私は播磨の兵を預かる赤石の小柄と申す。我ら播磨の誇りを、鉄の重さ如きで測られては困るな。吉備の御方よ、ここから先は一歩も通さぬ」
小柄の名乗りに、播磨兵の動揺が鎮まる。
その様子を吉備の将が興味深気に見つめる。
「なんと、大和の飼い犬が飼い主に見捨てられたのか。……愚かな」
吉備の指揮官が長剣を振り下ろした。
「全軍、この愚かは隣人達を掃除しろ」
それを合図に、三百の「鉄の衆」が、津波のように播磨兵の陣へと襲いかかった。
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最初の衝突は、凄惨なものだった。
「突き出せ! 押し返せ!」
小柄の叫びと共に、播磨兵たちが竹槍を突き出す。しかし、吉備の兵たちはそれを避けることすらせず、鉄の腕当てで叩き折った。
「ガキンッ!」
嫌な音が響いた。
一人の播磨兵が放った青銅の剣が、吉備兵の鉄の兜に命中した。しかし、剣は兜を砕くどころか、根本から無残に折れ飛んだ。
「ひ、ひぃっ……俺の剣が……!」
「馬鹿な……これが鉄の力か……!」
播磨兵たちの間に、一瞬にして絶望が広がった。
大和や播磨の文化において、青銅の剣は権威の象徴であり、最強の武器であった。それが、吉備の鉄の前では、まるで土器の破片のように脆く砕け散る。
その武器の様子がそのまま播磨と吉備の兵士たちの運命を暗示しているように感じられた。
「死ね、百姓ども!」
吉備の兵が放つ一撃は、播磨兵の盾を木っ端微塵に粉砕し、青銅の鎧すらも柔らかな粘土のように簡単に砕く。
即席の陣地と五十人の円陣は、わずか数分で崩壊の危機に瀕した。吉備の兵たちは、まるで稲の刈り取りを行う農夫のように、淡々と播磨兵を追い詰めていく。
その時だった。
「退け! 北の窪地へ退け!」
オケの声が響いた。
「オケ、無理だ! 逃げ場を失うぞ!」
小柄が叫び返すが、オケはすでに根日女を背後にかばいながら、ぬかるんだ窪地の方角へと後退を開始していた。
「信じてください! 奴らの強さは、同時に奴らの弱さだ!」
播磨兵たちは、半ばパニックになりながらも、オケの言葉に従って後退した。そこは周囲よりも一段低く、冷たい水が絶えず湧き出る湿地帯であった。
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「ハッハッハ! 自ら墓穴に飛び込むとはな!」
三百の鉄の衆は、勝ちを確信して湿地帯へと雪崩れ込んだ。彼らにとって、泥に足を取られることなど、自慢の剛力で踏み越えられる些細な障害に過ぎなかった。
だが、それこそがオケの狙いだった。
「ヲケ! 準備はいいか!」
「いつでもいけます、兄上!」
オケの合図と共に、それまで播磨兵の背後に隠されていた牛たちが姿を現した。
その牛たちの姿は異様だった。十数頭の牛の背には、大和兵が捨てていった重い土俵や、濡れた筵が山のように積み上げられていた。
「突っ込め!」
ヲケが指笛を吹く。
牛飼いとして生活する中で彼が身につけた技。その音を聞いた牛達は狂ったように目の前の沼地に突っ込んでいった。
牛達が、湿地帯の中で暴れ始める。
巨体が泥を跳ね上げ、四方八方に駆け回る。そのたびに、すでに足元を奪われ始めていた吉備の兵たちは、突然現れた牛に驚かと共に。泥の深みに足を取られ、バランスを崩した。
それまで統率が取れていた一団に、初めて綻びが生じる。
「な……足が抜けん!?」
「何だこの泥は……底がないのか!」
「なんだこの牛どもは」
吉備兵たちの悲鳴が上がる。
彼らが纏っている自慢の鉄の甲冑は、一式で数貫(十数キロ)もの重さがある。乾いた大地では無敵の防具も、一度足元を掬われれば、着用者を底なしの泥へと引き摺り込む。そして、一度囚われたものは一人では抜け出すことができない。
一方、播磨兵たちは、オケの指示であらかじめ防具を全て脱ぎ捨て、裸足になっていた。さらに、彼らが手に持っているのは、先ほど急造した手製の槍である。
「今です! 刺すのではない、叩き落とせ!」
オケの命令が飛ぶ。
身軽な播磨兵たちは、泥に沈み、身動きが取れなくなった吉備兵に対し、安全な距離から竹槍を振り下ろした。
槍の先には、大和兵が捨てた青銅の武器や防具の破片が括り付けられていた。刃物としては鉄に劣るが青銅がもつ質量は十分なこの場においては十分な武器になった。その重量が、吉備兵の頭上に容赦なく叩きつけられる。
「ぐわぁっ!」
「助け……沈む……っ!」
鎧の重さで身動きが取れず、一度転倒すれば自力で起き上がることすらできない。吉備の精鋭たちは、自慢の鉄剣を振るうことすら叶わず、冷たい泥の中に一人、また一人と姿を消していった。
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「おのれぇ……姑息な真似を!」
吉備の勝利が、泥を撥ね飛ばしながら咆哮した。
彼はその剛力で無理やり泥を脱し、オケのいる高台へと這い上がろうとする。その姿は、全身を黒い泥で汚し、まるで地獄から這い出てきた鬼のようであった。
「オケ、危ない!」
オケの背後に居た根日女が叫ぶ。
吉備の将の鉄の長剣が、オケの頭上へと振り下ろされた。
オケは武器を持っていない。傍らには、震える侍女たちと、言葉を失った根日女。
だが、オケは落ち着いていた。
オケは冷静に足元に落ちていた折れた槍の柄を拾い上げると、あろうことか大男の懐へと一歩踏み込んだ。
「死ね大和の犬!」
剣が振り下ろされる。
しかし、オケは最小限の動きでそれをかわし、手にした剣の柄を、吉備の将の喉元、鎧の継ぎ目に突き立てた。
「……ッ!?」
吉備の将の動きが、止まった。
オケの瞳には、牛飼いや百姓たちが持つ温和さは微塵もなかった。そこには、絶対的な武の頂点に立つ者だけが持つ、凍てつくような威厳が宿っていた。
「……吉備の将。貴方にはなんの恨みがないが、播磨と私自身を守る為。すまない」
オケは、低い声でそう囁いた。
オケが柄を強く押し込むと、吉備の将の巨体は、噴き出した血と共に泥の中へと崩れ落ちた。
その光景をその場にいた全員が見ていた。
周囲に静寂が満ちる。
一拍置いて、播磨兵の雄叫びような声が響いた。
戦況は一変。この戦場における勝敗はこの瞬間に決した。
指揮官を失い、さらに泥の中で蹂躙される仲間たちの姿を見た吉備兵たちは、ついに戦意を喪失した。
「に、逃げろ! 奴らは人間ではない!」
生き残った吉備兵たちは、自慢の鉄の装備を泥の中に脱ぎ捨て、這々の体で峠の西側へと逃げ去っていった。
播磨兵達は追い打ちをかける事はしなかった。それだけの体力は到底残されていなかった。
戦場に、再び静寂が戻った。
霧が徐々に晴れ、朝の光が船坂峠を照らし出す。
そこには、泥にまみれ、肩で息をする五十人の播磨兵たちがいた。
彼らは、自分たちが成し遂げたことの大きさが信じられなかった。大和の将軍ですら逃げ出した吉備の精鋭を、自分たちのような端くれの兵が、一人の死者も出さずに追い払ったのだ。
「……勝った。俺たち、勝ったんだな」
一人が呟き、それが大きな歓喜の渦となって広がった。
「おおおおぉぉぉっ!!」
「やったぞ! 播磨の勝利だ!!」
小柄は、折れた自らの剣を握りしめ、地面に膝をついた。その視線の先には、静かに立ち上がり、返り血を拭うオケの姿があった。
(……あの一撃。あの方の身のこなし……)
小柄は、先ほどのオケの戦い振りを思い出していた。あれは、ただの牛飼いにできる芸当ではない。そして、あの指揮官を倒した瞬間に放たれた圧倒的な「気」。
オケの持つ知恵や戦略眼に着いてはすでに一目を置いていたが、戦闘スキルにまで常人ならざるものを持つとなると…。
(あの牛飼いは……一体、何者なのだ)
その疑念は、小柄だけでなく、根日女の心にも深く刻まれていた。
彼女は、泥だらけのまま自分に歩み寄ってくるオケを見つめた。その姿は、かつて彼女が理想としていた「高貴な大和の神」よりも、遥かに雄々しく、慈愛に満ちているように見えた。
「根日女様。……怪我はありませんか」
オケの声は、いつもの温和なものに戻っていた。
しかし、根日女は知っていた。その穏やかな仮面の下に、この国を揺るがすほどの巨大な龍が潜んでいることを。
「……はい、オケ。私は無事です。……貴方が、守ってくださったから」
根日女は、泥のついたオケの手に、自らの手を重ねた。
てから感じる温もりだけが目の前の男が同じ人間である事を教えてくれる。
「小柄様。……吉備の衆は、今頃は自分たちの砦まで逃げ帰っているでしょう」
オケは、西の空を見つめた。
もうすでに日は高く、遠くまで見通すことができる。
遠くで野鳥が飛び立った。
オケの報告を聞いた小柄は安堵の表情をみせた。
「そうか、では我らも引くとするか」
だがその安堵は、オケの回答ですぐに上書きされる。
「いえそうはいきません」
「なぜだ?」
「我らは、吉備へ行かねばなりません。……戦いではなく、この国の『形』を決めるために」
さっきよりもさらに遠くで野鳥が飛んだ。




