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第6話 船坂峠の誤算

播磨の平野を離れ、西へ進むにつれて、風景はその険しさを増していった。

千種川を離れると、森の木々は深さを増しまばらにあった集落も姿を消していた。

まともな道はずいぶん前に途切れており、獣道と見紛うほどの人一人がやっと通れる細道が続く。

必然、軍の列は縦に伸び、最後尾を牛飼いたちからは兵の姿がほとんど見えなくなっていた。


「……嫌な風だ」


牛を追うオケが、眉をひそめて呟いた。

まだ梅雨には早いはずだが、湿り気のある生暖かい風が汗で濡れた首を撫でる。

切り立った崖の間を吹き抜けらその風は、ヒュウヒュウと笛のような不気味な音を立てている。遠くの方で野鳥がまとめて飛び立つのが見える。

オケはそれを見て再度眉をひそめた。


軍勢の足取りは重い。大和から連れてこられた精鋭たちは、見慣れぬ険路と、昨夜の「牛鬼」の噂による寝不足で、その顔に隠しようのない疲労と苛立ちを浮かべていた。

一方、将軍・粗鹿あらかは、数人の騎馬武者たちと共に山道を急いでいた。昨夜の恐怖が、彼の中から「将軍」としての誇りを削り取り、代わりにどろりとした猜疑心を植え付けていた。

先ほどから吹く生暖かい風も、今の粗鹿には牛鬼の鼻息に感じられた。


峠の中腹、道が大きく蛇行し、周囲を高い断崖に囲まれた「すり鉢状」の平地に差し掛かったとき、粗鹿の命令が下った。


「今日はここまでだ。この平地に陣を敷く!」


まだ日暮までには時間がある。問題なく進めば今日中に峠を越えることもできるだろう。

だが、粗鹿の心に巣食う恐怖心が日の暮れつつある山道を進むことを選べなくしていた。

粗鹿の伝来は時間差で後方を歩く播磨勢にももたらされた。


粗鹿の命令を聞いた瞬間、最後尾で兵をまとめていた赤石小柄あかしのおびとは、その耳を疑った。


「……正気か、将軍様は」


小柄は慌てて周囲を見渡した。

確かに五百を超える軍勢が一晩を過ごすだけの平地はある。だが、その土地の利点はそれだけだった。

すり鉢状のその土地は周囲を山に囲われており、外に通じる道はわずかに二つ。それも今歩いてきたような狭路だ。


「これでは袋の鼠に自らなってしまったようなものではないか?」


気がつくと声が漏れていた。

慌てて口を押さえて周囲を見渡す。どうやら、兵には聞かれていなかったようだ。

戦を知らない播磨兵は、行軍が止まった事と平地で休めることに安堵して気が緩んでいた。

この場所の危険性に気がついているものはいないように見えた。


(誰か話のわかる者の意見を聞かなければ)


そう思い周囲を見渡すと、播磨兵よりもさらに後方を歩いていた牛飼い達が平地部に入ってくるのが見えた。平地に入る瞬間、牛飼いの一人が顔を顰めるのが見えた。

小柄はすかさずその牛飼いの下へ向かった、


「ご苦労だったなオケ」


「これはこれは小柄様。お気遣い感謝いたします」


若い牛飼いは小柄が声をかけるとすかさず姿勢を低くした。牛飼いとしてはおかしくないはずの所作だが、なぜかそこから卑屈さが感じられない。

小柄はその様子を見て、単刀直入に切り出した。


「今日はここで陣を張るらしい。

 私は兵法を学んだことがないが、過去幾度か軍の中で動いたことがある。その経験がここは危険だと告げているのよ」


急に陣について話し出した小柄のことをオケが不思議そうに見つめる。


「昨夜根日女様の危機を救った慧眼の持ち主ならどう思うか、意見を伺いたいと思ってな」


「昨夜もお伝えしましたが私はただの牛飼いです。小柄様のご期待にそう答えなど持っているはずがありません」


「そう謙遜するな。あまり身を引きすぎるとそれはかえって失礼にあたるぞ?」


小柄の言い回しは狡かった。

片や五十といえども兵を束ねる立場の小柄と牛飼いのオケ。二人の身分の上下は歴然だった。

小柄に謙遜するなと言われたことで、オケに逃げ道は残されていなかった。

昨日の一件で目立ちすぎたことを反省し、しばらくは大人しくしていようと考えていたオケにとってはどうしても避けたかった展開だった。

はぁとひとつ息をついて、オケは口を開いた。


「最悪ですね」


オケの声には、一切の感情が籠もっていなかった。


「ここは『籠の中』です。周囲の崖から矢を射かけられれば、逃げ場はない。しかも、底には水気が溜まりやすく、地盤が緩い。敵に囲まれれば、ここは私たちの墳墓になりましょう」


答えながら。オケは、父・市辺押磐皇子いちのべのおしはのみこから授かった兵法の記憶を呼び覚ましていた。地形を制する者は、戦を制する。逆に地形に呑まれる者は、戦う前に敗北している。


「小柄殿、将軍に進言を。少し無理をしてでも、峠のいただきまで登り、視界の開けた場所に陣を敷くべきだと。……あそこなら、四方の動きが見通せます」


小柄は頷き、意を決して将軍の本陣へと向かった。


---


「陣を移せだと?」


粗鹿は、天幕の中に運び込ませた高貴な椅子に深く腰掛け、不快げに顔を歪めた。彼の前には、泥に汚れた膝をつく小柄がいる。


「はっ。この地は周囲を崖に囲まれ、伏兵を許せば全滅の恐れがございます。兵たちの疲れは承知しておりますが、せめて峠の頂まで――」


「黙れ、播磨の小役人が!」


粗鹿は手元の杯を、小柄のすぐ傍に投げつけた。酒が小柄の衣服を汚すが、彼は微動だにしない。


「お前の魂胆など、お見通しだ。貴様ら播磨の者は、昨夜のあの『牛鬼』の茶番を仕組んだのではないか? 私を恐怖させ、この遠征を中止させようと企んでいるのだろう」


「……滅相もございません。昨夜のことは、私共も驚愕しており……」


「白々しい!」


粗鹿は立ち上がり、小柄を指差した。


「昨夜、私の天幕に現れたあの影、あの声。……後で考えれば、あまりに都合が良すぎる。巫女を連れ去ろうとした瞬間に現れるなど。貴様ら、あの牛飼いと共謀して、私を愚弄したな?」


粗鹿の脳内では、自らの「怯え」という恥辱を書き換えるための論理が完成していた。自分が幽霊に怯えたのではない、地方の卑しい民どもに騙されたのだ。そう思い込むことで、辛うじて崩れかけた自尊心を繋ぎ止めていた。


そしてそれは奇しくも、真実と等しかった。


ただしなんの根拠も証拠も無いため、周囲からは言い訳をするようにしか見えていない。それは、隣に立つ護衛の大和兵のうんざりした表情を見れば一目瞭然だった。


「いいか。頂まで登れば、冷たい風に晒される。私の体が冷えれば、大王への不敬となろう。この地は風も遮られ、水も近い。ここを動くことは断じて許さん」


「しかし、吉備の軍勢が……」


「吉備だと? 偵察によれば、この先に正規軍の影はない。いるのは精々、食い詰めた山賊の類いだ。大和の精鋭五百が、そんな連中に遅れを取ると思うか? ……それとも何か。お前たち播磨兵は、山賊が出た瞬間に、また私を見捨てて逃げる算段か?」


粗鹿の言葉には、毒のような侮蔑が混じっていた。

小柄は拳を握りしめ、言葉を飲み込んだ。今ここでこれ以上の進言を続ければ、播磨兵たちが叛逆者としてその場で切り捨てられかねない。


「……承知いたしました。警護を厳重にいたします」


「フン、最初からそうしていればいいのだ。下がれ、不愉快な」


小柄が天幕を出ると、そこには影のようにオケが立っていた。小柄の表情を見ただけで、オケはすべてを察した。


「……聞き入れられませんでしたか」


「ああ。……それどころか、昨夜の件を我らの仕業だと疑っている。オケ、お前の知略が、かえってあの男の意固地さを引き出してしまったようだ」


「いいえ、小柄殿。……あれは知略の問題ではなく、あの男の器の問題です。器の小さな者にその真実を見せれば、それは凶器となって本人を傷つけ、周囲を呪う材料になる」


オケは、西に沈みゆく太陽を見つめた。

空は血のような赤に染まり、断崖の影が、まるで巨大なあぎとのように宿営地を飲み込もうとしている。


---



夜が訪れると、船坂峠は完全な闇に包まれた。

すり鉢の底にある陣地では、無数の焚き火が焚かれたが、その光は周囲の崖に反射して奇妙な揺らぎを生み、兵たちの不安を逆撫でした。


播磨兵たちの持ち場は、最も崖に近い、湿った北側の斜面だった。

その最も北側の焚き火の周りに、オケとヲケそれから小柄の姿があった。


「……おい、オケ。兄上。本当に来るのか? 敵が」


ヲケが、暗闇の中で牛の首を撫でながら囁いた。

オケは無言で、手元の竹筒から水を一口飲んだ。


「今日ここへ着く前に、西の山で野鳥の群れが一斉に飛び立つのを見た。

 あれは西から軍勢が迫っている証拠さ」


「なんとそのような前兆が?

 だがそれならなぜ私が将軍に進言に行った際に教えてくれなかったのだ?」


「あの場でこの話をしても信じられないか、今以上の疑いの目を向けられます」


オケは、短く答えた。


「ヲケ、小柄様。大和の連中は酒を飲んで寝ていますが、私たちは一睡もできません。牛たちを円陣に組み、いつでも動けるようにしておきます。

 小柄様は、根日女様の護衛をお願いします」



---



オケの心配は、その夜現実のものとなった。

断崖の上、月明かりも届かぬ深い樹海の中。

そこには、鉄の甲冑を纏い、息を殺した三百の影が、間抜けな獲物を見下ろしていた。


彼らは山賊ではない。吉備の国主が密かに放った、精鋭中の精鋭――「くろがねの衆」であった。彼らが手に持つ剣は、月光さえ吸い込むような、不気味な黒い光沢を放っている。


「……大和の将軍、あまりにも愚かなり」


吉備の指揮官が、冷たく呟いた。


「自ら墓穴に入るとは。全軍、矢をつがえよ。……合図と共に、火を放て。船坂を、大和の骸で埋め尽くすのだ」


---


船坂峠の夜の静寂を破ったのは、一本の矢の風切り音だった。


それは、中央に陣取った粗鹿の豪華な天幕の頂点を、正確に射抜いた。


「な、何だ!?」


眠りを覚まされた大和兵が叫ぶ間もなく、夜空に無数の「火の筋」が描かれた。


「火矢だ! 奇襲だ!山賊が出たぞ」


誰かの叫び声と共に、宿営地は一瞬にして地獄へと変わった。

崖の上から降り注ぐ火矢は、乾燥した天幕や兵糧を次々と焼き払い、闇を不気味な橙色に染め上げた。


「うわあああ! 熱い、熱い!」

「敵はどこだ! どこから撃ってきている!?」


大和兵たちはパニックに陥った。彼らの多くは、整然とした平地での昼間の戦いしか経験していない。この閉鎖的な「すり鉢」の底で、姿の見えない敵から一方的に攻撃されるという状況は、彼らの理性を一瞬で奪い去った。


「落ち着け! 盾を掲げろ! 崖に向かって矢を返せ!敵はただの山賊だ!」


将軍・粗鹿の悲鳴に近い命令が響くが、誰もそれに従う余裕はない。

さらに、火矢の合間に、巨大な岩石が崖から投げ落とされた。地響きと共に岩が転がり、大和の精鋭兵たちを肉塊へと変えていく。

粗鹿はその姿を目で捉え、ヒッと短く悲鳴をあげた。


敵襲による混乱は播磨兵の間でも広がっていた。


「落ち着け!敵は我らより小勢だ。落ち着いて事にあたれば問題ない」


兵たちの混乱を小柄が懸命に押し留めようとしている。


「小柄様! 牛を!牛を盾にするのです」


小柄にオケの鋭い指示が飛んだ。

播磨兵たちは、パニックになりながらも、オケたちが連れてきた牛のその巨大な体躯の影に身を隠した。

牛たちは火を恐れて鳴き声を上げるが、ヲケがその耳元で不思議な低音の歌を口ずさむと、落ち着きを取り戻す。

矢の雨は牛たちにも降り注ぐが、この事態を想定して土俵を背負わされていた牛たちには大した影響は与えられていない。

兵たちを誘導するオケの目に、逃げ惑う根日女の姿が映った。


「根日女様もここへ」


天幕から逃げてきた根日女と侍女たちも牛の陰へと誘う。


「根日女様なりませぬそのような汚らしい場所に身を置くなど」


「黙れ!死にたいのか!」


侍女の一人が泥と糞で汚れたオケたちを見て悲鳴をあげだが、それを上回る声量でオケが叫んだ。

一瞬の逡巡もなく、根日女が駆け出した。

根日女は着物が汚れるのも気にせずにオケの隣に飛び込んだ。


オケは根日女の体を押し倒すようにして、牛の腹の下に滑り込ませた。

その直後、さっきまで根日女たちがいた場所に矢の雨が降る。


「兄上! 大和の連中、こっちに逃げてくるぜ!」


ヲケの指差す先では、炎に包まれた本陣から、大和兵たちが我先にと播磨兵の守る北側の斜面へと逃げ込もうとしていた。


「助けてくれ! 入れろ、中に入れろ!」


大和の百人長が、小柄の腕に縋り付く。

だが、その瞬間、崖の上からさらなる咆哮が上がった。


「吉備の武威を見よ! 賊将・粗鹿を討ち取れ!」


黒い甲冑を纏った吉備の精鋭たちが、崖を滑り降りるようにして突撃を開始した。

その手にあるのは、大和の青銅剣を豆腐のように切り裂く、吉備自慢の鉄剣である。


「ひ、ひぃぃっ! 山賊ではなく吉備兵だと?

 なぜ吉備の兵がここへ?見張りはどうした」


粗鹿は、高貴な直衣を泥で汚しながら、護衛の兵を突き飛ばして馬に跨がった。


「退却だ! 播磨まで引け! 殿しんがりは播磨の兵に任せろ!」


それは、軍の最高指揮官としてはあるまじき、完全なる逃亡宣言だった。

大和の精鋭たちは、自らの将が逃げる姿を見て、完全に戦意を喪失した。彼らは武器を投げ捨て、馬の後を追って闇の中へと四散していった。


残されたのは、燃え盛る宿営地。

立ち込める肉と布の焼ける臭い。

そして、鉄の剣を構えて迫りくる、吉備の兵。


その前には、泥に塗れながらも、静かに剣を抜く一人の男――オケ。


「……小柄殿。ここからが、本当の戦いです」


オケの瞳の中で、炎が冷たく燃えていた。




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