第5話 牛鬼の呪い
焚き火の爆ぜる音が、一瞬、止まったかのように錯覚するほどの静寂が河原を支配した。
大和の精鋭兵たちが、抜き放った鉄製の剣を揺らしながら、現れた謎の男を凝視する。そこに立っていたのは、泥にまみれ、牛の汗と湿った土の匂いを纏った若い牛飼い、オケであった。
「……何だ、貴様は」
将軍・粗鹿が、獲物を逃した苛立ちを隠そうともせず、濁った声を絞り出した。
「播磨国賀茂里の牛飼い オケにございます」
「ああ、許麻の屋敷にいた播磨の牛飼いか。牛飼いの分際で我に直々に声を変えるなど無礼千万。余程その首がいらないと見える」
粗鹿が剣を抜きオケの首に当てる。
だがオケは一切怯む事なく、跪いたまま粗鹿の目をじっと見据えた。
その瞳のあまりの力強さに、逆に粗鹿が気圧される。
「先刻、小柄へ言ったことを聞いていなかったのか? 我は大和の大王の名代なのだぞ。ここは、播磨の下賤な者が足を踏み入れていい場所ではない。……おい、この男の首を跳ねろ。将軍への不敬、死をもって償わせよ」
粗鹿は後退りながら剣を納める。剣を握っていた手はいつの間にか汗で濡れていた。粗鹿はそれを兵士に見られぬように慌てて拭う。
粗鹿の命令を受けて、護衛の兵が二人動いた。無言でオケに近づくと、研ぎ澄まされた鉄製の剣先が、改めてオケの喉元に突きつけられた。
だが、オケはまたしても眉一つ動かさない。それどころか、その口元には、この場に最も不釣り合いな笑みさえ浮かんでいた。その笑みは嘲笑か憐れみか、それとも自笑だったかもしれない。
だが笑みを浮かべたのはほんの一瞬。そのあとは深刻な顔で深く頭を垂れた。
「将軍様。首を跳ねる前に、一つだけお聞きいただきたいことがございます。……今、貴方様の背後の茂みで、『赤目の主』がこちらを見ておられることに、お気づきではございませんか?」
オケの声は低く、しかし驚くほど明瞭に夜の闇へ染み渡った。
赤目の主という突然飛び出した言葉に、剣を突きつけていた兵士たちの動きが微かに止まった。意味を知らずとも、兵士たちはそれを土地神か物怪の類いであるとすぐに理解した。
最強を自負する大和の兵たちにとって、地方の土地神や物怪の祟りは、剣や盾、ましてや高貴な血では防げぬ、何よりも恐ろしい実在の脅威だったからだ。
「……何だと? 虚言を吐いて命乞いか。見苦しいぞ」
粗鹿は吐き捨てたが、その視線は無意識に背後の深い闇へと向けられた。
「虚言か否か。将軍様なら、この地吉備地に伝わる因縁をご存知のはず」
オケは一歩、ゆっくりと踏み出した。剣先がその胸をかすめるが、彼は意に介さない。
「ここはかつて、吉備の海で神功皇后様に首を撥ねられた、巨大な牛の怪物――牛鬼の怨念が流れ着いた場所。撥ねられた首は怨霊となり、この船坂の麓まで遡り、自らの無念を晴らす機会を伺っている。将軍様は大和の大王より征西大将軍に任じられたお方。そのことは牛鬼も承知のことでしょう」
「……馬鹿な。そんな迷信に私が屈するとでも思うのか!」
粗鹿は叫んだが、その額には嫌な汗が浮かんでいた。愚鈍に見えるかと男。だが曲がりなりにも五百の兵を預かるだけの地位にあるということは大和中央での権力争いを生き抜いてきたということだ。
大和の権力争いには呪いや妖の類を使うものもある事をオケは知っていた。泥沼の権力闘争を経験したことのあるものほど、この手の伝承に弱いことも。
「では、将軍様。鼻を利かせてみてください。……潮の香りと、腐った肉の臭いが混じり合ってはおりませんか?」
オケの問いかけに粗鹿の鼻が動く。
すると確かに、河原の隅から不気味な白煙が立ち上り、鼻を突く異臭が天幕の周囲を満たし始めていた。大和の兵の数名が匂いを嗅いだだけで、顔を真っ白にして倒れる。
それをみた粗鹿と根日女侍女が悲鳴をあげる。
将軍ともあろうものが、侍女と同じ反応を取るなとオケは内心ため息をつきたくなった。
もちろんこれは物怪から発せられる匂いではない。
匂いの正体は、牛の治療に使う硫黄を含んだ薬草と、湿った腐葉土を混ぜて燻したものだ。それを風上から流していたのだ。落ち着いて嗅げば気づけるような単純な仕掛けだが、極限状態の心理に置かれた粗鹿たちには、それが牛鬼が迫り来る合図にしか思えなかった。
「う……確かに、妙な臭いがするな」
粗鹿が顔をしかめた、その瞬間。
渓谷の岩肌を震わせるような、深く、重い地鳴りのような咆哮が響き渡った。
「モォォォォォォォォォォ……ッ!!」
それは、オケたちが連れてきた牛の声ではなかった。
腹の底に直接響き、内臓を掴まれるような、おぞましい重低音。牛に似た何かの声だった。
「な、何だ、今の音は! 牛か? いや、化け物の……!」
大和兵たちが、恐怖で腰を浮かせた。
ヲケの鳴き真似だよ。とオケは心の中だけでほくそ笑む。
牛飼いとして生活する中で身につけた弟の特技が意外なところで役に立った。
弟が役目を果たしたのだ、自分も最後まで道化を演じ切らなければ。とオケは最後の気合いを入れ直した。
「牛鬼の目覚めです!」
オケが叫ぶと同時に、暗闇の中に「赤い二つの光」がぼうっと浮かび上がった。
それはゆらゆらと揺れながら、確実に粗鹿の天幕へと近づいてくる。
それは、オケが磨き上げた赤い鉄片に、焚き火の光を反射させ、細い糸で操っているだけの仕掛けだったが、暗闇の中では、獲物を狙う巨大な怪物の眼球にしか見えない。
「ひ、ひぃぃぃっ!」
粗鹿は、情けなく尻もちをついて後ずさる。
「牛鬼だ! 祟りだ! 祈祷師を呼べ! 盾を持て、私を守れ!」
大和の精鋭たちは、先ほどまで播磨兵を盾になって死ねと嘲笑っていた者たちだ。だが、自分たちが理解できない超常の恐怖を前にして、真っ先に統制を失った。我先にと粗鹿の周囲を固め、闇に向かって盲目的に剣を振り回している。
「将軍様、今のうちに本陣へお戻りください! 牛鬼の怒りは、この大和軍を統べる貴方様に向けられています」
オケの声に、粗鹿はもはや反論する余裕もなかった。
「退却だ! 本陣まで引け! 根日女などはどうでもいい、私の命を、私の命を守れ!褒美は弾むぞ」
無様な叫び声を上げながら、大和の「精鋭」たちは、一人の牛飼いが仕掛けた幻影に追い払われるように、闇の奥へと逃げ去っていった。
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静まり返った河原。
硫黄の煙が夜風に流され、再び澄んだ月光が周囲を照らし出した。
根日女は、膝の震えを抑えながら、呆然と立ち尽くしていた。
侍女は腰を抜かして泣きじゃくり、小柄は、自分の目の前で起きた奇跡……いや、「策略」の全容を理解しようと、目を見開いてオケを注視していた。
「君は牛飼いの……これは一体?。一体どこからどこまでが……?」
小柄が掠れた声で問いかける。
だかオケはそれには答えない。
「小柄殿、すぐに皆を落ち着かせてください。将軍は今夜、二度とここへは戻ってきません。……ですが、明日の朝になれば、彼は自分の怯えを隠すために、この騒動を播磨の不手際として責めるでしょう。
そうならないように、播磨の兵たちに持ち場をしっかり守らせること、根日女様には朝までご祈祷をお願いすることになります」
オケは、先ほどまでの粗鹿に相対していた時の下男の仮面は脱ぎ捨て、冷酷な戦略家を思わせる顔で的確に指示を出す。
「……感謝します、オケ」
根日女が、一歩、オケに近づいた。
その瞳は、恐怖を越え、深い戸惑いに揺れていた。彼女は、泉でオケに言われた言葉を思い出していた。
『高貴な者の汚れであれば、穢れではないのか』
本人も周囲の人間も高貴だと信じて疑わなかった大和の将軍は、泥にまみれた牛飼いの知恵一つで、無様に地を這い、神の影に怯えて逃げ出した。
一方、自分を救ったこの男は、最も卑しいとされる牛飼いの衣を着ながら、誰よりも高く、気高い場所に立っているように見える。
「根日女様。貴女は、ご自身の血が私より尊いと、今も信じておられますか?」
オケは、あえて残酷な問いを投げかけた。
根日女は答えられなかった。
彼女が守ってきた「世界の秩序」が、この夜の闇の中で、粉々に砕け散ったことを自覚していたからだ。
「……分かりません。今の私には、何が正しく、誰が尊いのか。……ただ、貴方が私を救ってくれたこと。それだけは、真実です」
「俺は、俺が守りたいものを守っただけです」
オケは、背後の闇に向かって短く指笛を鳴らした。
すると、茂みからヲケがひょっこりと顔を出した。その手には、巨大な土器の瓶と、仕掛けに使った糸が握られていた。
「兄上、大成功だぜ! あの将軍の野郎、天幕の中でガタガタ震えてやがる」
ヲケの屈託のない笑い声が、緊張の糸を解いた。
「あれ?もしかしてこの中にも本当に牛鬼がやってきたって勘違いしちゃった人います?」
おどけたようなヲケのセリフに小柄は、深く溜息をつき、オケの肩に手を置いた。
「オケ。お前はただの牛飼いではないな。……いや、今は聞くまい。俺たち播磨の兵は、今夜、お前に命を救われた。その恩、決して忘れん」
「小柄殿。……俺は賀茂の里の民です。
播磨国賀茂の里の牛飼いのオケです。
そのオケとしてやるべき事をやっただけです。
もし恩だなんだというのなら明日以降、我らのことをお守りください。我らは丸腰の牛飼い。兵の皆様に守っていただかなければ何もできません」
オケの視線は、すでに西の空――船坂峠に向けられていた。
「粗鹿は使い物になりません。吉備の軍勢は、先ほどの牛鬼などよりも遥かに恐ろしく、鋭い鉄を持っています。彼らを退けるには、播磨の民が、自らの足で大地を踏みしめなければなりません」
オケの言葉に小柄知ったりと首を縦に振り、俺の手を握った。
手を握られたオケは、久しぶりに感じた兵士の手の感触にかつての父の姿を思い出した。
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翌朝。
将軍・粗鹿は、目の下にひどい隈を作り、怯えたような様子で出発を命じた。
彼は根日女の顔を見ることもできず、護衛兵に守られながら、軍の最後尾へと身を隠した。昨夜の傲慢さは微塵も残っていない。
軍勢は、ついに船坂峠へと足を踏み入れる。
播磨とか吉備を分つ場所に……




